王達の合唱戦争は結婚の相姦を始原の崩壊として知らない

 フロイトが提案したエディプス・コンプレックスとソフォクレスの『オイディプス王』の関係はどのようなものなのか。フロイトの説明はオイディプスが母と近親相姦を犯すことを神々の運命である死んだ実父の立場から再構成したものなのではないか。ラカンの言い方ではオイディプス自身はエディプス・コンプレックスに嵌っておらず、最後まで自分自身の知的な尊厳を「生まれてこない方がましだ」に行きつくまで守り通すことに英雄的な資質が見いだされることになる。ソフォクレスはなぜオイディプスに踝の傷をつけることをあえて宣言するのか。それがオイディプスの劣等感を示しているからなのか。ここで考えられているのはスフィンクスに代表象される社会的なの歴史的機能がオイディプスには知恵の優秀さとして欠如しているということが悲劇の連鎖を引き起こすという精神的な洞察を社会的な制度の抑圧と命法的に取り違えていく権力機構の連鎖として二重に描き出すことに劇的な緊張と葛藤があるということをどのように解釈するか、である。おそらくフロイトはこの連鎖の機能を非常によく捉えているがゆえに、エディプス・コンプレックスという構造は、仮にフロイトの意図的な父性の構成だったとしてもうまくいく説明原則としての価値があったのである。したがって問題は社会的なの機能をどう再解釈するのか、ということをあらかじめ人間的情欲に備わっているのものとして性的に提示してしまう社会的命法性の機能を精神分析が価値判断の流通として加担してしまうかもしれないという矛盾にある。ドゥルーズとガタリの介入がうまくいっていないのは精神分析を字義通りの象徴的命法として権力機構のグループ的なシステムとして描き出そうとしているからであり、仮に精神分析協会が実際にその通りの抑圧集団であったとしても、教会に対する批判のようにそれでは十分ではないということにある。そこでフロイトもラカンも解釈していない『コロノスのオイディプス』を考えよう。



 この作品の筋は簡単である。オイディプスが自分の故郷から追い出されてアンティゴネーと旅をして神々に敬虔な王子の庇護をあずかろうと封鎖された神殿に向かい、そこで政治的にオイディプスの墓を自国の近辺に回収しようとするクレオンとポリュネイケスの意向を突っぱねて、神殿の名付けられない領域で死を迎えるという話である。この劇は『アンティゴネー』におけるよりもクレオンとの対立は決定的になっておらず、国家との法の家族的原理の分裂も決定的ではない。そうであるにもかかわらずオイディプスは権力の方便を用いるクレオンだけでなく親兄弟の懇願という形式をとるポリュネイケスの頼みもはっきりと拒絶する。この劇でオイディプスが頼りにしているのは冥府の神々と復讐と豊穣の女神であるエリュニス達であり、王子側が祀ろうとしているポセイドンなどの海の神々ではない。しかしニンフはディオニュソスの従僕として頻繁に言及されるし、バッコスと同時に平原の踊りと供物として語られる。ここで海は境界線の役割を果たしているが、ニンフは情動的な価値を海の広さとして表しているというべきだろうか。フロイトの解釈では恥部の森林と陰唇の快楽ということになるのだが、そうでない解釈があるだろうか。しかしこの劇ではくどいほどオイディプスの近親相姦について聞き糺すという態度が現れており、性的なアナロジーがうまく入り込む余地は存在しない。エリュニスをアイスキュロスの劇に見立てて七本槍と七つの大罪としての意味を見いだすべきだろうか。だがそれはこの劇の全体の敬虔さと相反している。エリュニスは罪の地平を空間的な視線とは別の場所から参照する一意性として憑りついているが、それは観客にもコロスにもオイディプスにもアンティゴネーにも無関係な位置においてである。この劇で神々とオイディプスの「和解」が主題になっているのというのが疑わしいのはオイディプスの死がクレオンにもポリュケイネスにもアンティゴネーの破滅にもつながっていくからであり、単にクレオンに対して恨みを晴らしたから神々に対して傲慢に振舞うべきでない、というようなコロスの説明を真に受けるべきではない。



