第15話
アハティアラ公爵家の令嬢であるイングリッドは、月の光を溶かし込んだかのような髪に金の瞳を持つ美しい娘であり、その容姿は、何代か前に公爵家に降嫁した王女の姿そのものだと皆が言う。
あくまで婚約者候補という立場でイングリッドを紹介されたレクネンは、何故、すぐさまイングリッドを自分の婚約者として決める事が出来ないのかと、歯痒い思いをする事になった。
公爵家の後ろ盾を持ち、8カ国語を操る才女。所作もマナーも問題なく、完璧な淑女と呼ばれる令嬢を、自分の物にしたい等と考える輩は山のように存在するだろう。
アハティアラ公爵は先妻の娘であるイングリッドの事を疎んじているようではあるが、彼女の血筋は非常に確かな物であり、月の光と見紛うばかりに美しい彼女は、太古の昔に王家に嫁したと言われる月の妖精の片鱗を伺わせるものがある。
エヴォカリ王国のただ一人の王子となるレクネンは、美しい妖精のようなイングリッドに夢中となったものの、周囲の人間に対して、自分の思いとは正反対の事を言うようにしていた。
曰く、
「イングリッドは笑う事もしないつまらぬ女で、目の前に居ても生きているようには見えない人形みたいな奴だ」
とか、
「親にも相手にされないだけあって、イングリッドには面白味のカケラも存在しない。イングリッドを相手にしているのであれば、フィリッパを相手に話でもしていた方が、何倍にも心満たされるものだ」
とか。
いつも無表情で感情を表に出さないイングリッドも、義妹のフィリッパを引き合いに出した時だけ、表情に揺らぎが生じるのだ。
父親である公爵に認められたいと考えるイングリッドは、心の底から求めるような眼差しで、いつでも公爵の背中を見つめている。
同じような眼差しを向けられたいと考えたレクネンは、見目麗しい令嬢との逢瀬をイングリッドに見せつけるような事を度々行なった。
様々な令嬢と逢瀬を交わしたが、イングリッドが、大きく感情を動かすのはフィリッパと共に居る時だけ。レクネンはフィリッパに対して何度も愛を囁きながら、呆然と立ち尽くすイングリッドの悲しそうな表情を横目で伺うのが至福の時でもあるのだった。
相手にするのは下位の貴族令嬢だけ、フィリッパにしても所詮は庶子だ。
自分と最終的にどうこうなれる訳がない。
母の望む通り、最後にはイングリッドと結婚をして、王妃として彼女を愛し、敬い続けよう。
これは結婚前の戯言であり、お遊び以外の何物でもない。
一国の王太子が早々に婚約者を決めないのは、結婚前に、ある程度の自由を満喫させるため。
父と同じように自由を満喫した後は、王妃として相応しい者を伴侶とし、王家の血筋に相応しく、責任を持って国を守り成長させていこう。
「フィリッパ、君は何故、王妃の宮まで足を運ぶ?ここは王家のみが許された場所、君が足を踏み入れて良い場所では決してない」
王妃宮の前で大騒ぎをしていたフィリッパにレクネンが声をかけると、フィリッパは翡翠の瞳に大粒の涙を溜めながら振り返る。
「レクネン様!お探しいていたのですよ!」
「何故、君が私を探す必要があるんだ?」
「だって!ようやっとお姉様を退かせる事が出来そうだってお聞きして!私がレクネン様の婚約者として決まるかもしれないって父が言うので」
フィリッパはレクネンの胸に飛び込み、頬ずりをしながら上目遣いとなって見上げてくる。
「もちろん、オーグレーン侯爵令嬢の名前も上がっているそうなのですけど!私が一番の有力候補だって言われたので!」
「私はイングリッドとの婚約を止めるつもりはない」
「はい?」
「フィリッパ、君はイングリッドと同じように8カ国語を何の問題なく話す事が出来るのかい?」
「ええ?」
「エヴォカリ王家の作法百般は理解しているのか?」
「はあ?」
フィリッパは常に新しいドレスに身を包んでいる、舞踏会場にでも着て行きそうなドレスを普段使いにしているところも下品であるし、都合が悪くなると、涙で濡れた瞳を向ければ全てがうやむやとなると考えている所も浅はかだ。
頭の悪いフィリッパはレクネンの自尊心を擽ぐるような言葉を紡いでいけば、レクネンの心を簡単に捉えらる事が出来るのだと思い込んでいる。そのレクネンの心はすでに、イングリッドに捕えられたままの状態となっているのに。
叔父とはいえ、王弟であるエルランドと愛を語らい合うなど容認できる事ではないのだ。
「フィリッパ、私が愚かな君と結婚をするわけがないだろう?」
レクネンは引き剥がすようにして侍従にフィリッパを渡してしまうと、
「私が妻とするのはイングリッドだ、それ以外には存在しない」
と言って、フィリッパに背を向けてしまったのだった。
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