第11話 真実の時計

「皆さんおはようございます。本日は天候にも恵まれ、絶好の体育祭日和となりました。まずは今日まで準備を進めて下さった実行委員の皆様、そしてご協力して下さいました生徒の皆様、お疲れ様でした。このように聖エクセルシオール学園の体育祭を執り行えるのも、ひいては全生徒の皆様のおかげとも言えます」


 グラウンドに集まった全校生徒は赤と白に分けられた鉢巻を額に巻き、三者三様の面持ちでマイクを通した久遠くおんの挨拶を聞いていた。

 本日は聖エクセルシオール学園の体育祭、その当日である。


「体育祭では学年、寮の垣根を払拭するために、組み分けは縦割り方式を採用しています。体育祭を機に学年、寮の壁を乗り越え、これまでの練習の成果を見せて欲しいと思っています。それでは、皆様が素晴らしい思い出を作ることを期待して、挨拶とさせて頂きます」


 一礼をした久遠くおんが本部のテントに戻っていく。

 その後は先生から一通り激励や注意を受けた後、早速最初の種目に出場する生徒が招集された。

 五十メートル走に出場する生徒が移動する中、あんりはカイ、瞬月しづき比奈ひなと共に選手控えのスペースに移動する。


「いよいよ始まったね~!この日のためにたくさん練習してきたんだもん、絶対白組に買って見せるからね!」

「あっそ。つーか、そんなに敵意むき出しにしてるなら俺と一緒にいない方がいいんじゃないの」

「それはそれじゃん!だってカイくん、引き留めないと絶対どっか行っちゃうでしょ?ヒース……じゃなかった、柊木ひいらぎ先生に一緒にいるようにって言われてるんだもん」

「ああ、だから愛宮えのみやさんと早乙女さおとめさん、二人三脚みたいに足を縛ってるんだね。組み分け違うし、開会式から何してるんだろうと思ってたけど……」


 こんなことを言うのは申し訳ないのだけれど、お世辞にもカイは体育祭に参加すると思ってなかったので、ここにいること自体が奇跡のように感じる。

 その奇跡を逃したくなかったあんりは苦肉の策として、カイと自分の足を紐で縛って体育祭に参加することにしたのだった。

 何を言っているか分からないと思うが、こうでもしないとカイはすぐに逃げてしまうのだ。


 全員参加の種目を除き、カイとあんりが参加するのはクラス対抗リレーだけなので、それまではこのままでいてもらおうと思う。

 これも体育祭に参加してもらうためだ、致し方ない。


「なるほど……なるほど?というか早乙女さおとめさん、よく許可したね……」

「別にしてない。引きはがすのが面倒だったんだよ……」

「わたくしでしたら体育祭だけと言わずとも、一日中縛っていただいても構いませんわ愛宮えのみやさん!どうかしら、わたくしと人生の二人三脚を……なんて、キャーッ!わたくしったらなんて大胆なことを……!放送禁止になってしまいますわーッ!」

「じゃあ比奈ひなちゃんと瞬月しづきくんもする?ムカデ競争みたいで面白いかも!」

「面白くないから」

「横に並んだらムカデ競争っていうよりも、花いちもんめみたいだね⋯⋯」


 辟易しているカイを尻目にあんりと比奈ひな、そして瞬月しづきは和気あいあいとお喋りを続ける。

 だがそんな四人をたしなめるような咳払いが聞こえた。


「そこの一年生達、少し広がり過ぎですよ。きちんと待機スペースの線の中で待っているように。はやる気持ちは分かりますが、節度を持って下さい」

久遠くおんさん、挨拶お疲れ様です!久遠くおんさんも紅組なんですよね!一緒に頑張りましょうねっ!」

「え、ええ……最善は尽くしますが……。コホンッ!愛宮えのみやさん、私が注意したことを聞いていましたか?楽しむのは結構、ですが周りに迷惑をかけないように──」

『百メートル走に出場する選手はゲート前に集合してください。繰り返します──』

「ええと、迷惑を……そう、迷惑をかけないように……」

久遠くおんさん?どうしたんですか?」


 時折、乾いたスターターピストルの音がグラウンドにこだましている。

 五十メートル走も中盤に差し掛かったのか、次の競技である百メートル走の選手がアナウンスされていた。


 そのアナウンスを聞くや否や、久遠くおんが明らかに顔を引き攣らせる。

 熱中症になりそうなくらいの日差しだというのに、彼女はむしろ青ざめているくらいだった。


「生徒会長?お顔の色が優れませんけれど……如何致しましたの?」

「いえ、なんということはありません。私が百メートル走如きに屈するはずがないのですから。ええ、本当に」

「百メートル走に出るなら早く行かないと、アナウンスされてますよ!」

「そう……そうですね……」


 久遠くおんは集合場所であるゲートを忌々しげに眺めている。何がそんなに嫌なのか、なかなか足が向かないようであった。

 そして、しばらく話を聞いていた瞬月しづきが得心いったように頷く。


「もしかして、生徒会長は走るのが苦手なんですか?意外だなあ、なんでもできそうなのに」


 一瞬で周囲が凍り付く。

 久遠くおんはヴァイスハイト寮で五本の指に入るほど優秀で、それに加えて学園長代理も勤めている。

 生徒から羨望の眼差しを向けられている彼女が苦手としていることがあるなんて、一生徒にとっては信じがたい事実だろう。


「……人には得手不得手があるものです。私は残念ながら身体能力に恵まれませんでしたが……」

「ふーん。人にはああだこうだ言う癖に、戦う前から随分弱気じゃん。生徒会長がそんなこと言ってていいのかよ?」


 オモチャを見つけたかのように、カイが久遠くおんに鋭い突っ込みを入れる。

 彼女の言い方にカチンときたのか、久遠くおんは片眉をピクリと上げた。


「弱気なわけではありません。誰しも運動が得意な訳ではありませんから」

「じゃあ俺も参加したくないから体育祭出るのやめようかな」

「それとこれとは話が別でしょう!あなたは団体行動というものが微塵もとれていません!大体いつも──」

「じゃあ生徒会長サマも百メートル走に出ないとな。俺の事を叱るなら当然だろ?」

「くっ……ああいえばこういうのですから……!」


 ぐぬぬ、と久遠くおんはカイに言い負けてしまう。

 口手八丁のカイには頭脳明晰の生徒会長ですら成す術がないようだった。

 ただ屁理屈をこねくり回しただけにも聞こえるけれど、今回ばかりはだれがどうみても久遠くおんが劣勢だった。


「いいでしょう、お望み通り百メートルを完走して差し上げます!その目でしかと見ていなさい!」


 捨て台詞のようにそう言った久遠くおんは集合場所のゲートまで走り去っていく。

 カイは満足したように腕を組んであさっての方向を向いていた。


「いや、完走するのは当たり前じゃ……」


 と、そう呟いた瞬月しづきの声は、生徒の喧騒に紛れて消えてしまうのだった。



 ◇



 結局のところ、久遠くおんは百メートル走を完走することはできたものの、ゴールテープを最初に切ることは叶わなかった。

 流石に一位になるとは思っていなかったのだけれど、こんなことを呟いたら久遠くおんに睨まれてしまうこと間違いなしだ。


 四位の旗を持ち帰った久遠くおんは美しい髪を台風が来たかのごとく乱れさせ、息も絶え絶えといった感じであった。


「も~カイくんったら、あんなに言うこと無かったのに」

「いつもすました顔して俺に説教してるのが悪いんだろ。ていうかこの紐、そろそろ解けよ」

「えーっもう仕方ないなぁ。まぁ体育祭にちゃんと最後まで出てくれるって約束してくれたし、解いてあげよっと」

「そんな約束はしてないけど」

「あーん!固結びになって解けないよ〜!しょうがないからリレーも一緒に走ろっか?」

「何言ってんだ?」


 あんりは固く結ばれてしまった靴紐をなんとか解く。

 解いた瞬間逃げるようならまた縛ろうかと思ったけれど、珍しく逃げる素振りがなかったのであんりはそのままカイを解放することにしたのだった。


「う、ううう……」


 百メートル走を眺めていると、待機スペースにいるあんり達の後ろからうめき声のような唸り声が聞こえる。

 まさかシャドーが現れたのかと思ったが、その声の主は、体育祭にミスマッチなスカーフを頭から被った比奈ひなのものだった。


比奈ひなちゃん大丈夫?具合でも悪いの?」

「いえ、そういうわけではありませんけれど⋯⋯」


 比奈ひなは一呼吸置くと、スカーフを投げ捨てて、ガッ!とあんりの肩を掴んだ。


愛宮えのみやさん、どうしましょう!もう少しでわたくしの出番が来てしまいますわ……!走り幅跳びなんて、練習でも上手く飛べませんでしたのに~!」

「大丈夫だよ!火事場の馬鹿力って言うじゃない。本番で自己新記録とか出せちゃうかもよ?」

「そ、そうですわよね……愛宮えのみやさんがそう仰るなら、世界新記録でも叩き出せてしまうかもしれませんわ……!推しからのファンサが私に活力を下さいます!愛宮えのみやさん、わたくし、あなたのために一位の旗を持ち帰ってみせますわ~!」

