第8話 簀子(すのこ)の下で舞う

 紅茶の良い香りが鼻孔をくすぐってくる。


 一介の生徒としての義務、そして生徒会長、学園長代理の立場としての責務から離れ、学園長室で紅茶を嗜むことが久遠くおんにとって至福の時間だった。

 カップを二つ用意してテーブルに置くと、本棚から出した書籍の山に隠れているヒースの耳がぴょこりと動いた。


「悪いが僕は紅茶が飲めない。まぁ紅茶に限らずだけどな」

「……そうでしたね。ついあなたがぬいぐるみであることを忘れてしまいます。あまりにも流暢にお話しているものですから」

「僕も同感だ。ただこんな姿になったのなら、お前たちがしている食事って言うものを経験してみたかったがな」


 ヒースは脇に置いてある自分の時計を見ると「そろそろ休憩にするか」と言って久遠くおんの目の前にあるソファに座った。

 座ったと言っても、小さなぬいぐるみの姿では置かれているといった表現が正しいかもしれない。


 久遠くおんは入れたばかりの紅茶の香りを堪能し、ゆっくりと息を吐いた。


「ヒース、あの鍵のことですけれど、あなたはどうして突然現れたと思いますか?」

「残念だが、今回ばかりは仮説の立てようがないな。保管されていた『こころかぎ』がなくなっていると思ったら、突然二人の前に現れた。まるで鍵の方から飛んできたみたいにな」


 前回のシャドーとの抗争の最中、あんりがシャドーに取り込まれたと同時に久遠

《くおん》達は現場に到着した。

 絶望的な状況に言葉を失ってしまったが、シャドーの中とカイの上空が突然輝きだしたのだ。

 次に二人が揃った時には──剣を模したような鍵を握っていたのだった。


「剣の形をした鍵……『セイバーキー』とでも呼んでおくか。それより、お前の考えはどうなんだ?」

「……私ですか?もちろん、自分なりに推測してはいますけれど、あなたほどの情報を持っているわけではありませんし……。推測と言うのもはなはだしい、ただの想像、空想の域を出ません」

「それでもいい。あの二人よりは有意義な意見を聞けるだろうからな。いや、以前のように信用していない、というわけじゃないが……お前の方が危機感も高い気がする」


 ヒースは紅茶から出る湯気を辿り、ふんふんと鼻をひくつかせている。

 首を傾げていることから匂いは分からなかったのだろう。


「このような言葉を軽率に使うべきではないと分かってはいますが、私は……お二人に奇跡が起ったのではないかと思います」


 人は、自分に都合の良いことが起きた時にと騒ぎ立てる。

 まるで、奇跡であることに価値があるかのように。


 あの一瞬、あんりがシャドーに捕らえられてしまった時。

 カイは焦るでもなくただ彼女のことを待っていた。


 信頼というには浅く、信用というにも何かが違う彼女達の関係性。

 それでも、見えないあんりが何を考えているのか彼女には分かっているようだった。

 奇跡をただ待つのではなく、彼女達は二人で奇跡を引き寄せたのだと思えてならなかった。


 奇跡とは人智を超越した出来事のことをいう。

 だから早々に起きる者でもないし、証明の仕様もないのだけれど。


「……子供みたいな意見だと思ったのでしょう。笑っていただいても構いません」

「確かに非科学的だ。でも馬鹿らしいとは思わない。雪桜ゆめ守護騎士ガーディアンに選ばれたのも奇跡みたいなものだったからな。レギオンが世界を過去に戻そうとした時、得体の知れない怪物に向かって、雪桜ゆめは何をしたと思う?生身、しかも丸腰で目の前に立ったんだ。勇敢を通り越して無謀だったよ」


