第5話 蟹道楽
蟹が口を開けてジクジクと泡を吹き出す様を、プロレタリアのカメラは無感情に捉えていた。蟹に発声器官がないからこそ、その感情は読み取りづらいが何処となく昂っているかのようにも感じられた。
ボロボロになった蟹の屍の上に佇む蟹に対峙して、タキジは絶望的な思考を止めることができなかった。目の前の蟹を倒す為とはいえ自分の思考からこの二匹目の巨大蟹がいなくなっていた事に対しても驚きを隠せなかった。
この蟹が漁船を襲っていた光景を自分は見ていたはずではなかったのか。
ああ、ということは、この蟹は仇だ。
自分が世話になっていた漁港の職員の仇のはずだ。
絶望的な思考に、仄暗い火が宿った。脳の中心に鈍い熱が起き始める。
それはドス黒い感情だった。生かしてはおけぬ。この蟹は、いや
「蟹は倒す。倒せる力がある俺が、絶対に」
「心意気は買うが、手段はあるのか、少年」
思わず口をついていた言葉に、少佐が冷静にブレーキをかけた。
有線接続が解除されていない事を見落とすくらい、タキジの心は乱れ切っていた。
「真正面から殴ってヒビを入れてナイフを刺せる体格差じゃないぞ」
少佐の言葉の通りだった。巨大蟹はこちらを煽るようにハサミを振り回している。
当てるつもりはないが、こちらを近寄らせるつもりもない。その圧倒的戦力差を見せつけながら、絶対に懐には入り込ませないという圧が物理的にこちらを襲った。
「生憎だが無線機の余りがない。随時指示が出せないお前はイレギュラーだ」
「作戦には組み込めない、ということですか」
「それを含んで戦えるのが現場指揮官というものだ」
何処か自嘲気味に笑いながら少佐は答えた。経験から来る余裕はタキジを少しばかり安心させたが、それでも蟹の脅威も、復讐の火も消えはしなかった。
そんなこちらの思案を知ってか知らずか、蟹は振り回したハサミで小石を飛ばし始めた。直接的なダメージを与えるほどの大きな岩ではなく、装甲のあるプロレタリアやカニカマどころか、装備に身を包んだ機動隊員ですら怪我を追わない程度の大きさの岩を弾き飛ばしながら、蟹はこちらの様子を伺っているようだった。
「あいつ、おちょくってやがる」
タキジはイラつきを露わにし、少佐は慣れたように鼻で笑った。
蟹による愚弄行為、蟹道楽である。
「ああしているうちはまだ安全だ。油断しているようなものだからな」
プロフェッショナル故の裏付けが、その言葉に自信を滲ませていた。
その実、少佐の耳には外部からの報告が止むことなく届き、飄々としながらもその情報は整理されて効果的な作戦を立案、試行を繰り返していた。それを表に出さないのは、単にタキジの様子を心配してのことではなく、その手に握られた力の大きさが巨大な破壊をもたらす可能性を案じてのことだった。ましてや復讐のまま振るわれる力が、良い結果をもたらすとは少佐には到底思えなかったのである。まして自分にすら全ての情報が知らされていない兵器を年端も行かない少年が手にしているのである。
「いいか、少年、作戦を伝えるぞ。一度しか言わないからきちんと聞け」
そういう少佐の目は鋭く研ぎ澄まされた光を蓄えていた。
ゆっくりと、プロレタリアが立ち上がる。
その動きに呼応して、ハサミを振り回していた蟹の動きが止まる。
疲れる事がないのか、その動きにも姿勢にも微塵のブレは見られなかった。
周囲のカニカマたちがどれだけ動いても変わらなかったという事は、脅威としてみられているのはプロレタリアだけなのだろう。蟹の目に鈍い光が宿ったかのように見えた。プロレタリアは警戒を解かないまま、ゆっくり蟹から距離をとり、完全に安全な距離まで移動すると、一目散に走り始めた。
その動きに、蟹は少し訝しんだかの様に身を屈めたが、そのまま見送った。自分の身を脅かすはずの外敵が戦線を離脱するのは好ましい事であった。蟹の目には周囲のカニカマ達は甲殻迷彩の効果で子蟹に見えているので、蟹は安全に満足したように威嚇の姿勢を解いた。仲間が殺されたことには少し面食らったが、予想外の外敵により死ぬのは弱いものの宿命であり、それを威嚇により追い払ったのは自分が強いからに他ならなかった。気づくと、子蟹が一直線に並び移動を始めている。何事か、と思ったがそこまで大きな疑問も持つ事はなかった。周囲にもう餌の気配はない。もしかしたら子蟹達は新しい餌を見つけたのかもしれないと、巨大蟹はその後に従うことにした。漁船、仲間の死骸と口にしたが、まだその空腹は満たされてはいなかったのだ。動物的本能、餌はある限り摂取しておく、という思考がその歩みをより進ませた。再三言うが外敵もない餌場で自分を脅かす物は何もないのである。
漁場が見渡せる位置で少佐は作戦を見守っていた。いつもならば手元にない強力な切り札をいつ切るか、それが作戦の要であった。地の利、手札、そして相手の思考をどれだけ読むか、いつもとは違う相手の撃破という勝利の匂いに、少しだけ肌が粟立つのを感じていた。
カニカマ達は声を潜めて作戦通りの行動を遂行していた。無線経由で送られた漁港内の地図に示された場所まではほんの少しだった。油断は許されないが、AIで動く彼らに油断は存在しなかった。目的地まで、速度は遅いが着実に巨大蟹を誘導することに彼らは細心の注意を払っていた。
漁港という場所が、この作戦におけるキーポイントであった。漁港には魚を下ろすだけではなく、保存する為の設備が常備されている。魚類が高騰する現在において、より大きな利益を出すためには必要不可欠な設備である。その巨大な魚類保管用の生簀、そこが巨大蟹がたどり着いた新しい餌場だった。少数とはいえ生きたままの魚類が逃げ場もなく保管されている水槽を見て、巨大蟹は内心ほくそ笑んだのかもしれない。子蟹達は見事に自分を餌まで誘導したが、子供達にわざわざ餌を分け与えるほど、巨大蟹は慈悲深くはなかった。運動場ほどもある巨大な生簀の傍で、子蟹達は中を伺っている。そこには餌があると言うのに、自分たちの短い手足のせいで躊躇っているのだ。そんな弱者を尻目に、巨大蟹は生簀に飛び込んだ。弱肉強食、エサにありつくのは早い者勝ちだ。
「かかった!射て!射て!」
無線に乗った少佐の声はその時を待ち望んでいた。
蟹が生簀に身を浸した途端、子蟹に擬態していたカニカマ達はワイヤーを射出した。ワイヤーに結び付けられた強化ファイバーの投網が巨大蟹の体を縛り付ける。
突然の事に為すがままに拘束された巨大蟹は視界に影を捉えた。
それは、彼にとっての死神、プロレタリアの姿だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます