第26話 あらそいは始まって⑩

******


 登るため、俺が白い龍族の鼻に足をそっと押し当てたときだ。

『アウルッ! 大変だよアウル! 思ったよりずっと近くに人族がいるよ! 斥候がいたんだ! メルトリアが――……って、人族⁉ 結界内部にまで入り込んで!』

 空を裂く矢のように飛来した黒い小さな龍が大声で捲し立て、すぐに俺に気付いてギュンと距離を取る。

 俺はその言葉に白い龍族に登るのを止め、声を上げた。

「メルトリアだって? ……人族って……まさかもう侵攻してきたのか――? く、白い龍族、すまない。話はあとでもいいよな? ……俺、行かないと……!」

 白い龍族は俺と目を合わせると金色の双眸を一度だけ瞬いて同意を示す。

『ミシャ、斥候の規模はどの程度かね?』

『え? えぇと? どういう状況なのかなアウル……えぇと、その、十匹・・くらいは? 身を隠すのがすごく上手くて全部はわからなかったよ……。おいら、そのうちの一匹に弓で狙われて――メルトリアが逃がしてくれたんだ……!』

『そうか。……ならばミシャ、この者を運べるかね? 彼の千葬勇者アルトスフェンだ』

『千葬勇者……⁉ じゃあ彼が……わ、わかったよアウル。勇者様すぐ乗って、メルトリアのところまで運ぶから!』

 ミシャと呼ばれた黒い龍族はひらりと身を翻して俺の目の前に降りてくる。

 小さいと思ったが胴体は俺よりひと回りは大きく、翼や首、尾も入れればかなりの大きさだ。

 俺は頷いてその背に飛び乗った。

 ……が。

『お、重……ッ⁉』

 その体が沈み込み、俺は細い道で足を突く。

「ああ……鎧の重さも足されてるからな……まさかこのままだと飛べない?」

『馬鹿にしないで、おいらだって人族の一匹や、二匹ッ……! メルトリアだって運べたんだからね!』

「それたぶん、彼女に言ったら怒られるぞ」

 思わず言ってから、黒い龍が踏ん張るのを見て俺は荷物を放った。

 食糧やら野営の道具やらはいま必要ないだろう。

「これでどうだ?」

『あ、あぁ、うん。す、少しマシ……えええいっ!』

 ミシャと呼ばれた黒い龍の体がふらふらっと浮き上がる。

 必死に羽ばたく翼が風を切る音が痛ましいけど……俺にはどうしようもない。

『ふむ。なんとか飛べそうだね。荷物は私が預かろう。……メルトリアを頼んだよ千葬勇者』

「ありがとう。必ず助けてみせる。……貴方はアウルっていうんだな、よろしく」

 白い龍は応えた俺に巨大な頭を上下させると、俺の荷物をむんずと掴んで身を翻す。

 飛び方は心許ないが、ミシャと呼ばれた黒い龍もなんとか体勢を整えたみたいだ。

『つ、掴まっていてね! 飛ばすからね!』


******


 突如喧噪が戻り、木々のざわめきと殺気立った空気が肌を撫でる。

 結界を出たのだ。

 昼を過ぎた時間帯、澄み切った晴れ渡る空とは対照的な重い空気だった。

「ミシャ、だったな。矢を射られたのはどのあたり?」

『もうすぐだよ。谷を進んだ先。メルトリアは突き出た大きな岩に下りて、おいらに逃げるよう言ったんだ』

「わかった。俺を下ろすのはその少し手前でいい。君は見付からないよう気を付けてくれるか?」

『う、うん……ねぇ千葬勇者。人族はメルトリアを襲ったりしないよね?』

「…………。わからない。でも、そのときは俺が護ってみせるよ。こう見えて強いんだぞ? 龍族には敵わないけどな」

 俺が笑ってみせると、ミシャは頭だけちらとこっちに向けて、牙を剥く。

 ――笑った、んだろうか。

 考えていると、前を向いたミシャが言った。

『そろそろだよ。岩は谷沿いだからすぐわかると思う』

「おう、あとは任せてくれ!」

 俺は谷沿いに降り立ったミシャに頷いて、硬い地面に足を下ろす。

 谷沿いは硬い岩盤のような地層で、そこから先は木々が生い茂る森が広がっている。

 冷たい空気には色濃い森の香りが満ち、俺はそれを思い切り吸って駆け出した。

「――無事でいてくれ……メルトリア」

 祈るように呟いた俺の先、曲がりくねった谷にせり出す岩の上――。

 俺は……倒れたフォルクスとそれを庇うように覆い被さるメルトリア、そして武器を手に彼女たちを取り囲む十数人の人族を確認した。

 そのひとりが剣を掲げ、切っ先が太陽の光をチカリと瞬かせる。

「っ! やめろ! 剣を下ろせ!」

 間に合え、間に合ってくれ――!