 初代学園長であり、先代の守護騎士ガーディアンである雪桜ゆめは『こころ時計とけい』など持っていなかった。

 対抗する手段が全く無いのに敵に立ち向かうなんて、ヒースの言う通り無謀だ。


「……でも、そんな雪桜ゆめに世界は力を貸した。雪桜ゆめの勇気が無謀を超え、奇跡がその力を形どったのが、『こころ時計とけい』なんだと、僕はそう思っている」


 その一点において雪桜ゆめは人を超越していたのかもしれないな、とヒースは呟く。


「まあ推測はここまでにしておこう。あれは『こころかぎ』で間違いないし、あの二人が使ったことで封印の力が強まったように感じる。このままあと三つ見つければ、レギオンの封印は完全に元通りになるはずだ。そうすればもう、封印が破られる心配もなくなるだろう。まあ……漏れ出てしまった力に関しては、今のところシャドーを倒すくらいしか解決策がないがな」


 『こころ時計とけい』が二つに割れたまま、あんりとカイが守護騎士ガーディアンに覚醒してしまったことから、レギオンを閉じ込めている封印はその力が漏れ出たあとに再度施された。

 『こころかぎ』を見つけられれば封印を強化できるけれど、既に散らばってしまったレギオンの力は、シャドーとして顕現しなければ見つけることも出来ない。


「……だから、僕達の目標は……今まで通り、鍵の捜索を続けて、シャドーを倒せば、いい……ということだ」

「……ヒース?どうかしましたか?気分が優れないのですか?」

「ああいや、何だろうな……最近、妙に体の調子がよく分からないというか……何て言ったらいいのか分からないが、とにかく調子が悪いわけじゃない。心配は無用だ」


 歯切れの悪くなったヒースは目を覚ますように首をふるふると振る。


 ヒースは雪桜ゆめのいた時代から大事に受け継がれてきたぬいぐるみだ。

 しかしいくら大切に扱っていたとしても、物に劣化は付きもの。

 布を変え綿を変え、丁寧に補修してきたからこそ、あの時代のものがこうして手元にあるのだ。


 久遠くおんもヒースのことは小さい頃からとても大切にしていた。

 劣化が激しいから外には連れて行けなかったけれど、部屋の中で遊ぶときは常に一緒だった。

 親と喧嘩をした時なんて一緒のベッドで寝て──


「……あなたは昔の記憶があるのですよね。だから雪桜ゆめ様のことを覚えていた」

「ん?ああ、だが全部覚えてるわけじゃない。そりゃ雪桜ゆめは最初の主人だから鮮明に覚えているが、あとのことは薄らぼんやりって感じだ。あの二人の力で目が覚めたんだとしたら、雪桜ゆめのことを覚えていられるのも、守護騎士ガーディアンの力のお陰かもな。それがどうかしたか?」

