第34回 脅威が動く前


 事象や言葉の説得力はどこから生まれてくるものなのか。


 以前読んだ本の中で「あぁ」と納得したのは、みすぼらしい私服姿の医者と、白衣を着た偽医者が医療について話したとき、人は後者の言葉を全面的に信じてしまうという事実。


 結局、人が信用するに足る情報として最速で受け入れているのは、表面的に可視化された形――、見た目や数字、正当なのかどうか曖昧な外側からの評価だ。


 もっと言えば、可視化された形は、重要視されるべき「内容の正否」よりも説得力としての持続性を長く保っている。


 有名であることの価値も、つまりは同じ(似たようなもの)だ。



 たとえば、話題になっている何かがある。それは「話題にしている」でもある。


 多数がそれに触れている事実が、すでに一種の説得力になっている。


 私やあなたが「善い、悪い」「面白い、つまらない」の判断をするよりも先に(それ以上に)、多数の「善い」「面白い」で価値が与えられている、決定付けられているのなら、個人的な意見は外に伝わる術を失う。もしくは、多数の意見に潰されるといってもいい。


 とはいえ、私が私の意思や価値観を全面的に信じていれば、それでいいと思っているのだけど。(だったら黙っとけ…)




 職場の別の部署に所属しているとある人は、いつも誰彼構わず喋りかけ続けているから、「うるさい」とか「迷惑」だと言われて煙たがられ、疎まれている。


 でもその人の業務成績は優秀で、毎月必ず三位以内には入っている。



 成績について知ったのはつい先日のことで、その人は私を呼び止めると、ポケットから折り畳まれた業務成績表を取り出して、私の前で広げて見せて、


「ここ、読んでみな」


 と、羅列された数字の中のひとつを指差した。



 私がその数字を読み上げると、次は一番下の数字を指差して、


「これが先月の平均だよ」


 と言った。


 一見しただけで、その人の個人的な業務成績が平均を大きく上回っているのがわかった。先月は部署で二位だったという。



「どうだ、見直しただろ」


 そう言われたものの、別に私はその人のことを劣っているとも、疎ましいと思ったこともない(うるさいと思ったことはあるけど…)。でも、とりあえず「はい」と答えたし、素直にすごいと実感した。(これも結局は数字による証明だったのだが)



 善くも悪くも、事象や言葉の説得力なんていうのは、内外からいくらでも、どうとでも安易に作り上げてしまえる。ともすればそれは、その人への「表面的な」評価、評判からはじまっているのかもしれない。


 でも実力というのは、外側からの評価によって身につくものではないし、誰かに与えられたからといって一朝一夕で得られるものでもない。



 その人が本物かどうか、説得力がそれとしての本質的な機能を満たしているのか。そこのところは自分の目で見て、触れて確かめて、それとして実感しなければ理解できない。


 その人への他者からの評価を信じることと、私が主観的にとらえて見極めたその人の実力。果たしてどっちが大事で重要なのか。


 深く考えなくても、答えは出るはずだ。





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