「うん、頑張ってね!」


 そう言って比奈ひなはジェットコースターのように立ち直ると、集合場所のゲートに向かって走っていく。

 ちなみにあんりと比奈ひなも違う組である。組み分けとは何なのか、その定義について考え直す必要があるようだった。


 比奈ひなの後ろ姿を見送ると、突然グラウンドがわっと沸いた。

 百メートル走が終了し、現在の競技は借り物競争だ。確か瞬月しづきが出場していたはずだったが……。


『なんと「好きな人」を引き当てました!彼女は誰を選ぶのでしょうか⁉おーっと!迷わずに走っていきます!』


 放送席の生徒が興奮した様子でマイクを掴んで実況をしている。

 借り物競争の風物詩といえるイベントに会場の盛り上がりは最高潮に達していた。


 聖エクセルシオール学園は由緒正しき伝統を誇る学園だが、通っている生徒は思春期を迎えた普通の子供達。

 いくらプロ顔負けの才能を持っていたとしても、恋愛など年頃の話題に惹かれるのが人の性と言うものだろう。

 いつもは別の道を歩んでいるけれど、今この時だけは皆の心が一つになっているような気がしてならなかった。


『意中の男性と一緒にゴールへと走っていきます!そして……なんと告白!!そして答えは⋯⋯!?OKを貰ったようです!おめでとうございます!』


 盛り上がる実況に黄色い声が飛ぶ。

 ゴールをした男女の生徒は祝福の声に包まれながら、手を繋いで控えのスペースへ戻っていった。


「ひゃ~……付き合ったみたいだよ!こんなこともあるんだねぇ」

「公開処刑だろ。相手も気の毒にな」


 件の生徒達は周囲に囲まれ、照れた様子で手を繋いでいた。

 体育祭の最中だというのにこんな場面に遭遇できるとは、なんて幸先が良いのだろう。

 だが、そんな幸せな雰囲気にもカイは冷ややかな目線を送っていた。


「ここの生徒はみんな大人しいお嬢様や御曹司だと思っていたが……意外に子供らしい一面もあるものだな。まぁ子供はこれくらい騒いでる方が良いとは思うが。先生達も今日くらいは羽目を外して良いって思っているのだろう」


 通りすがったヒースがあんり達に話しかけてきた。


 ヒースの言う通り本部の先生達を見てみると、微笑ましそうに付き合った生徒を見て拍手をしている。

 不純異性交遊など言語道断、なんて言われるけれど、今日は無礼講ということだろう。

 先生達もやれやれと言った様子ではしゃぐ生徒達の様子を見守っていた。


「やっぱり、みんなこういうイベントが大好きなんだよ!いつも頑張ってるから息抜きも必要だろうしね」


 それに親が応援に来るということもなく、体育祭は完全にこの学園だけで完結している。

 親が著名人という生徒も少なくないから、仮に応援が許可されていたとしてもギャラリーの数は振るわなかったと思うけれど。


 親からのプレッシャーと常日頃戦っている生徒達からすれば、成績に関係ない体育祭は羽を伸ばすいい機会なのだろう。

 先生もそれを理解しているので、この状況を傍観しているに違いない。


『それでは最後の選手たちに走っていただきましょう!一体どんなお題を引くのか……楽しみにお待ちください!』

「あっ瞬月しづきくんが走るみたいだよ!」

「もう最後の走者か、早いもんだな」


 アナウンスを聞いてグラウンドに視線を戻すと、ちょうど最終走者がスタートしたところだった。ヒースも教師の役割を忘れているのか、競技を興味深く見守っていた。

 どうやらまだ走っていなかったようで、瞬月しづきは最終走者としてくじを引いている。

 彼はくじを見て困惑するでもなく、すぐに生徒を見渡して──あんり達の方を見ると、ぱっと表情が明るくなった。


早乙女さおとめさん、僕と一緒に来てくれる?借りもの競争のお題に早乙女さおとめさんがぴったりなんだ!」

「はぁ?嫌だよ、俺以外の人でもいいだろ」

「お題は何だったの?」

「それが、お題はゴールするまで見せちゃいけないってことになってるんだ。借りものが合っているかどうかは係の人が判断するみたい。さっきのお題は例外で、皆に教えることになってたみたいだけど……」

