第15口 叫ぶ遠い道筋


 先日、小学一年生のちびっ子が、どこぞの施設のプールで溺れて命を落としたというニュースを見た。


 他の生徒がそのちびっ子を見つけたのは、水深1.2メートルの場所で、ちびっ子の身長とほぼ同じだったという内容を見たとき、思わず「あぁ…」となったのは、私も同じ体験をしたことがあったから。


 私は小学校入学当時の身長が98センチしかなかった。1メートルにあと2センチ足りなかった。つまり、ものすごく小さかった。



 でも、小学校に入学したその年の夏休みに開放されていた学校のプール――、いまでもそういう開放があるのかわからないし、ちびっ子が能動的に参加しているのかもよくわからない。

 

 って、今回の一件は、児童が45人も参加していたというから、小学生くらいのちびっ子は、いまも能動的に参加するのかもしれない。



 私は、できればプールに行きたくなかった。


 もとより、学校がずっと好きじゃなかったわけだが、その夏休み中のプール(授業の一環なのかどうかわからないから、どう表現すればいいのか困っている)に参加したとき、見れば明らかに私が小さいことは誰の目にもわかったはず。


 なのに、入水して横一列に並ばされたとき、今回の一件同様、私は一番深くなっているプールのド真ん中に立つ羽目になってしまった。




 いや、「立つ」といってみても、水深は私の身長をはるかに超えていた。だから、沈んでは飛んで顔を出して息をするというのをずっと繰り返していた、一種の恐怖をいまでも覚えている。


 目の前には教師ではない、夏休み中だけ雇われた指導員がいたにもかかわらず、何もしてくれなかった。


「自分でどうにかすれば――」という意見もあるかもしれないが、小学一年生の私にそういう機転を求めるのはやめてほしい。大人に怒られるのは嫌だし、怖いはずだ。

(というか、その時点ですでに大人への信用が薄かったのかも…)



 無論、目の前にいたその指導員を個人的に悪者にしようなんて思っちゃいない。こうしてふと振り返ったときに「どうにかしてやれよ」と、そこにいた大人全員の横っ面を全力で引っ叩いてやりたいだけ。




 自分が体験したそれによって、命を落としたちびっ子がいるという事実は、そのちびっ子の苦しさがわかってしまうし、もっと言えば、記憶の中の当時の私も、いまだにそこで苦しい。


 小学一年生の夏休みのプールの記憶がそのひとつしかないのは、私はその夏休み中に別の場所(隣の地域)に引っ越すことになったから、もうそのプールに入ることがなかったし、(その一件と引っ越しは無関係である)新しい学校のプールはそこまで深さが無かったように思うのは、勘違いなのだろうか。




 でも、こういう事象だけに限らず、私は大人の都合によって、ちびっ子が理不尽な目にあうようなのが気に食わない。って、まぁ、それも自分が散々そういう目にあってきたからなのだろうけど。


 だからといって、ちびっ子が大人をバカにするようなのも許せないのですよ。

(お前の人間性…)





 ずいぶんと古い話を掘り返したから、ついでにもうひとつ。


 これはTwitterで――、あっ、なんか社名もロゴもまるで違うものに変わったみたいだけど、きっと私はしばらくは「Twitter」と表現するだろうというのは、単に口がその形になっているとかそういうやつ。



 で、先日Twitterで「合唱コンクール」というワードが出てきたときに、ふと中学当時、同じクラスだったO君のことを思い出した。


 O君は不良ではなかったのだけど、でも不良っぽかったというか、そういう振る舞いをしていた。


 いくつか年上のお兄ちゃんが不良をやっていて、なおかつ空手を習っていた。中学生くらいだと、なにか武道や格闘技を学んでいる人は強いという偏った印象がある。本当に強いのかどうかは別として。


 でもO君自身も空手を習っていたのかなんて知らないし、私はもう一人のO君(偶然イニシャルが同じだった)が、いろんな意味で強いのをよく知っていたから、今回のO君をそういう目で見た(怖がったりするような)ことはなかった。



 合唱コンクールって、朝とか放課後に全員で練習しなきゃいけなくて、そもそも私は学校で習う歌が当時から、いまでも好きになれない。


 中学生だった私は、まだ身長が低かったから、それでもその音域パートの二列目、真ん中の列に並んでいて、O君は三列目、後列に並んでいた。



 歌の練習を終えると、O君は決まって前列と真ん中の列の私たちに、「お前らの声が聞こえない」「ちゃんと歌ってんのかよ」と文句を言ってきた。いわゆる、


「不良(っぽいも含む)が、学校行事になると、なぜかそれだけには夢中に、本気になる一種のアレ」


 である。



 私はそういう類の人間の「スイッチが入る」みたいなのが嫌いだったのだが、だからといって、私(たち)は決して怠惰だったとか、歌ってなかったわけじゃない。




 というか、ものの原理、原則、道理、科学的な、法則的な形を理解していれば、自分(O君の地点)よりも前に立っている者(私の地点)が、さらに前方に発声しているのだから、その音は自分から遠ざかっていくことくらいわかるはず。


 でもO君はまるで自分が自分の位置よりもはるか前方か、あるいは音の収束地点にでもいるような感覚(心地)だったのか。いや、単にものの道理を本気で理解できていなかっただけなのだろう。いいかい、君はいつまでも後ろに立っていたんだよ。




 だから私ではなく、私の隣で歌っていたS君が業を煮やして、


「ちゃんと歌ってるよ」


 と、強めに反論した。その日の練習が終わった直後、列から離れたS君の背中にO君は飛び蹴りを喰らわせた。


 O君の飛んで蹴っている姿も、蹴られて前につんのめったS君の姿も、私はまだ覚えている。でもS君のことが好きだったKさんのなんとも言えない、悲哀に満ちた表情を、私はなぜか特に忘れていない。




 確か合唱コンクールは優勝した。別のクラスの友人だったT君は悔しがっていた。


 そんなことで悔しがれるT君が羨ましかったのは、やっぱり私は学校が好きじゃなかったからだろう。いや、もっといえば、私は私の学生という身分が好きじゃなかったのかもしれない。



 学生当時の時間を細かく刻めば、楽しい時間はあったはずだが、それらは全て「つまらない」という土台の上でしばらく炙れば、キレイさっぱり蒸発してしまうような連鎖でしかなかったように思う。


 だったら私は、それらをいちいち思い出す私が、なによりも悔しい。


 でも悔しがれるいまの自分が面白い(笑)




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