第24回 現実までの道標
甥っ子が持っていた袋をひっくり返したとき、居間のソファーの上に何体も転がったのはソフビ人形で、それらは全部最近の仮面ライダーらしかった。
「らしかった」というのは、私は近年の仮面ライダーシリーズを知らないから、
「これは仮面ライダー○○だ」
と姉に教えられても、そうやって重要なタイトルの部分を伏字で表現してしまうくらいに、すでに私は名称を忘れているのか、もとより覚えようとしていないのか。
兎にも角にも「へぇ」と頷くことしかできないくらいに疎い。
その人形は、甥っ子が欲しがっていたから買い与えたのではなく、近所の知り合いの小学生から譲り受けたものなのだという。
変身ベルトまでもらったと聞いたときの、私の「へぇ」が若干高揚したのは、ただ単に値段への評価だったように思う。
というのは、その実わたしも某玩具メーカーの通販サイトで、懐かしい変身ベルトが予約販売されることを知って、意を決して買った。(普段、予約なんてしないし、そういうものには値段的にも手を出さない)
だけど、予約したのが去年の終わりごろで、家に届いたのが今年の春ごろだった。
そのタイムラグ、その数ヵ月の流れの中で「絶対に欲しい!」というあの熱がスーッと冷めてしまったのは、私が悪いのか?
いまも届いた状態のままで部屋にそっと置いてある…。
「おじちゃん、見て」と甥っ子に言われて顔を向けると、すべての人形が両腕を背中のほうに伸ばした状態で、変形ブリッジみたいなポーズにされていた。
「仮面ライダー、番組見てるの?」と訊いたら、「見てるよ、あたしが」と姉。甥っ子は仮面ライダーに(特撮ヒーロー全般に)まるで興味がないらしい。
じゃあ人形や変身ベルトをもらった喜びは、一体どこにあるのだろうか。
姉と甥っ子が帰ったあと、「プレゼント」というもの、というか事象、事柄についてなんとなく考えてみた。
といっても、それは私が体験した「プレゼント」の範疇の話であり、数少ない事例でしか考えられないのだが。
「プレゼント」と聞いたとき、あなたならどっちをイメージして、どっちを望むか。
「自分が欲しいと言っていたものをもらう」
「相手が選んでくれたものをもらう」
別にどっちが善くて悪いなんて答えはない。
でも「プレゼント=気持ち」なのだとすれば、言葉としては後者がしっくりくる。「欲しいもの=リクエスト」だという気もしてしまう。
って、これは選択を間違えた――、いや、「欲しいものをもらってなにが悪い」と思った誰かを非難したいとかそういうことではなく、私自身がそうだった心当たりもあるという話。
たとえば、誕生日に親からのプレゼントは、幼児期から少年期くらいまでは、それこそ「気持ち」を受け取っていた気がする。
(この「気がする」という記憶の曖昧さが不安なのだけど…)
年齢が増して思春期に入ると、プレゼントではなく、ましてリクエストでもなく、つまり、「物」ではなく現金になっていた覚えがある。
それが私自身がリクエストしてそうなったのか、そこのところは記憶にございませんが(悪辣な言い逃れの方法…)、でもいま考えると、それって祝う側の気持ちをないがしろにしていたのではないか、なんてほんのりと嫌な気分になる。もちろん、私が私に対して。
甥っ子は去年の誕生日、室内で遊べる小型のジャングルジムに滑り台がついている遊具が家に届いたとき、両頬を手で挟んで、目をキラキラと輝かせてとても喜んでいたという。
そういう純粋で素直な感動は、どこに行けば買えるのだろうか…。
(売りものじゃないんだよ…)
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