第27回 数センチの差


 先日、友人と久しぶりに美術館に行った。


 美術館に行くくらいだから、美術に詳しいのかといったら、まるでそうじゃない。


 だから今回のように、入場チケットを買い求めるお客が列をなしているくらいに、その作家が国内外で有名、著名な人物だったとしても、私は「これ、まだ完成してないでしょ」とか「変な絵だなぁ」なんて、人前で平気で口にした。


 だから友人は、


「もし周囲からお前に冷たい視線が向けられてたら、オレは全力で他人のフリをするからな」


 と注意された。



 しかしそういう意味では、私は私なりにそれが美術(芸術)かそうじゃないかの評価というか、境界は持っている。


 いや、来場していた七割くらいの人が「わかっているつもり」で、らしく振舞っているのがそういう場なのだろうなんて、行くたびに思っている。




 というのも、展示の中でそこだけは撮影が許可されているフロアがあって、大半の人がスマートフォンを構えて、シャッター音を鳴らしていた。


 こういうとき私は、現物が目の前にあるのに、なぜ自分の目で見ようとしないのかと疑問が湧く。


「後で見返すんだろう」と友人は言ったが、ディスプレイの中では、筆に乗せた色の重みも、筆の走りも見えない(と私は思う)。



 どんな形でも手元に置くこと、所有することを主眼に据えているなら、それは「そのものの物理的価値」でしか見ていないのではないか。果たしてそれが芸術なのか。




「物事の捉えかたは人それぞれだ」


 私の問いに、友人はそんなような答えを返してきたけど、そういう普遍的な価値観としての優しさが、私はどうにも苦手だ。



「わかったつもり」で、らしく振舞っている人たちを「う~ん」と思っているのは、なんとかして形式的にわかろうとしているからで、大体が作品自体ではなく、作品に関しての説明文を読んで納得していた。


 でも、そういうもの(芸術)は、「わからない」をわからないままで面白がればそれでいい。


 だから私は、友人に注意されても、前記したように「わかんない」とか「変なの」と平気で声に出した。



 だって「わからない」を甘受しながら、それでも「わかんない」と笑いながら生き続けているのが世界そのものなのだとすれば、世界をある個人の視点を通して表現しようとしているのが芸術なのだろうから、私が作者と同じ視点で世界を理解できるわけ無いじゃないか。


 だから「わからない」と笑うことこそが、その人の世界を認めてあげることだろ。


 

 もし友人にそう言ったら、きっと彼は溜め息を吐いただろう。





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