第25話 あらそいは始まって⑨
轟く重厚な声は腹の奥を震わせる。
俺は息を呑んで目を瞠った。
白い皮膜を持つ四枚の翼に、どっしりとした胴体から伸びる四つ脚。
太い首の先、ずらりと並ぶ岩山のような牙を持つ
――白い、巨龍だ。
魔王と対峙したときとは比べものにならないほど圧倒されて肌がびりびりする。
纏っている気配は緊張すら感じられない柔らかなものなのに――動けない。
世界には……こんな種族も存在しているのか……。
物語に描かれる龍はいつだって強くて――だけどそれは誇張なんかじゃなかったんだ。
彼らと争えば一帯が焦土と化す。それが嘘でも大袈裟でもないことがわかる。
呼吸すら忘れて、俺は呆然と龍族を見上げるしかできなかった。
『……なにをしに来たのだね』
けれど龍族はそんな俺にお構いなしでさらりと言って金色の双眸を細める。
我に返った俺は慌てて息を吐き出し乾いた唇をペロリと湿らせた。
そうだ、俺のことを知っている龍族なら……きっと彼女のことだって。
圧倒されている場合じゃない。しっかりしろアルトスフェン。
「メルトリアと話がしたいんだ。会わせてくれないか」
『…………』
そう言った俺に白い巨龍は逡巡するように体をうねらせ、高度を保つために羽ばたきながら『クカカ』と喉を鳴らす。
『ふむ。彼女は黙って姿を消したのではないのかな。何故追い掛けてきたのだね?』
「事情があったんだってことくらいわかるさ。でも……黙っていくなんて
『それに?』
「助けるって約束した。俺は彼女がどう言おうと関わるって決めたんだ。――誰かを助けたくて勇者になったことを思い出させてくれたメルトリアのために、やれることをしたい」
言い切った俺に、龍族は黙っていた。
羽ばたきの音と巻き起こる風が俺の耳朶を打つけれど、俺は龍族の返事を聞き逃すまいと耳を傾け、澄ませる。
『――千葬勇者。お前は遺されることを恐れているのだろう?』
しかし。聞こえてきた予想外の言葉に俺は瞼を瞬いてしまった。
「お、おう……? メルトリアから聞いたのか? ……あー。もしかしてあなたがメルトリアの言っていた『家族』の龍族なのかな?」
『家族……か。そうだね、メルトリアは私の娘だ』
「なら隠すこともない、か――そうだよ、自分でも子供染みているとは思うんだけどな。そんなときにメルトリアはあなたに会ってほしいと言ってくれた。永きを生きる存在と話してみたいと俺も思ったんだ。……龍族からしたらちっぽけな悩みなのかもしれないけど……遺されるのが寂しくて、つらくて、だから逃げようとしていたんだ」
俺が口にすると、白い龍はバフバフと音を立てて息を吐く。
……笑った……のかな。
俺が訝しんでいると白い龍はバフッと咳払いらしい音を放ち、顎を開いた。
『葬送するということは、その瞬間まで愛を授けられるということだ。愛する者に自分の愛を授けて送り出せるのに、なにを恐れることがあるのだね?』
「……愛を授ける?」
『そう。……誰もいない暗く冷たい場所で命の灯火が消えていく……そのときを考えたことはあるか千葬勇者よ。私の娘はそれを受け入れようとしていた。可哀想に、心も体も壊れかけて……しばらくは笑うことさえなかったのだ』
「!」
忘れられたかった、と。
メルトリアは言っていた。
谷底へと落とされるそのとき、彼女は――拠り所もなく、ひとりだったのだ。
でもそれを受け入れようとしていた、受け入れるしかなかったのだろう。
孤独のなか壊れそうなほどに苦しんで、本当は痛くて恐くてたまらなかったはずなのに。
……勿論、俺は俺が見送った誰もが幸せだったとは思わない。
苦しみながら血を吐いて息絶えた者だっていた。俺が剣を突き立てて命を奪った者もいた。死にたくないと泣き叫んだ者もいた。
……でも。
俺がいてよかったと言って……星になった者もたくさんいた。
後を頼むと託された。生きろと背中を押された。
遺されるのは寂しい。苦しい。
だけど……そんな彼らを送ってあげられてよかったとも思う。
だから……俺もそんなふうに送ってほしい――。
そう考えたら自然と言葉がこぼれてしまった。
「俺は…………独りで死ぬのは嫌だ」
それを望まなかった――望むことすら許されなかったメルトリアはどれほど傷付いていたんだろう。
白い龍は俺の思いを聞いて大きな頭部をゆっくりと上下させた。
『私はかわいそうなあの子に教えた。多くに愛を授けよ。愛を持って葬送せよ。送った者たちの愛をお前もその胸に受け取っているはずなのだから、と。――それはひとりではない証、忘れられていない証となろう。与える時間が長いということは即ち、受け取った愛もまた多くなるのだよ、千葬勇者』
