第22回 眩しい曲の効果
時々、ものすごくファストフードの類が食べたくなる。
でも食べないのは、決して我慢をしているとかではなく、ある種の波とでもいえばいいのか、それが過ぎてしまえば「あぁ…」という気分になる。
って、これもニュアンスとしてはそうではなく、衝動に駆られるのだけど、駆け出したその一歩目が地面に触れる前に、すでに衝動は消えて無くなっているとかそういう感じ。
欲しいものと本当に欲しいもの(必要なものではなく、欲しいもの)の違いといって、「わかる~」となってくれればそれで事足りるのだけど、
「結局どっちも欲しいってことには変わりないじゃないか」
と指摘されてしまうと、
「じゃあ藤子不二雄はどうすればいいんだ? キテレツ大百科とウルトラBで五年くらい悩めとでもいうのか(オバケのQ太郎という選択はズルい)」
と返すしかなくなってしまう。
って、心情を吐き出し続けてもどうしようもないのだが、先日、姉が家にやってきたときに「買ってくるから、好きなのを選んで」と、スマートフォンに表示された某Mドナルドのメニュー表を見せてきた。
そのとき、なにが一番悲しかったのかというのは、単刀直入にいえば「食べたいものがなかった」こと。じゃあ、時々やってくるあの一瞬の衝動はなんなのか…。
で、久しぶりのファストフードの、その匂いとか、口にしたときの味に関しても、「あぁ、こんなもんか」でしかなかった。
なんていう言いかたをしてしまうと、某Mドナルドに失礼だ。
そうではなく、その匂いとか味に関しての私自身の期待値が、衝動の積み重ねによって高くなりすぎていたせいで「あぁ…」となってしまったということ。
そもそも、食べ物にこだわりがないから、「美味しい」と「普通の味」の境界がすごく曖昧になっているのだと思う。
きっと物事の大半は、期待すればするほど、その度合いを下回ることが多いのは、知らないこと、わからないものに初めて触れるときの期待や不安が、自分の中で無駄に膨らんでしまうからなのだろう。
たとえば、映像で見て「素晴らしい!」と感激した伝統的な場所があって、ワクワクしながら行ってみたら、近代的な住宅街の真ん中(隅っこ)にポツンとあるだけだった。
映像の中の角度は、実は立ち入り禁止区域から撮られていて、一般の立ち位置からだと、ビル群しか見えなかった。
観光客がたくさんいて、雰囲気なんてまるで無かった。
なんてことは、特にいまはよくあるような気がする。
新しい場所に行かなきゃいけない、新しいことを始めなきゃいけないというとき、悪いところだったらどうしよう、自分に合わなかったら、失敗したらどうしようなんて、そうなったときの「最悪」を身勝手にイメージして、負の感覚を膨らませてしまうのはよくある。
でもいざそこ行ってみると、それをやってみると、
「あぁ、なんだ。こんなもんだったのか…」
と、拍子抜けすることのほうが多い。
私はいま「期待しないほうが物事は上手くいく」という結論に導こうとしていて、そのために言葉を繋いでいたわけだが、しかし、よくよく考えてみれば、「期待しないでどうする」とも思えてきた。
いや、これは「どっちかひとつを選択しろ」という問題じゃない。
そうせざるを得ない事柄については「期待しないほうが――」で、好きではじめた事柄については「期待しないでどうする」にするべきなのだろう。
って、某Mドナルドの話からどうしてこういう答えが出てきたのか。
(知らんがな…)
私がファストフードの類を食べないのは、決して我慢をしているのではない。ただ単に、買うのが、買いに行くのが面倒だというそれだけの話である。
(どうしようもないやつだなぁ…)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます