第14回 昨日気付いた


 まず先に記しておくべきなのは、って、こういう話題を考えるときにはいつも思っているような気がするのだが、今回の「それ」以前から誰がどういう性別であるかを主張してみたところで、善くも悪くも私は「知らんがな」としか言いようがない。


「他人が口を挟むモンじゃない」という表現は、ずいぶんと突き放しているように捉えられてしまうかもしれない。


「それ」に関しては「自分はこうです」と主張されれば「あぁ、そう」で済ましてしまえるくらいに、受け取る側にはある意味軽い、安易なモノであることが最も大事なのではないかというのが私の考え。



 たとえば国が制度として「こうあるべき」なんて一定の答えを出すのは、「今日はアレを食べよう」と決めたところに、


「あなたは昨日コレを食べましたよね。その流れは、国として違反です」


 というような、わけのわからないルールを押し付けられているようで、傾げた首がぐるっと一周して元に戻るくらいの違和感がある。





 って、逸れたまま戻らなくなっても私が困るから、話を元に戻すが、少し前に某芸能人が自分で自分の「生きること」をやめてしまった、自ら命を終えてしまった一件が起きた。



 前述のそれは、その人が持って生まれた性別と、自覚していた性別に違いがあったらしいのと(あまりよく知らないのだが)、それが理由なのかどうなのか、結婚生活もやめてしまったことで、あらゆる方角から厳しい意見を投げられていたらしい。


 というそれが生きるのをやめた直接的な理由なのかわからないから、その部分を広げる必要はないとかなんとか思っておきながら、すでにそこだけで長く語ってしまっているのは間違っているし、私が提示としている主題はそこじゃないから、さっさと話を先に進めよう。





 その某芸能人が亡くなったというニュースが出た翌日、職場に行くと、早速その話題を取り上げている人たちがいた。片方の人が、


「ニュース見ました? ○○、亡くなったって」




 またしてもちょいと横道に逸れた話をすると、私は特に芸能人の名前なんかを平気で呼び捨てにしてしまえる人が嫌いだ。



 いつぞやに、


「芸能人は名前も含めて商品だから、敬称は不要だ」


 みたいな一般論(あくまでも一般論)を見聞きしたことがある。


 なに言ってんだと思う。



 きっとそう言い切れる人は、たとえ見知った人でも、誰に対しても平気で(当人のいないところで)敬称なしで名前を言い放っているのだろうし、でも自分の名前が呼び捨てにされたら、すごくムッとするような情けない人間なのだとは思っている。





 話を戻そう――(もう逸れるなよ…)


「ニュース見ました?」の問いかけに、もう片方の人は、


「あぁ、あれね。ビックリしたよね」


 と返した。




 そこで私がなんとなく納得したというか、理解したのは、職場で見た光景の「その人たちは」という限定的な範囲ではなく、他者はおしなべて遠い相手の死に関しては「驚く」のだということ。



 これも先に記しておくと、私は頭の中のどこかのネジが緩んでいるのか、もしくは何かの拍子に取れてしまったのか、そういう遠い相手の死に関してはロクに感情が動かない。むしろその死の背景のほうに感情が向く。


 その人の大ファンだという誰かが悲報に思わず泣いたとしても、距離の遠さと流した涙の関連性に疑問を抱いてしまうくらいだから、ここで、


「いやいや、その人の死に関して、驚くだけじゃなくて、悲しんだ」


 と反論されても、それこそ「えっ、なんで?」と問い返してしまうかもしれない。いや、そのくらいに私の出した答えは曖昧だということでもある。




 こういう話題――、有名人、芸能人の訃報を諸メディアが取り上げるたびに「なんだかなぁ…」としかめっ面になる。


 結局のところそうやって「誰もが知っているから」という前提で、誰か一人の訃報が大きく取り上げられる時点で、「死」というそのものにも、対象によって優劣とか大小のような価値観、乖離、ある種の差があるんだなぁ、と思い知らされる。




 チューちゃんの存在は、私の中ではいまでもすごく大きい。でもチューちゃんが亡くなったとき、確か私はSNSでその事実を吐き出したが、悲しいくらいに誰がなにを言ってくれることもなかった。


 あっ、いや、そのことについて怒っているとか、恨んでいるとか、当時も怒ったとか、恨んだとかでは決してない。



 チューちゃんが亡くなったその日に、どこかの役者さん(名前は忘れた。女の人だったと思う)が病気か何かで突然亡くなった。


 そっちに関してはTwitterの急上昇ワードみたいなのにも名前が出ていたし、その役者さんを悼むコメントがたくさん世に放たれていた。


 もちろん、その役者さんに怒りを覚えることも、恨むこともなかったが、でもその事実をきっかけに、


「あぁ、生き死にには、ある程度の差があるんだなぁ」


 と、改めて確信を得たような気がする。

(無論、それ以前から感触はあったが)




 とはいえ、じゃあ当時、たくさんの人にチューちゃんの死を悲しんでもらえたら、私自身の悲しみは癒えたのか、こんなに長く、何年も引きずることはなかったのかといったら、それとこれとは話が違う。


 その違いってのは、たとえばその子が亡くなった悲しみから抜け出せない、いわゆるペットロス状態だから、すぐに同じ種の別の子を迎え入れることで物理的な満足感を得られれば、それで落ち着いてしまえる人との違いでもある。



 もとより、「ペットロス」という言葉を作って、それを使えばすぐ次に手を出せてしまえる悲しみの希薄さを自他共に容認してしまえるような雰囲気が、私にはもうわからない。


 それはルークとシェルが相次いで亡くなって、すぐに(一年なんて「すぐ」だと言えるだろう)アリシアを連れて帰ってきた、私の両親にも言えることだ。



 なんてことを考えていたら――、自分たちが愛情をもって育てていた(はずの)動物が亡くなっても、すぐに別の子を迎えられる人が多いのだろうと考えていたら、それよりも他人としての芸能人が亡くなったことは、存在自体がもっと遠い。


 だから、そういう人物の死に関して涙を流すくらいに「悲しむ」のではなく、ただ「驚く」という感情しか生まれない人が世間の大半だという考えは、あながち間違っていないのだろうという気はしている。


 SNSでコメントをしたり、意見した人たちの感情や関心なんて、「いま」ではなく、事実を見聞きした次の瞬間には、何か別の事柄に推移していたのかもしれない。



 そういうのってなにかが違うような気がするが、なにが違うのかなんて部分を私が口にしても、それが違いとして認められることはないのだろうね。





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