「ていうか、俺とお前は別の組だろ。誰が敵に塩を送るかよ。こいつでも連れていけば、暇そうだし」

「先生をこいつ呼ばわりするんじゃない。それに僕は暇なんじゃない、少し休憩していただけだ!」

「カイくん、借り物競争では組に関係なく連れていけるんだよ。組で分けちゃうとゴール出来ない人も出てくるかもしれないからね。先生は条件に合えば良いみたいだけど⋯⋯柊木先生でも駄目そう?瞬月しづきくん」


 瞬月しづきと一緒にゴールすることで赤組に特典が入ることを危惧しているわけではなく、カイただ断る理由が欲しかっただけだと思う。

 その証拠に、余計なことを言うなと言わんばかりに舌打ちをしていた。


 瞬月しづきは借り物競争のお題の紙を見て、もう一度カイに頼み込む。


「いや、やっぱり早乙女さおとめさんがいいかな。お願いできる?」

「だってさカイくん、意地悪しないで行ってあげて!」

「いや、行くなんて一言も言ってな──」

「ありがとう早乙女さおとめさん、じゃあ行こう!」

「頑張ってね〜!」

「おい⋯⋯!」


 ようやく走り出した二人だったが、借り物を探すのに時間を要してしまった瞬月しづきは三位という結果に落ち着いてしまった。

 ヒースはそれを見て巡回の仕事に戻っていく。


 結果は残念だったが、瞬月しづきは楽しそうに待機スペースに戻ってきた。


「お疲れ様、惜しかったねぇ」

「ちょっと時間かかっちゃったからね、仕方ないよ。次は何の種目だっけ?」

「次はねー⋯⋯走り幅跳びだね。比奈ひなちゃんが出るやつだ。頑張って応援しないと!」


 何度も言っているように、件の比奈ひなは白組なので、あんりとは敵対する組である。

 確かに組み分けはされているけれど、頑張っている友達を見て応援しないという方が難しい。勝敗だけではなく、楽しむことも大切なことだとあんりは思うのだ。


 そして、その応援のお陰なのか。

 なんと比奈ひなは自己ベストを更新して白組の勝利に大きく貢献したのだった。


愛宮えのみやさん、わたくし、見事成し遂げましたわ~!今までの練習で見たことが無い記録が出せましたの!愛宮えのみやさんの言った通りになるなんて、もしかして愛宮えのみやさんは予言をした、ということですの……⁉」


 走り幅跳びで午前の部が終わり、生徒は昼食の弁当を受け取る。

 比奈ひなは興奮した様子で待機スペースに戻ってきた。


比奈ひなちゃんの努力の結果だよ~!本番に強いなんて凄いじゃん!」

「ううっ……推しからの直ファンサ……最近は慣れてしまっていましたが、これに勝る喜びはありませんわ……!本来ならば愛宮えのみやさんの握手会なんて、CDを百枚積んでも当たらないに違いありませんのに……!」


 喜びのあまり比奈ひなの手を握ってぶんぶんと振ると、どうしてか比奈ひなは走り幅跳び意外の感情で泣き出してしまった。

 CDを売るつもりは無いのだけれど、比奈ひなの言葉はやはり難しく、完全に理解することは出来なかった。


「カイくんもお祝いしてあげてよ、白組に点数が入ったんだからさ!」

「逆に何であんたは喜んでるんだよ、違う組だろ」

「だって嬉しいんだもん!別の組なんて関係ないじゃない?」

「わたくし達は敵対しているというのに、この慈悲に満ち溢れたお言葉……!今のお言葉を録音して毎朝のアラームに設定して起床したいくらいですわ……」

「な、なかなか不思議な感動の仕方だね……」


 待機スペースで弁当を広げる瞬月しづきは、比奈ひなの摩訶不思議な言葉に困惑して苦笑いをする。


「そういえば、白鳥しらとりさんは早乙女さおとめさんのファンクラブに入っているんだっけ?その⋯⋯推し?っていうのはよく分からないけれど……まるで今は愛宮えのみやさんのファンクラブに入ってるみたいな勢いだね」


