第12回 優しい薄紅色


 アリシアはリウマチになってしまって、投薬治療している。


 特にミニチュアダックスフントはリウマチにかかりやすい(と、担当の医者先生が言っていたと母が言っていた)から、あなたがミニチュアダックスフントであれば気を付けたほうがいい、という内容をいつぞやに話した覚えがある。


 どこまで詳しく話したかは、もう忘れてしまったが…。



「そんな話、聞いたことない」というのであれば、それはスマン。



 で、先日、二週間に一度の診察に行ったとき、医者先生に、


「もう治らないと思う」


 とハッキリ言われたらしい。




 この「らしい」は、アリシアを病院に連れていくのは両親だから、向こうでの会話内容はすべて父か母から聞いたものでしかないということだ。



 最近のアリシアは、立ち上がるのにもずいぶんと時間がかかっている。


 痛みがあるのかわからないが、後ろ足に力が入っていないような感じといえばいいのか。さらに言うと、前足にも悪い意味での変化が起こった。




 その日、アリシアの前足があらぬ方向にぐにゃりと曲がっていた。


 私はそれを見て、骨折しているのではないかと、ものすごく驚いたのだが、その見た目と矛盾していたのはアリシア自身の反応で、関節に触れてもまるで痛がる素振りを見せなかった。



 さらに言うと――、先にイメージしてほしいのは、犬(イヌ科もネコ科も)の四肢での立ちかた、歩きかた。


 人間でイメージしてみると四つん這いになって手足の爪先で歩いている形が、イヌ、ネコにとっては正常のはずだが、アリシアは手のひら(人間でいうところの)を床につけて、擦るようにズルズル、ベタベタ歩いていた。


 さらに前足の親指の付け根あたりに穴が開いていて、その奥に骨なのか、足の中に収まっている爪なのかが見えていた。




 後半の「穴が開いていて――」の部分は、一体なにを言っているのか、意味がわからない、想像がつかないかもしれない。でも、大袈裟な表現でもなんでもなく、事実だからそのまま伝えるしかない。


 医者先生いわく、使っている薬の副作用として、諸関節が柔らかくなってしまうから、四肢(前足)のつきかたが変わってしまうのは、リウマチになった子、その薬を使っている子にはよくあることらしい。


 前足に空いた穴に関しては、もうすでに親指の骨が溶けてなくなっているのだという。ちなみに、穴はずっと開いたままではなく、だんだんと肉が盛り上がってきて再生して、いまは完全に塞がっている。



 医者先生は嘘は言わないし、キレイごとは言わない。期待を持たせることも言わない。いつだって最悪の状態を口にするのは、そもそも最低のラインで話を進めていくのが、一種の条件みたいなものだからだろう。


 つまり「もう治らない」は、答えではない。ここでいう「治らない」は、単に「元の状態には戻らない」という意でしかない。



「でしかない、なんて言いかたはどういうつもりだ。元に戻らないってことは、このさき普通に歩いたり、走ったりできないってことだろ。それはとても悲しいことじゃないか」



 アリシアを見ていて「あぁ」と理解させられたのと、いろんな意味で面白いと思ったのは、「治らない」とかそれに類似した言葉で宣告されて大なり小なり落ち込むのは人間だけだ、ということ。



 そりゃまぁ、人間の言葉で告げているのだから、当然、人間が理解出来るように言い放っている。


 言いかたを変えれば、そうなってしまったこと、そう在る状態(治らない)を不幸だと実感する、そうではない状態(元に戻る)を幸福だと実感している、するのは人間だけだ(と、私は思う)。




 ケガや病気によって、消えない傷ができてしまった、どこかが欠損してしまった、外見(容姿)が変わってしまった。


 これでは誰にも見せられない、周囲はこの変化をどう思うのだろうか。


 特に若いうちは強くネガティブに考えがちかもしれない。



 私も昔、死にかけたときに、その前後で容姿が大きく変化してしまった。いまでも不意に起こる症状で医者先生に「そのままにしておいたほうがいい」とかなんとか言われて、変わったままの部分もある。


 まぁ、いい年こいた現在の私は「あぁ」と思うくらいだけど、きっと10代のころなんかはそれなりに落ち込んだはずだ。(覚えてないけど…)


 でも、人間以外の動物は、見た目に大きな変化があったとしても、それでも感情に左右されずに変わりなく「自分」を生きている。




「それは人間と他の動物の知能や感覚の差だろ」



 もしそんなことを吐かすヤツがいたら、私は燃える闘魂ばりに「バカヤロー!」と咆えながら、そいつの頬を全力で引っ叩く。


 あっ、いや、そこんとこは別に正しい答えがあるとか、そういう指摘の代替としてではなく、単に発言が気に食わないから。



 もちろん、アリシアだっていまの状態がそれまでの状態と違うことは実感しているはずだし、上手く立てない、歩けないことに違和感やもどかしさを覚えているかもしれない。


 でも他の部分は、いままでと変わらない。(ずっと寝てばかりいたのに、昨日の夜あたりから急に活発に歩くようになったから、驚いている)




 人って「自分たち」と同じことができない人を嘆いたり、蔑んだりする。(そういう心の貧しい者がいる)


 でも「自分たち」という多数の側に寄った事柄なんてのは、そのどれもが普遍的だし、わかりやすいものでしかない。



 アリシアが――犬や猫や諸動物が、たとえ同種と一緒にいても常に「自分」を生きているのは、ともすれば他者に興味がないとか、種(私)の保存のために真っ先に自分が生き残る、自分を残すための本能に従っているだけなのかもしれない。


 あるいは、「自分」という概念さえないのかもしれない。



 だからこそ、自分自身の形が大きく変化してしまったとしても、それを自分がどう思うとか、誰かにどう思われるかなんてことは、一切気にしないのかもしれない。


 まぁ、身勝手な憶測でしかないのだけど…。





 先日、とある場所で、


「七夕が近いから、願いを書いてください」


 と、ペンと短冊のセットを手渡された。



 母は医者先生の「治らない」という発言に対して、


「でも奇跡が起こる可能性もある」


 と言った。




 もし短冊にそのままを書き記したとしても、神様や仏様の類への願いや祈りというのは、いつだって自分自身が有言実行するための「有言」の部分であって、決して祈ったから願ったから、神様や仏様が手を差し伸べてくれるそういう「奇跡」のことではない。



 つまり、もし本当に奇跡があるとすれば、それはたとえば、私が猛勉強の果てにアリシアの病気を根治させて、なおかつ以前のように歩き、走り回れる体に再生させる技術を思いつくというような、そういう「突拍子もないこと」としかいいようのない超越だ。



 結局私は「これ、もらってもいいですか」と、書き記す願いごとを保留にして、短冊を家に持ち帰った。


 短冊にはまだ何も書いていない。


 部屋のちゃぶ台の上に、いまもそのまま置いてある。







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