「いえ何でもありません、それならいいのです。何も思い出さなくて結構」


 久遠くおんは何食わぬ顔をして紅茶を飲む。

 覚えてないのならそれに越したことはない。あとは自分の醜態しゅうたいを思い出させないように、この話題は決して振らないことだ。


「何でもないならいいが……。よし、僕はそろそろ資料探しに戻る」

「勉強熱心ですね。このペースだとここにある本を全て読みつくしてしまいそう。資料室や図書館から本を借りてきましょうか?」

「それがいい。なにせお前たちがいない時は、本を読むくらいしかすることがないからな。ここから出られないというのは本当に不便──」


 ヒースは途中で言葉を途切れさせる。

 どうしたのかと思う暇もなく、久遠くおんは目の前の出来事に目を疑った。


 なぜなら──ソファの上で立ち上がったヒースの体が発光していたからだ。


 驚き呆気に取られる久遠くおんとヒース。

 彼を包む光はやがて全身を覆い、光の中にあるシルエットがぐんぐんと大きくなって──光の中から成人男性が現れた。


 そしてその男性はなぜか、産まれたばかりのような姿でソファに立っていた。

 首についている蝶ネクタイは今まさに目の前にいたヒースがつけていたもので。


 つまり彼は首に蝶ネクタイを付けているだけで──

 布の一枚すら羽織っていなかったのだった。



 ◇



 聖エクセルシオール学園には今、とある噂が流行っていた。

 いくら品行方正な生徒が多いとはいえ、多感な高校生だ。皆面白い噂話には興味津々だろう。


 そう、例えば──学園に現れる怪物を倒す少女の噂とか。


「あんな大きな怪物なのに、あっという間に倒してしまうんだって!」

「私は刀からビームを放ったって聞きました!」

「あとは拳一つで地面を割るとか……愛宮えのみやさんは見たことがありまして?怪物を退治したあとすぐにいなくなっちゃうんですって」

「え、えぇーっと……そうなんだ、すごいね。私も一度は会ってみたいな…」


 合同授業中にこそこそと耳打ちをされ、あんりはどう答えていいか分からず話を合わせてしまう。


「そこ、私語は慎むように。注意されるために授業を受けているのですか?」

「す、すみませんっ」


 注意された生徒は慌てて板書を書き写し始めた。

 とりあえずその場しのぎはできたと、あんりはほっと胸をなでおろす。


 ここ最近、学園内では怪物と戦う少女の噂が横行していた。

 それは紛れもなくあんり達なのだけれど、だからといって自分が守護騎士ガーディアンだということを明かすわけにはいかない。


『あなた達が守護騎士ガーディアンだと知られてしまえば、生徒はシャドーや守護騎士ガーディアンのことを理解しないまま、野次馬になってしまうかもしれません。幸い、シャドーは愛宮えのみやさん達を無視してまで生徒を襲いに行く様子はないので……生徒には安全に避難をしてもらい、あなた達はシャドーに専念してもらいたいのです』


 守護騎士ガーディアンになったばかりのころ、学園長室で久遠くおんがそう言っていた。


 守護騎士ガーディアンが何かを説明することは容易たやすいが、面白半分で戦場に足を踏み入れる生徒がいないとも言い切れない。

 そういう不安要素を排除するためにも、目立つ行動は控えて欲しいのだと。


『学園で騒動が起きてるのに見られないのは無理だろ。いずれバレる』

『ええ。ですから最低限の説明はするつもりです。シャドーが現れているのは事実なのですから』


 正体不明の怪物が現れて生徒を襲っているという事実に、学園を出て家に帰ってしまう生徒もいた。

 それは至極当然の反応だろう。親も子も、危険がある場所には行きたくないのが普通だ。

 本当ならば学園を封鎖してしまえばいいのだけど、それができない理由があった。


雪桜ゆめ様がレギオンを封印した時計塔を中心に学園を建設した理由は、学校というのは、を持つ人が集う場所だからです。その想いの力は、過去に戻りたいと思うレギオンには最も相性の悪い感情なのです』


 封印が緩んでいる今、生徒たちがここから消えてしまえば、封印を維持する力が減ってしまう。

 それはつまり、世界の危機と同義だった。


『ですから生徒達には、シャドーを退治しているの専門の機関がいる、という説明をしています。シャドーが現れている間は絶対に近づかないようにとも。生徒達を危険な目に晒すのは心苦しいのですが、現状、これしか打つ手がありません』