「……」
思わず鎧の上から胸に手を当てる。
冷たくて硬い感触の下、鼓動を続ける俺の心臓は早鐘のようだ。
まだ、なにか掴めたわけじゃない。寂しくないと思えるわけでもない。けれど。
「……ああ……ルーイダが言っていたよ。『あんたのなかで皆の思い出は生きている。あんたが星になるそのときにきっとわかる。大切な人たちを葬送してよかったと』……って。いまはまだ正直よくわからないけどさ」
〈エルフ郷〉に築かれた記念碑を見せてくれたとき、ルーイダは俺に『独りじゃない』と言ってくれた。
生きる時間に関係なく、忘れたくない、忘れてほしくない。それは皆も同じなんだな。
……だけど、それなら。
愛を受け取っているはずの彼女が――メルトリアが忘れないでと言わないのは――忘れられたいんじゃなく、言えないからだ。
「……メルトリアはまだ……立ち直ってなんかいないんだな……」
呟くと白い龍は再びバフバフと息を吐き出した。
『そこまで私の娘を理解しているか千葬勇者よ。そうだね、まだあの子は自分の生きる意味を見出せずにいるのだ。けれど……そう。お前と出会ったことで彼女もまた乗り越えようとしているのだよ。よかろう、あの子のために話をする必要がある。……さあ頭を伝って背に乗りなさい、我らの住み家へと
「お、おう……ありがとう……。その、メルトリアもそこにいるのか?」
『その話も住み家でしよう。飛んだままというのも骨が折れるのでね』
「あ……そうか。申し訳ない……それじゃ失礼して」
巨大な
鱗があるのはざらりとした感触からわかったけど――そうか。顔回りの鱗はぱっと見ではそんなに目立たないんだな……。
……絶妙な弾力感と一緒に温もりが指の腹を伝わって、本当に温かいんだと感心した俺は白い龍族の鼻の上へとよじ登ろうと試みた――。
******
一方。
「くそ、なンだってんだよ……勇者サマは消えちまうし……前にいるのは人族っぽいし? これで戻ってこなかったら勇者失格ってもンだ! あー、くそ!」
フォルクスは考えうる悪態をツラツラと並べながらも足を止めず、肌が擦りむけるのも厭わずに木々のあいだを前へ前へと進んでいた。
煙のように……と例えるのがぬるいほどの一瞬でアルトスフェンは掻き消えてしまったが、途方に暮れる間もなく枝葉のざわめきに混ざって微かに声がしたのだ。
「……龍だ! 撃ち落とせ!」
行かないという選択肢などフォルクスは持ち合わせていない。
彼はむしろ龍族と人族の争いを止めるために動かねばならないと考えた。
――お人好し勇者サマと過ごすうちに、ずいぶんと緩くなったもンだな、俺も。
フォルクスは唇を引き結ぶと円月輪を手にしてさらに歩みを進める。
やがて川の音が近くなり、視界が開けた。
眼下に吸い込まれるような形で口を開けた谷を凄まじい風が駆け抜けていく。
フォルクスは身を低く保ち、あたりを窺ったが――。
「!」
ふわふわと谷間を過っていくのは黒い龍――のように見えた。
それだけじゃなく……誰かが
フォルクスは鳶色の目を見張った。
「おい……ありゃ姫さんじゃねぇか……ん?」
瞬間、フォルクスはなにかの気配を感じて視線を奔らせる。
フォルクスより先……草の間からゆるりと立ち上がったのは……人族だった。
草木の色によく似たローブ姿で、顔の付近には小枝を何本も仕込んで擬態させてある。
――隠れていやがったのか……ありゃ斥候だな。龍を狙ってンだとしたら思ったより侵攻が早いってことだ。そうするとやっぱ、あれは龍……。
考えを巡らせるフォルクスには気付いていない。そいつは弓を出すと、体と同じくらいの太さの木に身を寄せる。
そしてキリリと引き絞った弓にはしっかりと矢が番えられていた。
狙いは……黒い龍――。
「おい、やめろッ! 人族が乗ってンだぞ!」
フォルクスは咄嗟に怒鳴り、円月輪を放つ。
「!」
びくりと反応した斥候から放たれた矢は、かろうじて黒い龍から逸れたようだった。
フォルクスは斥候の近くを掠めた自身の円月輪を回収し、黒い龍がメルトリアの指示で谷のこちら側へ下りていくのを確認するとすぐに走り出す。
斥候がなにか言ったように思ったが無視だ。
「斥候がひとりとは限らねぇ……なンだって姫さんひとりでこんなところに……! いや、いやそうだな、龍族への侵攻を阻止しようとしてンだ……くそっ早くこいよ勇者サマ――!」
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