 言葉を濁していたが、瞬月しづきが言いたいことはなんとなく理解出来た。

 カイのファンとして活動していた時の比奈ひなを思い返すと、今の彼女は依然とまるで違うと言わざるを得ない。

 その熱意は変わらないとしても、向ける対象が百八十度変わっているのだから、瞬月しづきが驚くのも当然だった。


 なぜなら、比奈ひなはあんりのことを嫌っていたはずなのだから。


早乙女さおとめ様のファンクラブになんてもう入っていませんわよ?今となっては、何故あんなに狂気じみたことをしていたのか、わたくしにも良く分かりませんの。早乙女さおとめ様にはご迷惑をおかけしたと思っておりますわ」


 うっとりとして両手を合わせる比奈ひな


「でも、今はまるで生まれ変わったみたいに晴々としていますの!愛宮えのみやさんこそ、尊敬に値する方だと気付けたのです。しかも、わたくしとご友人になってくださるなんて⋯⋯これはわたくしの人生において奇跡のような出来事ですわ!」


 件のカイはというと、比奈ひなの言葉を特に気にしている様子もなく弁当を口に運んでいた。

 あんりと瞬月しづきは思わず顔を見合わせる。


「そうでした!わたくし、昼食を食べたら本部に来るように言われていましたの。すっかり忘れていましたわ。それでは皆様、ごきげんよう」


 比奈ひなは仰々しくお辞儀をして本部に向かっていった。

 おかずを頬張っていた瞬月しづきはごくりと飲み込むと、腑に落ちないように首を傾げる。


「なんだか、以前の白鳥しらとりさんと雰囲気が違う気がするね。早乙女さおとめさんのファンクラブを辞めたこともそうだけれど⋯⋯愛宮えのみやさん達には何か心当たりはある?」


 比奈ひなの状態について心当たりがないわけではない。

 ヒースと久遠くおんが立てた憶測に過ぎないけれど、もしかしたら比奈ひなはシャドーの被害に遭った影響が出ているかもしれないのだ。

 証拠は何もないけれど、瞬月しづきのような事情を知らない生徒にすら違和感を与えてしまうほど、やはり比奈ひなは変わってしまっている。

 しかし、それを瞬月しづきに説明できるはずもなく。


「どうしてだろうね……私も気にはなってるんだけど」

「そうなんだ。まぁ……前と違う気がするだけで、悪いことをしているわけじゃないからね。気が変わるなんて良くあることだと思うし」


 シャドーに襲われたからではなく、比奈ひなの中で何か心境の変化があったのかもしれない。

 確固たる証拠がない限りこの違和感に答えを出すことは出来なかった。

 何とも言えない空気になったのを察知し、あんりはそういえばと話の舵を取る。


瞬月しづきくんはさっきの借り物競争で何を引いたの?カイくんを連れて行ってたけど」

「あれは『身長が170センチ以上の人』だったよ。ちょうど早乙女さおとめさんが目に入ったから協力してもらったんだ。僕との身長差から推測して、早乙女さおとめさんは170センチは絶対にあると思ってね」

