第29回 本物は常に右側
私と友人は、最後に卒業した学校が同じだ。
といっても、そこは専門学校なのだけど、学科が違ったし、私は高校を卒業してそのまま入学したのに対して、友人は大学を卒業してから改めて入学したから、在学していた時期がまるで違う。
友人が入学する前に、学校の印象や雰囲気を私にわざわざ電話で訊いてきたのを、ついさっき思い出した。
「わざわざ」という表現はあまりいい感触に捉えられないかもしれないけど、友人がそういうところで私を頼ってくれたことが、当時はすごく嬉しかったはず。(その学校について訊ける相手が、私しかいなかっただけなのだろうが…)
先日、美術館に向かうために地下鉄に乗っている最中、ふとその友人が、在学中に学校のとあるイベントで同じ路線の電車に乗って目的地まで向かった、という話をはじめた。
そのイベントは私が在学中にもあった恒例行事。でも私は地下鉄ではなく、地上を走る路線で目的地まで行った。
なんていう電車の話は置いといて、そのイベント自体がなんだかとっても学生らしい、でも会場等々の規模がやけに大きかったことに、お互いに驚いて楽しくなった。
「そうなんだよ、学生だったんだよな」
言葉にしてみればたったそれだけの短さだけど、記憶の距離は文字数以上にずっとずっと遠い。
「どのくらい?」と問われても、「〇年前」のような、そんな短い音で聞かせてしまえる、理解させてしまえるのは、なんだか惜しい。
神田明神の建物の屋根の上から見えるスカイツリーの頭の先に、それとない遠さを実感する距離感とも違う。
その話題になればスッと取り出せてしまえる、手を伸ばせば届いてしまう距離にある当時の記憶は、当然だけど「いまの私」ではない、酷似した遠い私の像だ。
というような言いかたをしてみても、連綿とした記憶(像)があるということは、「いまの私」が在ることの証明になっているのだから、そこのところはそれとなく誇らしくもある。
一種の懐かしさは寂しさと同意なのか?
否、いまこうして思い出して笑ってしまえる私こそが、当時の私にとっては寂しさの対象なのだと思う。
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