第8回 それでも美しい眼


 ちょいと日付を遡って、5月28日。

 東京優駿、いわゆる日本ダービーが行われた。


 その中でスキルヴィングという競走馬が、急性心不全で亡くなった。



 公式のレース映像の中では、第四コーナーを回ってラストの直線があと二百メートルになったあたりで、不意に失速したところまでは見えていた。

 

 その後どうなったのか、自宅で見ていた私にはまるでわからないままで、あとになって全頭の着順を確認したら、スキルヴィングは完走した競走馬(一頭だけスタート直後に騎手を落としてしまって、競争中止になった)の中で最下位のゴールだった。



 二番人気だった競走馬が最下位ってどういうこと? なんて私は訝ったのだけど、でもレースによっては一番人気がなにかしらの理由で最下位になることはないわけじゃない。


 スキルヴィングは、ゴールしたあと、第一コーナーのカーブ手前あたりで急に倒れて、宙で脚を小さく動かしながら立てずにいて、やがて動かなくなってしまった。




 というふうに細かく説明出来るのは、現地(東京競馬場)で観戦していた誰かが映像として記録していたものを某Ytubeにアップロードしたそれを見て確認したからなのだが、スキルヴィングの周囲にはルメール騎手や調教師さんが、悔しそうな、悲しそうな状態でそこに立っていた。


 さらに獣医師さん(だと思う)や、競馬場の係員数人がいろいろと処置をしているのが映し出されているその向こうでは、ダービーを優勝したタスティエーラへの称賛の声が拍手とともに響き渡っていた。そういう温度差が、常に私を暗い意味でよくわからなくさせる。




 この「よくわからない」は、前述の「そういう温度差が――」のあとにどう言葉を続ければいいのか悩んだ、ということでもあるのだけど、だからといって、


「こういう悲しい事態が起こってるんだから、勝った者を称賛するのなんてやめろ! 不謹慎だろ!」


 なんていうふうには決して思わない。



 なにより、そういう陰陽、明暗の関係性なんて、人間の世界じゃ日常茶飯事なのだろうし。

 

 いや、むしろそういう人間の事象に関していえば、悲しい事態にある側を「悲しんでくれる誰か」さえもいない場面のほうが多いのではないか、なんて思う。




 アップロードされていた映像は二つあって――、って、私が見たのはその二つだけだったという意なのだけど、後者のほうでは、撮っていた人の近くで若い男たちが、


「やったー!」


「なっ、11番入れといて正解だったろ!」


「いや~、嬉しい~!」


 みたいな会話も一緒に録音されていた。




 こういう温度差、撮っている当人のスキルヴィングに向けた感情と、買った馬券が当たったことへの大きな喜びを表現する側の、同一の事柄の中に在りながらの意識の乖離というか、そういう感覚の差がよくわからない。



 いや、もちろん競馬はギャンブルだ。だから馬券を買った以上は当たらないとつまらない部分はある。そこんとこは私だってよくわかっている。


 でも私は、競馬は「ギャンブル」という以前に、「レース」として好きだったりもする。


 まぁ、ここで今年の地方も含めた全国の三歳ダートがとてつもなく面白いことになっているという話をしてみても、あなたはキョトンとしてしまうかもしれない。


 もとより、競馬の話だからという理由で、すでに興味を失しているかもしれないから、その面白味については割愛する。



 諸SNSでレース予想をするとか、買った馬券の馬番を提示して「当たれ!」みたいなことを発信している人はそれなりにいる。たくさんいるのかもしれない。


 その中には競走馬の魅力を語っている人もいるし、ファンである競走馬を応援している人もいるのは知っている(数人程度だが)。


 でも、いちいち買った馬券を提示して、「当たれ!」とそっちの面(ギャンブル)だけで競馬を考えている人が、私はどうにも好きになれない。というか、本音を言ってしまえば気に食わない。



 勝手な思い込みだが、きっとそのときのスキルヴィングについても、いや、諸レースでケガをしたり、亡くなったりしてしまった競走馬がいたとしても、別に何を思うこともなく、ただ収支のことだけを考えているのだろうなぁ、なんて思っている。


 まぁ、好きにすりゃいいとも思っている。



 と、こういうある種偏った発言をすると、私は偏った人間だと思われてしまうかもしれないが、どうやら今回のダービーでのスキルヴィングの一件に関して、どこかの動物愛護団体が「生き物の命を――」云々と抗議をしたらしい。


 ともすれば、有名な(大きな)レースで起こったこういう事象に乗じて、ある意味目立つように抗議(文句)を差し込んでくる連中が、私はなによりも気に食わないのかもしれない。




 同じ「競馬」という枠内での捉えかたの違いは、それでも「競馬」を中心に作用しているわけだけど、外側から不意に潰しに来るような連中は、だた「有」を「無」に変えることだけしか考えていない。というか、壊すことしか考えていないのだろう。

 

 特に最近、どういう事柄においても、そういう連中が多い気がする。




 確かに、競走馬が事故や、レース中(練習中)にケガをして長期離脱してしまう、亡くなってしまうのはとても悲しい。


 生まれたときからすでに競走馬という立場、役割を「人間によって」与えられている、運命づけられているのは間違っているかもしれない。


 結局私だって、人間としての立場、目線から語ることしかできないけど、でもあくまでも私は、競走馬は男の子でも女の子でも、「戦士」なのだと思っている。



 そう思わなければやり切れない部分がたくさんある。


 なんて言い方をしてしまうと後ろ暗いかもしれないけど、人間によって与えられたのなら、人間が支えなくてどうするんだと思うし、来月のレースが楽しみだから最低来月の何日までは死なないようにしようという、常の私なりの決意は、


「私は競走馬によって生かされている」


 ということにもなるのではないか。



 だから応援したくなるのだろうし、もっと知りたくなるのだろう。


 金や知名度、私利私欲のためにキレイごとばかりを並べ立てる人間とは違う、自分自身に対する素直さというのか、潔さ、カッコよさがある。




 だから私は、いま巷でベストセラーになっているらしい「19×19まで暗算できる本」とかいうやつは、その本を買う以前に、自分で19×19まで計算して出した答えを暗記すりゃいいんじゃないか。


 本を買う要素はどこにあるんだろう、なんて首を傾げてしまったのである。

(ゴールが滅茶苦茶だよ…)




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