「そうだったんだぁ。でも柊木ひいらぎ先生はカイくんより背が高いから、もしかしたらすぐに柊木ひいらぎ先生を連れて行ったら一位になってたかもね」

「はは、そうかもね。でも先生は忙しいと思ったから早乙女さおとめさんにお願いしたんだよ」


 瞬月しづきは周りの男子生徒と比べて、若干背が低く、およそ160センチ弱といったところだろう。

 対してカイは女子の中では背が高い方で、瞬月しづきの言う通り170センチはゆうに超えている。

 お題としては充分な人選と言えるだろう。


『間もなく午後の競技がスタートします。綱引きの第一試合、第二試合に出るクラスはグラウンドに集合してください。繰り返します──』


 そろそろ午後の競技が始まる。

 綱引きや玉入れ、ムカデ競走などユニークな競技が目白押しだが、午後の競技で一番の目玉は総合リレーだ。

 学年、寮さえもバラバラの生徒達が協力してゴールを目指す様は、これ以上ないくらい手に汗握るだろう。


 カイとあんりはその運動神経を買われ、どちらも出場することになっている。

 組み分けは違うので、今回はカイと戦わなくてはならない。


 激闘の末、勝利するのは紅組か白組か。あんりとカイはその命運の一端を握っているのだった。



 ◇



「カイくん、比奈ひなちゃんのことについてどう思ってる?」


 乾いた砂埃が舞い、生徒達の歓声がグラウンドに響き渡っている。

 総合リレーは二つの組が追いついては追い抜かし、その差はなかなか縮まることがなかった。

 あんりとカイはバトンを貰うためにコースで腰を低くして前の走者を待っていた。


「本当にシャドーに襲われたせいなのかな?だって前までとは別人と言うか……まるで誰かと入れ替わったみたい」

「あんたは人に期待し過ぎなんだよ」


 カイは真っすぐ後ろのコースを見ている。

 彼女の口調は教科書に載っている事実を述べているように単調だった。


「人の気持ちなんてな、いくら強くても簡単に変わる。それだけのことだ」


 比奈ひながあんりに鞍替えしたことに対して、カイはさして興味を示していないように見えた。それどころか熱烈にアプローチを受けていた時はひどい嫌悪を向けていたくらいだった。

 表面をなぞっただけで評価をする比奈ひなに激しい怒りを見せたことを、あんりははっきりと覚えている。

 いつも気だるげなカイが感情を露にしたのは、後にも先にもあの時だけだ。


 だがそれを踏まえてみても、カイの態度はいつも冷静ではなく、どこか投げやりになっているように見える。

 だから何にも期待せず、興味もない。

 一体どうして、そう考えるようになってしまったのだろう。


 バトンを受け取り、走り出したあんりはそんなことを考え──コーナーを曲がったところで立ち止まった。


「全く、人間はゴミのように群がるのが好きなようですね。おかげで入れ物になる人間を探しやすいのでしょうが」


 なぜなら、グラウンドの中心で審判をしていた生徒の周りに、薄暗いもやが立ち込め──

 それが生徒の体を蝕み始めたからだった。


 生徒はその場に力なく倒れ込む。

 そして生徒の影が異様に伸びたかと思うと、影の怪物が地面から這い出てきた。

 突然のシャドーの出現に、他の生徒達は阿鼻叫喚で転がるように逃げ始めた。


「あなた達、どうしてこんな所でシャドーを⁉これがどれだけ危険なことか分からないの……⁉」

「レギオン様の力は人間の負の感情に引き寄せられているだけに過ぎない。つまり、貴様達のいう『シャドー』が現れるのは人間たちが愚かな感情を持つが故だ。我らに怒りを向けるのはお門違いなんだよ」


 生徒達は散り散りに逃げ、グラウンドの中心にはあんりとカイ、そしていつの間にか現れたロゼとテオが佇んでいる。

 テオはロゼの小さな体を横抱きに抱えていゆ。ロゼはガラス玉のような瞳であんり達を見つめていた。


「その通りだ。我らはレギオン様の意思に従い、あの方の力がシャドーとして元に戻るように貴様達を妨害する。所詮は守護騎士ガーディアンなど過去の存在。取るに足らないと思っていたが⋯⋯貴様達の力はあの方の野望の邪魔になる。我らはそれを阻止しなければならない」

「人形の僕達にとって、時間が進んでいくことは何より忌諱きいすべきこと。そんな僕達がレギオン様の意思に従うのは火を見るよりも明らか……貴様もそれぐらいは分かっているはずだろう?」


 テオはあんり達の後ろに声を投げかける。

 振り返ると、騒ぎを聞きつけた久遠くおんとヒースが呼吸も荒く駆けつけていた。

 ヒースは人間の姿をしていたものの、同じ人形であるテオは彼がヒースだと見破っているようだった。


「──それで、こちら側に付く覚悟は出来たのか?」


 ロゼの言葉にヒースはぐっと拳に力を込める。

 逡巡したその一瞬を見逃さず、テオは愉しそうに笑った。


「主様と僕さえいれば貴様らを葬ることなど造作もないだろうが、曲がりなりにも同じ人形である貴様に慈悲を与えてあげよう。こちら側について守護騎士ガーディアンを始末するというのなら……この場で綿を引きずり出すことは辞めてやってもいい」