『あんたの父親は戻ってこないわけ?学園長なんだろ?』

『お父様は、聖エクセルシオール学園の学園長だけをしているわけではないのです。私で十分対応できるだろうと判断してくれましたし……現にこの案は、私が考えたものです』


 守護騎士ガーディアンという名ではないにせよ、あんり達の活動はいつ誰に見られてもおかしくない。

 こんなに持ち切りになっている噂だ、もし正体がバレでもしたら、もみくちゃにされる想像しかできない。


 特にカイは絶対に正体をバラしたくないと思っていることだろう。


「最近、あの怪物のことで持ち切りだね。みんな、どんな人か気になってるみたい」

瞬月しづきくんも見てみたいって思う?」

「そりゃあ、あんな意味不明な怪物と戦ってるんだから、どんな人かは気になるよね。専門の機関って生徒会長は説明してたけど……自衛隊とか軍隊の人なのかな」


 スピーカーから授業終了のチャイムが鳴る。あんりは次の授業が始まるまで瞬月しづきと雑談をしようと、彼の前の席に座った。


「もしかしたらすごく筋骨隆々な人だったり、チーターより足が速かったりするのかも。それだったらあの怪物にも立ち向かえるよね」

「筋肉ムキムキじゃないよ!ってそうじゃなくて……その人達は女の子って話だよ?」

「たとえ話だよ。みんな、あの怪物が現れた時は、怪物から一番遠い建物に避難させられるからさ、見たことがあるって言ってる人も一瞬だと思うよ」


 シャドーは学園に出現することが多い。そして、その付近で暴れるものだから、当然ながら校舎にも被害が及んでしまう。

 生徒が怪我をするくらいなら校舎が壊れた方が良いと久遠くおんは言っていた。

 だが、破壊された校舎はなぜか──シャドーを倒すと何事もなかったかのように元通りに戻るのだった。

 そして、あんり達の怪我も同様だった。


 これは雪桜ゆめがレギオンと戦っていた時も同じだったとヒースが言っていた。

 守護騎士ガーディアンに関わることは化学的に解明できないことばかりだ。

 『過去に戻りたい』という怨念の塊であるレギオン、そして、それから産まれたシャドー。

 それらが現代に残る物を壊したところで、時間を正常にしようとする守護騎士ガーディアンに敗れたなら、壊れたものが元通りになるのも頷けると彼は推測していた。


 確かにレギオンやシャドーが未知のものなら、それらが及ぼす影響の原因も、もっと柔軟に考えるべきだ。

 理解できない、納得できないで引き下がってくれる相手ではないのだから。


「あなた達も見たいって思うわよね、あの人達!一目でいいからお顔を拝見してみたいし、できるならサインだって欲しいもの!そして自慢しちゃうの!」


 あんりと瞬月しづきと同じ授業を受けていたフェルヴォーレ寮の女子生徒が意気揚々と話しかけてきた。

 彼女は体が資本と言われるフェルヴォーレ寮の名に違わぬ、たくましい体をしている女性だった。


「でもあの人達って怪物が消えたらいなくなるんだよ?戦ってる時に見に行ったら絶対危ないし……」

「なあにそれ。そのくらい平気よ」


 シャドーの出現で自宅に帰った生徒は少なくない。

 久遠くおんが説明をしても、それでシャドーの脅威が消えるわけではないからだ。


 封印の話を置いておくのならば、ここから遠く離れた所にいた方が絶対に安全だ。

 久遠くおんもそれを分かっているからこそ、休学をする生徒を引き留めたりはしない。


 それでも、ほとんどの生徒は学園に残っている。


「だって、こんなことで臆していたらお父様に見限られてしまうもの」


 女子生徒は遠い目をしながら、切羽詰まった声でそう呟く。