 叫んだ俺は岩の上を一気に駆け抜ける。

 振り返った人族たちが対応を決めあぐねているあいだに距離を詰め、俺はメルトリアへと剣を振り下ろそうとする人族の首に自身の剣の刃をピタリと当てた。


「……剣を下ろせ。彼女たちに手を出すな」


 こんなに全力で走ったのはいつぶりだろうか。

 それでも昂ぶる気持ちが勝っているのか、息は切れなかった。

 ただ――彼女に剣を向ける行為そのものへの嫌悪感で胸の奥が疼くのがわかる。

「……なんだ、お前もこいつらの仲間か? 違うなら退いてな。斬るぞ」

 人族の――壮年の男。茶色い短髪にギラギラした灰色の瞳で、彼は剣を構えたまま視線だけ俺に向けて鼻を鳴らす。

 刃を当てられてもこの反応――纏う鎧は真っ黒で細かな傷がいくつも刻まれていた。

 ……かなりの猛者だ。

 けれど。

 俺は……その向こう側、フォルクスやメルトリアを染める鮮血にギリ、と歯を食い縛る。

 倒れたフォルクスに覆い被さるメルトリアの亜麻色の髪が岩の上に流れ、ふたりとも動かない。

 微かに呼吸はしているとわかるけれど……それだけ。岩に線を描く紅い液体がじわりと滲んでいくだけだった。

「まさか……ふたりを斬ったのか……?」

「あぁ? ったりめぇだろ、反乱分子を斬らねぇ理由がどこにある?」

 瞬間、後ろから放たれた矢に俺は右足を引いて剣で払い落とす。

 黒い鎧の男がここぞとばかりに俺へと剣を振るうのを再び剣を振り上げて受け、俺は真っ向から男を睨んだ。

「――反乱分子だって? ふざけるな……なにを理由に!」

「ふん。知っているんだぞ。その女の髪と目は皇族と同じ色だが〈ヴァンターク皇国〉の皇族じゃない。……じゃあいったい何者だ? 反乱分子だって判断されても――うぉッ⁉」

 俺は刃を地面と平行に回転させて男の剣戟をいなし、一歩身を退く。

 男はわざとらしく額を拭う仕草をした。

「ひゅー。若いのにやるな? ……これは偉大な星詠みのお告げなんだぜ? その女は間違いなく魔物を飼っていた皇帝一族……その子孫だ。龍族と繋がって反乱を起こす禍星まがぼしじゃないならなんだというつもりだ?」

「…………人族と龍族の平和を願う者だ。あんたの言う偉大な星詠みってのは蒼髪の男の師匠か? そいつと話を――ッ⁉」

 言いかけた瞬間、男が踏み込んで突きを繰り出してきた。

「くっ……聞けって!」

 剣の腹で受け止め、切っ先を体の右側へと流す。

 男はすぐに剣を引くと、左手を振って後ろに跳ぶ。

 その向こう側から放たれた矢が雨のように降り注ぐのを走りながら躱し、俺は狙い澄ました次の矢を剣で斬り払う。

「ちっ、ちょこまかと……」

 男が灰色の双眸を不愉快そうに歪めたとき、俺は剣を降ろして言った。

「攻撃をやめろ! ふたりの手当てをさせてくれ!」

「あぁ? 馬鹿言うなよ。そいつを断罪するんだよ――〈ヴォルツターク帝国〉の亡霊め」

「――もうあんたたちの国は〈ヴォルツターク帝国〉じゃない、革命は終わったんだ。あんたたちは雇われて龍族狩りに来たんだろ? なら彼女たちを傷付ける必要はないじゃないか!」

 胸の奥が疼く。

 たしかにかつての皇帝一族が行っていた行為は赦されることじゃなかったんだろう。

 多くのヒトが命を落とし、多くのヒトが苦しんだんだろう。

 魔王となにが違うと問われたら俺は返せない。

 ……でも。護るって決めたんだ。

 俺は――勇者なんだから!

 柄を握る指先、その一本一本に力を込める。

 ひとさし指、中指、薬指、小指――親指。

 ヒトを……人族を相手にすることが、その体を傷付けることが、どれほど罪深くとも――俺は助けたいヒトたちのためにこの剣を捧げてきたんだ。

「剣を引け。でないと……俺も俺の護りたいもののために剣を取る。腕や足の二、三本は覚悟してもらうからな」

「あぁ? 面倒だなお前。若造になにができる?」

「――若造、ね」

 俺は瞼を下ろして深々と息を吐き出した。

 胸の奥がずっと疼いている。ずっとだ。

「降参するなら早く言ってくれ」

 ぱっと瞼を跳ね上げ見据えた先、男は眉間に皺を寄せて唇を歪ませた。

「降参? 馬鹿言うな、若造。来いよ、相手してやる」

「…そうか。いいんだな……いくぞッ!」

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