第41話 幻想構造の虹
いや、「独り」という言葉で表現してみても、向かう場所や支払う金額が同じだというだけで、その場に求める目的は人の数だけあるといっても間違いじゃないはず。
それはファンという立場だけに限らず、大雑把に目的とされる側(前回の話を引き継げばアイドル)にも同じことが言える。
記憶、応援、主張、優劣、接触、興味、金銭等々。全員が全員、視線の先に見ようとしているものが違うのは当たり前のことだけど、それが卑しくて面白い。
どう足掻いても、ファンはファンという立場に終始する。
たとえファン同士でいがみ合っても、それは決して捕まえられない獲物を示して、「こっちが先に見つけて、ずっと追いかけているんだ」とか、「オレの獲物なんだから邪魔するな」と、冴えない捕食動物が主張している、されているようなものだ。
標的になっている獣は、相手の爪の先が触れるか触れないかの位置まで追い詰められたフリをするが、その実、もっと大きな何かに守られているから、そういう意味で笑っていられる。そんな感じ。
あるいは、ちびっ子がお母さんに「早く宿題をやっちゃいなさい!」と言われて、「いまやろうと思ってたのに!」と怒る心理。
じゃあ、言われる前にさっさと済ませちゃいなさいよ、みたいな。
もしくは、動物園の動物たちは、むしろ入園料を払ってやってきた人間のことを観察して楽しんでいるとかそういう感じ。
うん、これが一番わかりやすかったかもしれない。(だったら先に吐き出したもんは、全部消せよ。別にわかりやすくもないし…)
人に真意を見出せないから希望を失っているのかと言ったら、決してそんなことはない。私にはチューちゃんがいる。
「またチューちゃんか…」と思われるかもしれないが、そう、またチューちゃんだ。
チューちゃんは私にとって太陽であり、神様でもあり、絶対の純粋天使ちゃんだから、私はヒゲをおっ立てて失神寸前。そして同様にウサギさんという種が好きだ。
SNSもウサギさんや、ウサギさんを育てる人々の愛情で満たすようにしている。
おそらく私は、そこに人への希望を見出している。
しかし、そういう可愛い――、あっ、間違えた。きゃわいいふわふわの子たちを見ていると、「いいなぁ」と思ってしまう。
母も姉も、「だったら、また飼えば」なんてあっさり言いやがる。
無論、一緒に過ごせば幸せで満たされるだろう。でも極論を言えば、愛情を向けていた相手の死に触れるのはものすごくツラい。
どこかで書いた覚えがあったり、なかったりなのだが(どっちだよ…)、私はチューちゃんが死んでしまったら、私自身の命も消えて無くなるのだと信じていた。
幼年期、少年期の話ではなく、つい五、六年前の私がそう信じていた。
だからチューちゃんを見舞いに行って帰宅した約三十分後に、動物病院から「いま亡くなりました」という連絡を受けたとき、「世界で1番」を失った絶望と同時に、自分自身がこの世から消えない、チューちゃんのところに行けないことへの絶望と怒りを覚えていた。
ともすれば、情けない、恥ずかしい話に思われるかもしれないが、いまこうして振り返っているときにも泣いてしまいそうになることが、私は嬉しい。
チューちゃんを主眼に据えたとき、なぜ私はいまも生きているのかという疑問は、チューちゃんが好きだという理由で泣いてしまえるのは、私しかいないからだ。それだけで生きている価値がある(と私は思っている)。
あるいは、ホントはあの日に私は消えていて、「私」と主張しているこの私は、もう「私」ではない何者かにすり替わっているのかもしれない。
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