 オイディプスの「王だった位置」への欲望が問題なのか。この問題に対するオイディプスの反応は「不運だった」という点に集約される。どうしてだろうか。それはオイディプスが父であり王だったライオスに対して正当防衛を行う司法の因果的な理由があるからではなく、神々の指示に従うことの代償が結果として自らの行為に招く惨劇と直接的に繋がっている、という預言の未来記入の参照的な合致の事実性にあるからである。あまり比較されることがない対置、フーコーとラカンの解釈の議論からこの問題を考えてみよう。デリダの問題を考えない理由は『オイディプス王』においてオイディプスがスフィンクスを殺して父殺しと母子相姦の王にならなかったシナリオがあったかもしれない、というテキストの散種性が問題ではないからである。ソフォクレスのいうような出来事が現実の参照先としてあるような普遍的な宛先であるかどうかは真理の公表の詩化という水準と同じ説明を当時のギリシアの劇創作の競技性が民衆に対してさえ満たしていたとは思えないし、現代の我々もその水準で出来事が世界に編集されて在るとは考えていない。したがってフーコーやラカンのように真理の法がディスクールになるフィクションの領域で、真理の実践と別の参照的なアクションの分割がありうるかどうかが批評の対象になる。まず第一の反論、フロイトの主張においてオイディプスは「実は」母と寝ることの欲望を父を殺すことの性的な症候として神々の権威によって自白させられる、という役割を精神分析が担っている、という批判を見てみよう。この説明が精神分析に対して間違った対象の役割を付与している、という点が問題ではない。精神分析が分析の結果として患者に対して行っている施術は「実際には」そうなってしまっている、というフィクション的な基準が焦点になっているからである。ラカンが「盗まれた手紙」を援用して用いている主張は、実際にはこの精神分析の転移の役割を対象の持つ暗示的なシニフィアンに纏わせてしまうのではないか、たとえ、分析家が司法的な役割の真似事をしているだけであるとしても。なぜなら政治的に王の立場の中傷がシニフィアンとして回帰するときには、その手紙のテキストの内容が決して公表されない約束に基づいているのだとしても、その現実的な潜在力は盗まれた性の典嗣に対する語りを構成してしまうだろうから。ラカンがこの反論を退ける方法は、政治的に王が革命によって現実に廃位されているという事実を参照するのではなくて、探偵小説的な読解が相手の読みのレベルを参照するような現実の焦点に合わせた真理要求の「盗み」を分析家は特定の「容疑者の」享楽として持ち込まなければならない、ということだった。なぜなら分析家の欲望は純粋な欲望ではなく、自分の享楽をフィクションの語りとして患者の性的な語りを象徴的な作用に代数化するように欲望のルアーのアクションを無意識の否認として導入しなければならないからである。


 つまりフーコーが反論しているのは探偵小説の自白的な構成のトリックを精神分析の転移的な欲望だと医療的システムのディスクールを誤解させている真理のシニフィアンに対する分析家の演技にあるということになる。確かにラカンはその意味では詐欺師だが、分析家として詐欺を行っている、というわけではない。つまりラカン自身が転移に対して中立的だ、と思っているわけではない。しかしラカンのやり口が倒錯としての機制を体制として強化するものになっている、という反論に対してラカンは単にそれは患者の転移だということが許されない位置にいる、ということが問題なのではないだろうか。仮にこのことをドゥルーズ主義者が最大限悪化させたとしてもである。フーコーのいうように『オイディプス王』を当時の時代状況の司法的なディスクールの一部として王の役割を実演できる、という読み方を利用する場合でも、ラカンの分析は完全に無効化することにはならないし、フロイトへの忠実さを濫用している、とまで言えるわけではない。ラカン的にはフランスの精神分析に対する実践が歴史分析的なディスクールにしか自己のへの代数的参照を変えることがないから、フィクションの科学的ディスクールを探偵的な犯人への自白として患者へのアプローチを転用したのだと恋愛的なゲームを提示するだろう。そうでないと精神分析でない分析家は個人的な意見の発話をだろうからだ。日本の場合、ある発話が哲学的であるということは、逆に自らの愛の欲望を語っているということにされることを考えると、精神分析の態度は非常にややこしくなる。エクリチュールとフィクションの関係は個人的な生産物の消費規定だけによって明確化すると考えられているからだ。したがって、この議論がどうして説明として十分でないのかを生産物の情欲の量子性から考察することを提案しよう。


 

