第16回 善悪な選択肢


 前回の、私のすごくすごく遠い記憶――、後者の「合唱コンクール」に関しては、教室の中にクラスメイトが全員いたはずだから、クラスメイトだった誰かに「こういうことがあった」と聞かせれば「あぁ!」と思い出すかもしれない。


 というのは無駄な期待というやつで、大抵の場合、「私」が持ち得る記憶は「私」だけが体験、体感した事柄になっている。



 そうやって記憶がある種「個人の所有物」になってしまうのは、時間を経ることで風化して変化してしまうからなのか、あるいは、実際に事が起こったあの遠い遠い時間の一幕を記憶として取り込んだのが、すでに「私」だけだったのか。




「プール」のほうに関しては、私の体験はすごくすごくすごく遠い記憶の中の事柄だった。


 でもほんの数十日前のプールでの事故は、私とまったく同じ状況の中で起こったといってもいい。つまり、当時から「プール」と、それを取り巻く環境や在り方に変化がない。




 私はスマートフォンを所有していない。「何故?」と問われると、「必要が無いから」としか言いようがないし、もう少し丸くいえば、「必要とするタイミングを失した」とかそういうことなのか。



 まあ、スマートフォンがあればなんでもできるという、その「なんでも」が私の求める「なんでも」にはまるで当てはまらないというのは、いまの私が思っていることだから、タイミング云々とは違う部分にある考えなのかもしれない。




 以前私は、現在絶賛非公開中の「よだれたキャンディバー」という作品の中で――


 私は個人的に「よだれた――」が大好きなのだけど(自分で言うのか…)しかし、非公開にした理由はいくつかあるのです。


 でも、それらをここで語りはじめるときっと長くなるから、今回は割愛させてもらうが、その中で、


「いくら文明が進化して、身の回りの機器等々が躍進的に、高性能に発達しても、生まれたばかりの子どもは何も知らないゼロの状態――、ある意味原始的な状態でしか始まれないのだから、もとより外側の進化なんて「生きる」というそのもの、根本については、ロクに役に立っていないのではないか」


 というようなことを書いた。




 前回の私のプールの話は「すごくすごくすごく遠い記憶」だとさっき書いた。でも遠いそれと同じ状況が、さらに最悪の結果が、つい最近起こった――



 相手をするのを面倒がった親が、暇を潰させるために手渡したスマートフォンを、三、四歳くらいのちびっ子が当然のように、夢中になって操作してしまえるいまの時代に(操作できるからといって、人間的な成長は皆無なのだが…)私が小学生だった時代から変わらず存在しているプールで、私が体験したそれとない恐怖のその先の出来事が起こってしまった。


 つまり、進化したのは「(人間の)周辺」であり、「周辺機器」だけであって、それを扱う人間は、大人はなにも進化していないといっても間違いじゃないはず(だと私は思う)。




 あるいは、いくら誰かが新しい形を開発したとしても――、たとえば、ちょっと多めにお金を払ってくれれば、場所を提供するし、全部用意するし、後片付けもごみの処理も全部やっておくよ、という手ぶらで行ってできるバーベキュー場のサービスがある。


 それなのに、いまだに知識もないクセに自分たちで食材を買って、無料の場で火を焚いて、飲食して、油を川に流して、ゴミはその場に放置して帰ってしまうモラルやマナーを欠いた「自分(たち)さえよければ」の人間がいる。




 そういう人間の存在は、最近になって急に現れたわけでもなければ、いまの若者はそういうことをしないというわけでもなく、いくら時代が変わっても、時間が流れてみても、どうしようもない者は必ず一定数存在する。



 いや、進化を求める者と、維持や停滞を望む者の境界が、より明確になったような気がするそれが、「世界そのもの」が提示している変化なのかもしれない(笑)






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