第39話 目に映る珠玉
とある女性声優さんが、ミュージックビデオ内で男性の役者さんと触れ合った。
その事実にショックを受けて、女性声優さんのファンを辞めてしまう人が続出したという話を、去年末だったかに知った。
もとより私は、遠い他者を自らのイメージの中で潔く構築してしまえるその純粋さが、ある意味羨ましいとさえ思う。
そのミュージックビデオの内容は、学校に見立てたスタジオっぽい場所で学生服姿の声優さんと役者さんが、淡い青春(モレッ)を演じていて、二人の手がちょっとした拍子に触れあって「あっ…」となったり、役者さんが声優さんの頭に手をポンッと置いたり…。
歌の内容からすでに淡い青春だったのかもしれないが、適当に聞き流していたからロクに覚えていない。まぁ、歌った本人がこの場を見るわけでもないし、こういう適当さは敢えて素直に吐き出してしまおう、へへへ…。(いつか必ず怒られろ…)
もし私がその声優さんのファンだったとして、ミュージックビデオを見てファンを辞める理由があったとすれば、年齢を超えた人が制服を着て学生を演じているのを見るのが、いつだって苦しいからだ。
テレビや映画で二十歳を過ぎた――、いや、むしろ三十歳に近い役者が高校生を演じている胸キュン青春ラブストーリーなんてのを、朝のニュース番組で紹介されていた期間は、それこそなんだが悲しい気分だった。
本当のところを言ってしまえば、前者も後者も演出を考えた側の意思(悪意)であり、演じる側に関しては「なんか可哀想」になるわけだが…。
私にはファン心理がわからないから、ファンを辞めてしまうくらいに込み上げる、あるいは深く落ち込む感覚がわからない。
あっ、最近は「ファン」ではなく、「推し」という言葉のほうが一般的なのか。
きっとなんでもそうだろうけど、新しい言葉、文化、流行(ここでは「推し」「推し活」という一種の様式、形態)がそれなりに浸透すると、それらに染まろう、染まらなきゃいけない、多数の側に在るべきだ、というような妙な使命感に駆られる外側の人が現れる。
無理をしてでも、主張し得る自分なりの推しを見つけようと急き込む人がいる。
そういう単なる流行かぶれが増えると、いや、すでに現れた時点で、特別、特殊だったはずのその言葉や文化自体は、本質を見失っているのだろう。
とはいえ今回の件に関しては、感情の揺れかたから察するに、みんな「本物」だったはずだ。
「遠い他者を自らのイメージの中で潔く構築してしまえるその純粋さが、ある意味羨ましい」
ともすればこの言葉は、他者への応援を否定する悪意として受け取られたかもしれない。
でも私という人間が「何者か」であるからこそ、同時に何者かである「その人」に向く感情が存在するという事実にふと気付いたとき、嬉しさと悲しさが隣り合って座っているのを見て、私は苦笑いを浮かべるしかなかったのです。
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