 懐から抜いたレイピアを撫で、テオはヒースの返答を待つ。


「断る」


 張り詰めた空気がしばらく続き──ヒースの言葉がその沈黙を破った。


「……僕の気は長い方じゃない。だが主様の御前だ、もう一度だけ貴様に猶予を与えてあげよう。守護騎士ガーディアンを倒すためにこちら側に付くがいい」

「その付いている耳は飾りか?断ると言ったんだ」


 ヒースの声は以前彼らと対峙した時と比べ、芯が通った凛としたものだった。

 彼の中に後悔はあれど、もう迷いはない。


雪桜ゆめに会えるものなら会いたいと、そう思ったことは否定しない。だが雪桜ゆめはもう役目を全うしてこの世から去ったんだ。レギオンを封印するという役目をな。お前達が過去に戻りたいと思うのは勝手だが、それならこちらも勝手な言い分を通させてもらう」


 ヒースは憑き物が取れたような表情で、二体の人形に宣言する。


「僕は過去に縋らない。雪桜ゆめが守った未来を生きる」


 テオは青筋を立てて怒りを顕にし、レイピアを振り下ろした。


「愚か者め。そこまで言うならお望み通り、スクラップにしてやる!」


 ロゼはテオの腕から降り、地面から生えた太い薔薇の茎に座る。

 テオはレイピアを構えて臨戦態勢を取った。


「そうはさせないよ!カイくん!」


 あんりとカイはヒースの前に立ちはだかり『こころ時計とけい』を取りだした。


『我ら守護騎士ガーディアンの名の元に、de la Liberté(解放せよ)!』


 合わせた時計が光り輝き、施されていた宝石からレトロな鍵が現れた。時計の上にある鍵穴にそれを差し込み、回す。

 そしてあんりとカイは目の前が真っ白になるほどの光に包まれ、体中に纏った光は服をかたどっては弾けて消えてゆき、古めかしく気品のあるドレスに身に纏う。

 鍵を差しこんだ懐中時計にはリボンがあしらわれ、二人の胸元に装着された。


 全ての光が霧散した場所には先ほどとは打って変わった二人の姿があった。


「人形のくせに守護騎士ガーディアンに肩入れする裏切り者め、罪をその身であがなえ!」

「そうはさせない、あなたの相手は私達だよ!」


 胸のリボンと一体化していている『こころ時計とけい』には既に鍵が刺さっている。

 

 時計の宝石に手をかざして「セイバーキー」を取り出し、その鍵を宝石部分にかざす。すると刺さっていた鍵が光の粒となり、宝石に吸い込まれていった。

 そして、空いた鍵穴に吸い込まれるように剣の形をした『こころかぎ』を差し込む。

 すると、変身した時と同じような光が二人を包み、フリルがあしらわれた衣装から、着物を基調としたものへ変貌していく。

 何もなかった空に光が弾け、あんりの手には小刀、カイの手に太刀が降ってきた。


 あんりはその小刀でテオが突き刺すレイピアを受け止めた。


「時間を戻すってことは、今まで色んな人が積み重ねてきた歴史が無くなるってことなの。それを分かって、レギオンに肩入れするの!?」

「そんなこと僕達には関係ない。貴様ら人間が時間と共に老化していくように、僕達も劣化していく。過去に戻りたいと思うのは当然だろう!」


 金属音を鳴らしながらあんりとテオは刀とレイピアをぶつけ合う。

 斬り合いながらテオはさも当然といったように叫んでいた。


「そうかもしれないけど、でも、私達は前に進んでいかなくちゃいけないんだよ。たくさんの人が繋いでくれた未来を私達が諦めるわけにはいかないの!」

「吐き気がするほど清々しい綺麗事だな。僕達はそんな言葉に踊らされるほど、弱い覚悟でここに立っていない!」


 レイピアが頬をかすめ、髪の毛が数本散っていく。

 テオの攻撃には明らかに殺意が籠っていた。


「貴様ら人間は不要になったものを簡単に捨て、忘れ去ってしまうだろう。その傲慢さが僕は気に入らない。だから人間が僕達を消費したように、僕達も人間の未来を食い潰す。それがせめてもの復讐だ」