 どの寮に所属している生徒も、親の期待から逃れることは出来ない。それはきっと、想像を絶するほどのプレッシャーなのだろう。

 アリビオ寮に所属しているあんりには遠い世界の話だった。


 野次馬根性で残っている者、この学園で学ぶことを命の危機よりも優先している者。

 理由は様々だが、幸か不幸か学園には生徒が多く残っていた。


「むしろ、私の武術でその人達を助けられるんじゃないかしら。これでも全国大会常連だから、お役に立てると思うのだけど」

「確かにいいかも。僕も一目で良いから見てみたかったし……今度こっそり見てみようかな」

「だ、だめだよ絶対だめ!だってアレ、校舎だって壊しちゃうくらいすごく強いんだよ⁉私達じゃ絶対に敵いっこないよ!」


 笑えない冗談を言う瞬月しづきの肩を掴み、思いきり揺さぶる。


「はは、冗談だよ。まぁもし僕が襲われても……誰も心配する人はいないから大丈夫」

「私が心配するよっ!だって瞬月しづきくんはお友達だもん!」

「ありがとう。父さんよりも優しいね、愛宮えのみやさんは」


 少し悲しげな瞳を泳がせる瞬月しづきはあんりの言葉にきょとんとして、何かを言おうと口を開きかけ──黄色い声に阻まれた。


「静かになさい。女性が大きな声を出すなんてはしたないですよ」


 教室に入って来たのは長く艶のある黒髪をなびかせる久遠くおんと、次の授業である歴史の先生、そしてもう一人──見知らぬ男性だった。

 教室に入ってきた三人は見知らぬ男性を中心にして教壇に並ぶ。


「歴史の授業は今後二人体制なります。これは新任の先生に現場に慣れてもらうためです。あなた達の担当をしていらした古谷ふるや先生はご退職なされるので、彼はその後任ということになります。それでは、自己紹介をお願いします」


 静粛にと言われた女子生徒達は尚も興奮を隠せない様子で色めき立っている。

 紹介された男性がコホンと咳ばらいをしただけで、わっと盛り上がるほどだった。


「なんてお顔の整った方なの……⁉あんな方、なかなかお目にかかれませんわ……!」

「もしかして業界の方ではありませんか⁉それならあのオーラにも納得ですもの!」


 どうしてそんなに騒いでいるのだろうとあんりは首をひねるが、どうやら彼は世間一般でいう『イケメン』というやつに分類されるようだ。

 そういう方面には詳しくないのだが、確かによくよく見てみれば、サラサラな灰色の髪と赤い目が綺麗な顔立ちに良く似合っていた。

 珍しい組み合わせの髪と目の色に、ハーフなのだろうかと首を傾げる。


「でもよく分かんないな~。カイくんの方がよっぽど恰好良い思うけど」

早乙女さおとめさんは女子だよね……?」

「そうなんだけど、それとこれとは話が別っていうか~……」


 件のカイはというと、珍しく教室いるにも関わらず机に突っ伏して眠っている。

 これだけの騒ぎになっているのに起きないとは、よほど良い夢でも見ているのかもしれない。


 そして久遠くおんに挨拶をするように促された男性は、一礼をして教室全体を見渡す。

 そして、あんりと視線が合うと──何故かじっと見つめられた。


「初めまして。今日からこの学園に赴任しました柊木ひいらぎすすむと申します。至らないこともあると思いますが、皆さん宜しくお願いします」


 柊木ひいらぎの自己紹介に、キャーッと女子が沸く。

 それを見かねた久遠くおんが手をパンパンと叩いて鎮めた。


「静かになさい、何度も注意をさせないように。いついかなる時も、この学園の生徒だという自覚を持った行動と言動をするように心がけて下さい。それでは、授業の準備をして席に着くように」


