水底に似たあわい夕闇が、また長い夜を連れてくる。

 女の滑らかに白い足首が、薄暗い荒ら屋の中、月長石の光を放つ。しっとりと水を含み、ありありと生々しく、そうでありながらこの世のものではない。

 ――天女。

 男はその細い足首を掴み、片隅に落ちていた古い縄を幾重にも巻きつけた。もう片方の縄の端を、荒ら屋に剥き出しになった太い柱に結びつける。

 出し抜けに拘束された女は驚き、目を円くした。が、さして抵抗はしなかった。

「……わたくしを、天に帰さぬおつもりですか?」

 女は咎めるでもなく男に聞いた。

 狭い荒ら屋の中は、闇の底へ落ちかけている。夜がすぐそこまで迫っている。

 男は女の問いに答えもせず、発光するように白いふくらはぎに手を伸ばした。

 指の腹が、女の皮膚に沈み込む。思いのほかみずみずしい弾力があり、それをたしかめるように五つの指に力を込めた。

 そのまま指を這わせ、女の薄衣の中に腕を差し入れた。あわい紺青の闇に、せせらぎのような衣擦れが流れる。その音に、思考が鈍り、陶然とした。

 左手で女の腰帯の端を掴み、一気に引いた。解かれることを待っていたような、無抵抗な結び目。

 しゃらり、と剥き出しの地面に天の衣が落ちる。とたんに立ちのぼる、目の眩むような女の匂い。

 男は思わず息を呑んだ。

 夕闇に浮かぶ、朧月にも似た美しい裸体。

 ――極上の女。

 この女にふたたび会うため、三十年を費やした。言葉通りの、血を吐くような三十年だ。

 このままここに縛りつけておけば、この女はどうなるのだろう。天人らは女を取り返しにくるだろうか。あるいは天帝の怒りに触れ、その身を夜露へと戻されるかもしれない。

 天女は水の精だ。

 男の指が止まる。いつのまに掌がじっとり汗ばんでいる。気を落ち着けるように、深く息を吸い、吐いた。

 構うものか。天に帰せば、きっと三度目はない。

 男のためらいを見てとったのか、女の方から男を呼んだ。

「……来て。わたくしの

 それは、前世のことのようにはるか遠く、懐かしい呼び名だった。はじめて出会ったときも、女はそんなふうに男を呼んだ。

 あれから三十年だ。三十年のときが流れた。

 視線を荒ら屋の外へと向ける。昼の獣の気配は沈み、夜の獣が目を覚ます。

 とうに日は落ちた。もう引き返せない。

 じっとりと肌に纏わりつく汗、重い闇。闇に浮かぶは、ぼうっと光る女の白。

 その夜、男は天女を抱いた。

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