 まずフーコーもラカンも(フロイトの)オイディプスに対して一致しているところはどこなのかを探らないといけない。そう考えた時、両者はフロイトと違ってオイディプスがに対して忠実であることが、何らかの規範的対象に対して優越するあるいはその可能性があると考えているのである。それをフーコー的に患者に対する性的な知の優越だとも、ラカン的に真理への愛に対する反-優越だと考えてもいい。しかしそれを持っているのは明らかに彼らが考えているフロイトである。だからフロイトが読み込んだオイディプスに対する解釈が影響を与えるものである、という立場をまず受け入れる必要がある。これはソフォクレスの劇の価値判断に対する評価ではない。つまり『オイディプス王』は性についての主題があるということは確実なことではないが、一旦そう読まれるのなら、性の主題が存在することを否定することはできない。なぜなら我々は男性優位的な社会に住みたいと思っていないからである。この欲望をフロイトや精神分析そのものに負わせるべきではない。だからといって精神分析がこの問題に性的な解釈として介入が失敗することがありうるということを現実の問題として引き受けないと言っているのではない。したがってソフォクレスのテキストを性的な解釈に委ねることに精神分析のきっかけ、あるいは驚きが参照される地点があるということを否認するべきではない。ただしそれはソフォクレスの芸術性に詩的に感心するという意味には還元されない。明らかにここにはオイディプスが自分の陥った状況を「不幸」だと考える際のアクセントが影響している。精神分析はこの「不幸」を決して単なる歴運的な偶然としては扱わないという点において反デリダ的である。それは不幸が運に左右されることを否定しているわけではないが、性的な状況においては偶然をそのに取ることはもはやのだ。そしてその意味で反-哲学としてのフロイト的な構築が存在する。



 ラカンがオイディプスを英雄と宣言するのはコロスと違って、オイディプスは神々の託宣に従うことは神々の運命に従うことだ、という風には、という点にあるのだ。しかしそのことはオイディプスが神々の礼儀作法を家族愛のようには聞き分けないという意味やクレオンのように政治の方便の一つとして利用される技術であるという機能に還元されることのない「強情さ」としてある。ラカンはこの「強情さ」を精神分析の倫理と見なしているのである。ラカン自身の態度からするとあまりに彼自身の位置からかけ離れているように見えるが、分析家の道徳的な追従から避けるための手段として前提にしているのはこれである。この強情さをどうして患者の抵抗と区別できるのだろうか。フーコーに習って、抵抗とは分析家の強情さに対する意志を表明するための政治的権利だ、というべきではないだろうか。なぜ精神分析はこれに対してヒステリーあるいは政治的な状況判断の停止を訴えるのか。それは精神分析が統治の技術の知を性的に転移させるための数学的構造だと見なしているからである。したがって精神分析はフーコーが言う「生権力」という概念装置に反対の立場にいる。確かに統治の技術の知は性的なシステムの真理性を再生産の位置に置くことで統計的な管理実践を行うのだが、それは歴史的ディスクールの代表象の位置には存在しないのである。仮に学術的な知識がそのような言説として個人の主張を流通させるのだとしてもである。したがって精神分析の判断はフーコーが有効な歴史的なパラダイムのフィクションを生産物の知識として有効な技術的集積の一部として参照することがあるとしても、その言説実践の抵抗を科学的なディスクールの性的な無知から症候として引き出している、と無効化された主体を定立する。この無効化を権力によって相殺された主体の知の概念装置の代理表象とはみなさないということが、精神分析と自由主義的権利実践を別つ分水領である。精神分析は主体の認知を抵抗として認めるが欲望の承認を主体としての立場には置かない。欲望は対象の位置にあるのではなく別の欲望の領域に参照される無効化された主体の表象を狙うからである。だからこそ精神分析は主体が「誤って」真理言表を他者に委ねることをコミュニケーションの失敗としては決してしないのである。コミュニケーションが意味の誤解を科学の無効化された主体とは別の性的な語りとして構築する際には、失敗することしか真理を伝達する手段がないからである。