 そう言って久遠くおんは颯爽と教室を後にする。


 二人の先生による歴史の授業が始まったわけだが、あんりのクラスは集中できていたかと言えば首を横に振らざるを得ない。

 女子のほとんどが新任の柊木ひいらぎを見てひそひそと内緒話をし、何度も古谷ふるやに注意されていた。


 授業後も柊木ひいらぎに対する質問責めは止まらず、人だかりで本人が見えなくなるほどだった。


 いつしか守護騎士ガーディアンの話をしている人はいなくなっていた。


 これはこれで良かったのだが……あまりにも急な展開に、なんだか拍子抜けしてしまうあんりなのだった。



 ◇



「はあ……教師ってこんなにキツい仕事だったのか……生徒に教えるだけなんて簡単だと思ってて悪かった……これじゃいつ過労死してもおかしくない……」

「あなたの場合は特殊だと思いますよ。こんなに女子生徒に気に入られてる先生もそういませんから」


 お昼休み、柊木ひいらぎ──いやヒースは疲弊しきった顔で学園長室に駆け込んできた。

 新品のスーツを用意したはずなのにもう皺が着いていて、彼のこれまでの苦労が伺える。


「イケメンイケメンって……人間の顔のことはよく分からん。よく顔だけ見てそんなに熱を上げられるもんだよ」


 ヒースは頭が痛いのか、難しい顔で眉間を押さえている。


 もちろん言うまでもないが、こんな男性は今朝までこの学園のどこにもいなかった。

 目の前で輝きだしたヒースが、いつの間にかこの男性に姿を変えていたのである。


 久遠くおんはヒースが目の前で人間の姿になった瞬間を思い出しそうになり、勢いよくそれを振り払った。

 あんなことは記憶から消えた。いえ、今消しました。


 守護騎士ガーディアンやらシャドーやら、理解しがたいことは今までいくつもあった。

 自分は言い伝えを聞いていたから何とか飲み込むことが出来ただけであって、何も知らないながらも使命を受け入れてくれたあの二人には頭が上がらない。


 でも、ぬいぐるみが人間になるなんて話は聞いたことがない。そんなことは知らない。

 昔から傍にいたぬいぐるみが喋って動き出しただけでもおかしいのに、その上人間になってしまうなんて。


「ヒースだから柊木ひいらぎすすむかぁ~。でもまさか、ヒースが人間になるなんてねぇ。これも守護騎士ガーディアンの力ってことなのかな?」

「何でもアリかよ。ここまで来るとシャドーも人間になったりしてな」

「縁起の悪いことを言うな……」


 あんりとカイがテーブルを挟んで久遠くおん達の前に座り、購買のお弁当を食べていた。

 ヒースの件について話があると、自分が学園長室に呼び出したのであった。


 彼はあんり達が『こころかぎ』を発見した頃から体の調子がおかしいと言っていたし、恐らくは守護騎士ガーディアンの力のせい……だと思う。

 なんでもかんでも守護騎士ガーディアンせいにするのは思考を放棄しているようにも思えるが、それ以外原因が分からない。

 これ以上考えていると久遠くおんにも頭痛が襲ってきそうだった。


「『こころかぎ』を使ったことで封印がより強固になったと言ったろ。その余波のせい、ということも考えられる。全ては憶測に過ぎないが……」

「へぇ~……まさに奇跡、って感じだね」

「奇跡ねぇ……最近は奇跡のバーゲンセールって感じだが」


 ヒースが人間になったあと久遠くおんはパニックになり、不審者が出たかのような悲鳴をあげてしまった。

 見ようによればそれで間違いはないのだけれど、久遠くおんの悲鳴のせいで近くにいた生徒や先生が集まって来た時はお終いだと悟った。

 それはもう、色んな意味で、だ。ヒースは全裸だったし。


 結局は学園長室の机の下に隠して事なきを得た。

 ヒースは久遠くおんが焦っている理由が分かっておらず、自分が隠されたのかも理解していなかった。

 それはそうだろう。ぬいぐるみに服を着るという概念があるはずがない。


 とりあえず、その場は適当に言い訳をして生徒達にお引き取り願ったのだが、新たに発生した問題は人間になったヒースをこれからどう匿っていくか、だった。


「……というわけで、ヒースは柊木ひいらぎすすむという名前で歴史の先生をしていただくことにしました。ちょうど歴史の先生がそろそろご退職される予定だったので、自然な流れで紹介することができて良かったです。この姿では匿うことも容易ではありませんし、彼も歴史には一家言あるようなので」

「確かに、ヒースってすごい昔からいるんだもんね。まるで歴史の教科書みたい」

「ただ昔からいただけだ。まぁ目が覚めてから今日まで暇だったからな、ここにある本は殆ど読んだ。人に教えるくらいなら僕にもできるだろうが……ただ、あの生徒達の相手となると話は別だが……」

