第2回


 前回、両親がアリシアを連れて姉夫婦の家に遊びに行ったとき、川沿いを散歩中に甥っ子のパワーに圧倒されて、両親はもとよりアリシアもグッタリしてしまったという話をした。


 うん、したはず。



 アリシアは翌日からも家のソファーの上でグッタリしたままで、相当な疲労が溜まっていたんだろうなぁ、なんて思ったのは、普段そこまでの運動量がないからなのだけど、それが二日経っても三日経っても続いていたから、なにかがおかしいという気はしていた。


 その「なにかがおかしい」というある種の懸念は、シェルに起因している。というか、私はシェルのことを思い出す。




 調子が悪そうなのは明らかだったけど、


「病院に連れて行ったほうがいい」


 という私の発言を両親がないがしろにして放置していたことで、それから数日後にシェルは亡くなった。



 そんな言い方をしてしまうと、「連れていけば助かった」という意に捉えられかねないが、シェルは高齢だったし、いわゆる臓器不全とかそういう名称で示される寿命だったから、実際は、


「連れていけば、苦しまずに命を終えられたかもしれない」


 くらいにしか言えない。




 なんていうそれが常に頭をよぎるから、アリシアのグッタリ加減も心配になってきた。アリシアはまだ四歳だし、苦しそうでも、痛そうでもなかったのだけど。





 こういうときに両親だけでなく、私自身も錯覚し続けているはずなのは、アリシアを「犬」として見てしまっているところにある。



「お前、なに言ってんだよ。アリシアはミニチュアダックスフントなんだろ。だったら正真正銘の犬じゃないか」


 

 ともすればあなたはそう言いながら、河原で拾ったキレイな石を、結構な速度で私にぶつけようとしているかもしれないが、私が提示している「犬」というのはそうではない。



 要するに、私と両親はアリシアのことをルークやシェルと同じ「犬」という、ただそれだけの同一視をしていた部分があったということ。




 まず根本的に、男女の違い。


 特にルークはアリシアと同じミニチュアダックスフントだから、違いを比較しやすい。



 ルークは筋肉量が多くて、尻肉なんかは老いてもパンッと張っていた。


 でもアリシアは女の子で元々から筋肉量が(ルークと比較して)少ないから、当時の記憶をひきずっているそのままの状態(知識、情報というべきか)でアリシアに接していた私たちは、


「この子は他の犬と比べて運動量が少ない」


 みたいな、差異や平均値を誤認した考えかたを通してしまっていた。




 さっきも言ったけど、そりゃ男女では筋肉量や運動量に違いがあって当然だ。



 なんてことを何回も言うと、ジェンダー云々を偏った視点、角度で主張したい人たちが、とげとげしい意見や、人格を否定するような文句をぶん投げてきそうだが、私は「すっこんでろ」としか返さないから、その点はどうでもいい。




「犬」という同一視や、ある種科学的な筋肉量うんぬん、男女の差以前に、人間も含めたどの動物にも性格や体質に違い(個性)がある。

(前述のそれだってそうであり、そうでしかない)



 性格に関しては細かくなってしまうから割愛するが(ホントは面倒臭いだけ…)、体質に関しては、ルークは牛乳を飲ませると必ずお腹を壊していたから、それに気付いてからはもうあげることはなくなった。



 アリシアは、季節の変わり目になると必ずアレルギー症状が出て、目が腫れることもあれば、倦怠感を丸出しにしていることもある。


 今回もやっぱりアレルギーだったようで、目は腫れるまではいかなかったものの、ちょっと充血しているところがあった。


 でも先週には元気を取り戻して、うるさく吠えていたからホッとした。





 という一連の事態、アリシアのグッタリした状態が今回はやけに長かった気がして、でも母が、


「(グッタリしていたのは)ここ2、3日くらいでしょ」


 なんて適当なことを吐かしやがったから、


「あんたらがアリシアと姉夫婦の家に行った日からグッタリしていた」


 と説明したら、母は自身の日記帳を持ってきて、姉夫婦の家に行った日がいつだったかを調べ始めた。




 ちなみに、母の日記帳は誰の目にも触れる棚の上にポンと置いてあるのだが、それでも誰も触れようとか、盗み見ようとしない。


 モラルとか自制心とかそういう感覚の強さなんかではなく、単に母の記す文字が象形文字並みに解読不能な形をしているからで、それらは全て母が読むためだけに存在しているといってもいい。



 そして両親が姉夫婦の家に行ったのは、四月の頭だったと日記から判明した。


 この数週間(約一ヵ月)をたった二、三日だと勘違いした母の時間への感覚は、一体どういうつもりだったのか…。





 十年くらい前に読んだ本を、改めて読んでいたら、とある話題の中で作者が、いま(約十年前)は保証やサービスをたくさんつけてくれるペットショップがあると言っていた。



 詳しく話すと細かく長くなるから割愛させてもらうのだけど、すごく簡単に結論を言ってしまえば、その店の言いなりになって、店側が出している説明等々を鵜呑みにすることしかできない人は、それだけの人でしかない。



 犬でも猫でもウサギでも、「その子(この子)」が欲しいと思っているのに、「その子(この子)」の前提となっている、犬や猫やウサギそのもののことでさえも自分で調べよう、学ぼう、理解しようとしない人は、そもそも動物と暮らしても一切の成長(人間的な)がないと言っていて、さらにそのあとに、


「むしろそういう人間と暮らさなければいけない諸動物にとっては、その時間は悲劇でしかない」


 というようなことを言っていた。




 私は「そうだよなぁ」なんて思ったし、十年前にも「そうだよなぁ」と言ったかもしれない。



「でも今回だって、お前はアリシアを見てなにかがおかしいと思ったのにそこで止まって、結局考えるのをやめたんだろ」



 そういうふうに言われてしまうと、


「動物と暮らしても一切の成長がない」


「諸動物にとっては、その時間は悲劇でしかない」


 みたいな言葉が、悪い意味で私の胸に深く突き刺さる。




 正直なところ私は、アリシアの不調さに、どことなくぼんやりとした対応をしていた両親に対して、


「この人たちはシェルが亡くなったときからなにも成長していない、学んでいないのではないか」


 というある種の不信感を抱いたことで、いろいろと考えはじめた。




 でも前述のような言葉が突き刺さるということは、そういう、


「自分はなにも悪くない。自分以外の誰かが悪い」


 という態度が、なによりも人間としての能動的な成長を妨げている気がする。



 きっと私自身もポーくんから学んだことはたくさんあっても、ルークとシェルからアリシアに至るまでの「犬と共有していた時間」の中では、その実なにも学んでいないのではないか、なんて気がしないでもない。



 しかしそういうのはきっと、気付いた時点から学びはじめればいいのだと思う。


 って、そんな言い方は都合よすぎるのか。




 でもだからこそ、道のド真ん中に誰かが放置していった、大型犬のウ〇コのことも、いまではもう気にならなくなった。

(話題とまるで関係ない…)







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