 テオやロゼはレギオンの力によって人間のような意思や心を得たが、その本質は長い年月を経た人形だ。

 陶器のように滑らかな手には細かな傷があり、煌びやかな衣装はよく見ると、ところどころにほつれが見られる。

 遠目から見れば美しい陶磁器人形ビスク・ドールだけれど、定期的なメンテナンスを受けていないのだと一目見て分かった。


「過去に戻り、主様と共に時を過ごす。そのために貴様らは邪魔でしかない!この刃の錆になるといい!」


 テオの一突きは重く、あんりは小刀で受け止めたが弾き飛ばされてしまった。

 何とか着地したあんりはすぐに身を屈めて走り出す。


「それでも、あなたの言葉には屈しない。私達は未来に進まなきゃ駄目なんだから!過去になんて戻れないもの!」

「これ以上の話し合いは無駄だ。僕達と貴様らはどう足掻いても相容れないのだからな。お互いが力をぶつけ合い、それでも立っていた方の勝利⋯⋯だが、貴様の主張にはやや疑問の余地がある」


 テオの覇気のない瞳があんりを捉える。

 本来ならば何も映さない球が鈍く光っていた。


「貴様の綺麗ごとには何の重みも感じない。貴様は未来に進みたいだけなのではなく──?」


 がくん、と足が止まる。

 テオの言葉にガツンと頭を揺らされ、あんりは足をもつれさせないようにするのに精一杯だった。


「そ、そんなこと──」


 ない、と断言することが出来なかった。


 雪桜ゆめが守った未来を、後継者である自分たちが諦めるなんてこと出来るはずがない。受け取ったバトンは次に託さなければいけない。

 だから絶対に、時間を過去に戻してはならない。そう思っていることは本当だ。


 それなのに──あんりは何も言うことが出来なかった。


「クソが、邪魔ばかりしてきやがって!」

「その言葉、そっくりそのまま返してやろう。レギオン様のご意思に背いているのは貴様らの方だとな」


 大きな太刀を構えてシャドーと対峙していたカイだったが、薔薇の茎を鞭のように振るうロゼに邪魔をされ、なかなか攻撃を加えることが出来ていないようだった。


「……ッ!カイくん、いまそっちに──」


 あんりは苦戦しているカイの元へ駆け寄った。


 二人で大技を叩き込めばシャドーを退治できる。そうすれば、とりあえずこの場は収めることができるはずだ。

 あんりはテオに言われた言葉を振り払うために首を振り、向かってくるシャドーに刃を構えた。


因果いんがて!Ça te──』


 ──しかし。


 十字の斬撃が放たれる前、シャドーは突然体が崩壊し、もやとなって消えてしまったのだった。


「……え?また、消えちゃった……」

「チッ、どうなってんだか……」


 あまりに突然の出来事にあんりとカイは刃を下ろして立ち尽くす。

 シャドーが消滅するトリガーはダメージの蓄積ではないかと予測していたけれど、ロゼに邪魔をされて、今日はほとんど攻撃が出来ていないはずだ。

 では、シャドーが消えたのは何故──


「……消えたのなら、レギオンに吸収されることはないでしょう。今日のところはそれで良かったと言うしか──」

「何を言っている?」


 沈黙を破った久遠くおんをロゼが遮る。

 彼女は冷ややかな目線でこちらを見下し、何を今更と呆れ果てていた。


「先のシャドーならレギオン様の元へ渡った。シャドーがあの姿を保てるのは、時間に限りがあるからな。


 ロゼの言葉に久遠くおんが絶句する。


「そ、そんなことあり得ません!彼女達はきちんとシャドーを倒しています!私もその目でしかと見ているのですから……!それなのにレギオンの力がそんなに戻っているだなんて、あり得る筈が……」

「だが実際に戻っているのだ。何故貴様らがそんな勘違いをしたのかは検討がつかないが……」


 ロゼは顎に指を当て、ふむと考え込んだ。


 そんな馬鹿な話があるはずがない。

 あんり達は確実にシャドーを倒していたはずだ。

 攻撃を加えた直後に霧散していたのだから、ダメージの蓄積で散ったと思っていた。

 それなのにレギオンに力が戻っているなんて有り得ない、考えられない。


「ああ、いや。可能性ならあるな。例えば──」


 だが、あんりはふと思い出す。

 いつもシャドーを倒していたあとに地面に落下していたものを。


「──時計の仮面まで壊さなかった、とかな」


 絶望的な答え合わせにあんり達は言葉を失う。

 今まで倒してきたシャドーは時計の仮面が最後に残っていた。

 それがシャドーの急所なのだとしたら──あんり達は一体もシャドーを倒していなかったという事になる。


 その事実は余りにも信じ難く、あんり達の常識を覆すものだった。

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