「それは……こちらからも注意をしておきます。あなただけでなく、彼女達の学業にも支障をきたしそうですから」


 げっそりとしたヒースに同情の視線を向ける三人。

 授業以外、四六時中女子生徒に囲まれていた彼は久遠くおん達が思っているよりも疲労困憊しているようだった。


「とにかくこれで守護騎士ガーディアンの噂は殆どなくなったようですね。私のクラスでもあなたの話題でもちきりでしたが、一気にヒースの話題にすり替わりましたよ」

「もしかして、そのためにヒースを先生にしたんですか?」

「それもありましたが……そのためだけではありません。彼が教師をすると希望したので、私は学園長代理の権限を使って正式な手続きを踏んだに過ぎません。ただ……他の先生に紹介した時の反応で、ああなるかもしれないと予想していましたけれど」

「つまり、噂には噂をぶつけるってことか」


 カイはそう言いつつもう一つの弁当を開ける。

 まさか二箱目を食べるのかとぎょっとしたが、あんりに至っては三箱目を完食していた。

 この二人を見ていると自分の食事量が異常なのでは……と不安になるが、ヒースも信じられないと言った目で二人を見ていたので、それは杞憂に終わった。


「昼ごはんまで一緒にって言われた時は参った……この姿になっても食欲とかそういうのは感じないんだよ。このままずっとご飯を食べないと流石に怪しまれるか……?」

「小食ってことにしたらいいんじゃない?お昼はゼリーだけって子もいるよ?それかここにいたら誰も入ってこないんじゃないかなぁ」


 あんりがもぐもぐと口を動かしながら提案する。


「……そうですね、私は構いません。学園長室は好きに使っていただいて結構です。今までとさして状況が変わるわけでもありませんし」

「そうか、じゃあそうさせてもらう」


 ぬいぐるみの時だって入り浸っている時間は長かったのだから、今更どうということではない。

 ただそれが人間になったというだけで。

 いや、それが一番おかしいことではあるのだけれど。


 久遠くおんが悶々と考え込んでいると、あんりとカイが弁当を食べ終わった直後に唐突に窓の外が暗くなる。

 全身の身の毛がよだつこの感覚には見覚えがあった。


 それすなわち、シャドーの来訪である。


久遠くおんさん行ってきます!避難誘導はお願いします!」

「ええ、どうか気を付けて……!」


 二人の少女は窓からその存在を確認すると、一目散に学園長室を出て行った。

 それから間もなくして、型式の古いスピーカーから避難を呼びかける放送が流れ始めたのだった。



 ◇



 シャドーが現れたのは学園の外れ、生徒たちがあまり寄り付かない所だった。


 学園に現れることの多いシャドーから逃れるには、出現した場所から離れることが先決だ。

 だから、校舎から離れている場所に出現するに越したことは無い。


「カイくん、後ろから来てるよ!」

「チッ、面倒臭いなコイツ‼」


 彼女たちは今日も今日とて戦っていた。

 『こころかぎ』の一つ、『セイバーキー』を使って和装に変化した彼女達はそれぞれの刀を使ってシャドーと互角に討ち合っている。

 生徒達を避難させた久遠くおんとヒースは何をすることもなく、それを離れたところから眺めていた。


「……傍にいるのに何も出来ないというのは、やはり堪えるものがありますか?あなたもそうだったのでしょう」


 刀がシャドーを切り裂く音が遠くに聞こえる。

 あの惨状は現実に起きていることなのに、こうして傍から見ているだけの自分はどうしても蚊帳かやの外のように思えてならない。


 久遠くおんは『こころ時計とけい』には選ばれなかった。

 当時はどうしてもそれが許せなかったけれど、今はあの二人に任せて良かったと思っている。

 でも、それは自分が何も出来ないことの弁明にはならない。


「私は雪桜ゆめ様の血を引いている。だから当然『こころ時計とけい』に選ばれるのだと思っていました。ですがそれも不可能になった今、私はあの人達のために何が出来るのでしょう」


 久遠くおんはシャドーや守護騎士ガーディアンのことを生徒に怪しまれないように説明し、避難の誘導をしている。

 でもそれは当たり前のことだし、誰にでも出来ることだ。


 何度考えても、自分は無力だと思わざるを得ない。


「それは僕も同じだな。ただ喋るだけのぬいぐるみなんていてもいなくても一緒だろ。まして雪桜ゆめといた時なんて喋れもしなかったんだ。せいぜい、終わった時の話を聞いたくらいだ。僕が雪桜ゆめと一緒にレギオンと対峙したのなんて、数回あったかどうかも分からないくらいだしな」


 ヒースは自虐のように笑う。

 だが、それに諦めは含まれていなかった。


雪桜ゆめが聖女って言われていた話をしただろう。確かに彼女は完璧に自分を強く見せていたけど、全人類から愛されていたわけじゃない。守護騎士ガーディアンという存在を知った時、心無く雪桜ゆめを攻撃する奴も当然いた」

雪桜ゆめ様はレギオンを立ち向かっているのに、ですか?」

「彼女だってすぐにレギオンを倒せたわけじゃない。世間は雪桜ゆめに守られてることも理解しないで、さっさと倒せと暴言を吐きやがったんだ」


 中身の見えないヒーローにすがる民衆は、自分の安全しか見えなくなってしまう。

 民衆を助けているはずのにその彼らに石を投げられてしまうなんて、なんという皮肉なのだろう。


「生徒達があいつらに、そういう言葉を投げつけないとも限らない。だから守護騎士ガーディアンのことを伏せるのも、あいつらとシャドーを関係づけないのも正しい選択だったと思う」


 あんり達を守護騎士ガーディアンだと公開することは、百害あって一利もない。現場に駆けつけることのできない父親もそう言っていた。


 これが最善の策だ。

 だが、どんなに正しい判断だったとしても──未来のことは誰にも、何も分からない。

 たった一つ選択肢を間違ったせいで全く別の道を歩くことになったとしても、過去には戻れない。


「自分を理解してくれる味方がいるってのは、それだけで何でもできるようになるものだ。雪桜ゆめもそう言っていた」


 その昔、物事の分別が付かなかった時。

 あの絵本は実際にあった話なんだよ、と友人に言ったことがある。


 怪訝な顔をして自分を見ていた友人の目に、久遠くおんは幼いながらこれは誰にも理解されないことなのだと悟った。

 雪桜ゆめが世界を救ったことは誰も知らないのだと。


 でも、ここには雪桜ゆめが残した力で戦う戦士と、かつて雪桜ゆめと共にいた友人がいる。

 自分が信じていたことは何も嘘ではなかったのだ。


「……確かに、自分のことを理解してくれいてるというのは、それだけで頼もしく感じるものですね」

「僕達に出来ることは少ない。だから出来ることは全部するつもりだ。雪桜ゆめの救った世界をまたレギオンにめちゃくちゃにされるわけにはいかない」

「もしかして……先生になったのもそのため?」

「……その方が、あいつらのサポートが出来るだろ。できることならあいつらと対等になれたらと思ってはいたが……本当に人間にるとはな」


 人間になったヒースは背が高く、見上げても表情がうまく見えない。

 ただほんの少しだけれど、彼が何を考えているのか分かる気がした。


久遠くおんさーん!終わりましたー!」


 こちらに向かってくるあんりに手を振る。


 自分に出来ることは少ない。それでも、何かはきっと出来る。

 それを精一杯やることが彼女達の助けになるのだろう。


 倒し終わったシャドーの仮面が転がり、風に乗って消えて行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る