 フロイトが行為による逸脱と呼ぶべきものをクレオンもポリュケイネスも担っているように思われる。クレオンはオイディプスからアンティゴネーを暴力的に誘拐することで、ポリュケイネスは自分の指導者としての座を戦争に確実に負けることがわかっていても権利として放棄しないことによってアンティゴネーの説得に耳を貸さないことで。しかしこのこととテイレシアスがオイディプスや『アンティゴネー』でクレオンに誘発するような神々の知見はどのように異なっているのか。このことを参照する鍵はイスメーネーの立場であると思われる。彼女はオイディプスの支えになるという親族への情をアンティゴネーとともに持つのだが、クレオンの国による法の強要に神々の名目が付けられる時には女の身の弱さを訴えることで、権力に対して引き下がろうとする。コロスもある意味ではフーコーが言うように真理としての知が神々の見掛けに対して越権行為にならないように気を遣うことで僭主の座にいる者に警告するが、テイレイシアスが持つ神々の知見に対して無知のポジションを守ろうとすることで劇全体の構造から身を引くようなやり取りに終始することになる。テイレイシアスはなぜ権力者に中傷するための金で雇われた工作員だと考えられるのか。それはテイレイシアスの見掛けが神々にへつらって権力者を嫉妬から告訴しているという司法の手続きと全く同じであるからである。ではテイレイシアスと工作員の明らかな違いとは何なのか。結果的に託宣が当たっているかどうかは問題にならない___それは神々に遣わされた預言者が正しいことを発言するというコロスの無知と同じである。そうではなくて、テイレイシアスが権力者を激怒させるようなやり方をコロスが困惑してしまうような真実としてぶちまけて、その真実がいかなる役にも立たないことを示そうとする挑発の対称性にある。もし工作員が権力者に対して発言するとしたらどのようにするのか。それを示しているのはイオカステとコロスの長の僭主(オイディプス・クレオン)とのやり取りである。自らの力や技術で神々の眼を逃れるための方法を模索するという振る舞いを権力の眼である神々の名で執り行おうとすることが工作という統治の知の本質だからだ。テイレイシアスは逆に神々は権力者であるあなたがたの振る舞いに何も関知しないから、復讐という名目が神々の名であなたがたの無知に対して与えられると言っている。このことをテイレイシアスは盲目の足取りという自らの知で辿り着いたのではないという子供の支えで表現する。クレオンもオイディプスもそれぞれ自分の息子や娘たちを利用して、そのことを表現しようとするがコロスの合唱隊としての性格が邪魔をする。それは神々を詩的な声として代表象する政治の部分性を高貴な生まれとして持ってしまうという演劇の舞台の牢獄である。なぜならどの劇の終わりでも暗闇の運命に対する視覚的な移ろいに従わないことがコロスに称賛されているが、心変わりの嘆きを行為の罪に結びつけることは神々の舞台装置からは現出しないからであり、それを原則の説明にするためには人間的な仮象を死骸の神々の衣装として剥ぎ取らなければならないことになるからである。



 『コロノスのオイディプス』でオイディプスはポリュケイネスの声を父親にとってこの上なく忌まわしく響くと王子に訴えている。ここで王子とアンティゴネーが二人で説得してオイディプスに兄の言い分を聞くように促すのだが、『アンティゴネー』ではクレオンは番卒の声に忌まわしい響きを聞き、そして最も年下の息子の忠告を聞き入れない父親として男に固執することをコロスの長になだめられる。この後に出てくる声はそれぞれの作品で異なる。『コロノスのオイディプス』では雷鳴がゼウスの前触れとしてコロスを怖じげつかせ、その後にアンティゴネーの嘆きが神々の静寂の声と区別される形で伝令の知らせを受け取る。『アンティゴネー』ではクレオンがゼウスやオリュンポスの神々の名を雷鳴のように権力の法として施行することで、親鳥やひな鳥が嘆くような愁嘆の場を打ち消し、その結果として澄み渡った声のくぐもった穢れが家族の死体の山々として従者の報告にことになる。問題はこの声がコロスに明確に対立するものとして考えられているということにある。確かにコロスは表向き、これらの凶兆の印に平伏して敬い、崇め奉っているように見える。しかし彼らがしていることの本質は自分たちに神々の罰や呪いが振りかからないように賢明な処世術で対処しなければならならず、それは気づくのが早ければ早いほどよく、それでも神々の生まれでない人間の一生は無常なのだ、という教訓に引き込もることにすぎない。これらのことは劇の中心的な主題を生活の日常性で打ち消すことを示しており、だから羊飼いや従者などの相対的に身分の低い者たちが恐ろしい話題を持ち出してきたときに、それを権力者の罪として暴き出すという身振りを模倣するということになる。コロスはテイレイシアスやクレオンの息子のハイモンのような水準では決してというのは本質的である。彼らは激情や性愛の虜になっているとコロスは宣言する。はっきり言うと権力者が自らの罪を認めることを状況の遅さとして教訓化するのは防衛の一種なのではないかという疑念を、高貴な人たちは自殺という形で、従者たちは命令されたことを果たすだけというそれぞれの仕方で順応するのではないか、ということである。というのも番卒という生まれついてのおしゃべりが語ること___状況の解決は運次第で、自らの命が助かるのは権力者の機嫌次第で、そして預言の夢に祈るのは神々の運命の出方次第だ___という態度はかなり真理に近いからである。しかし番卒はまったくの偶然に抜け目なく掟で禁じられた兄の埋葬をしているアンティゴネーを発見して権力者であるクレオンから無罪放免されるのだから番卒の態度の変転は全く彼の才知に依拠している。ただ身分が低いのでそれをへりくだりの作法にしようと思っているだけなのである。そしてクレオンとコロスの長も神々や玉座に対してこれと全く同じ態度でいることが貨幣や叡智の欠如に責任を移し替える根拠になっているのだ。



 もしヘラクレイトスの言う通り、ディオニュソスとハデスが同じもののあらばバッコスが飲み騒ぎ、踊り浮かれるという性格はどのように現れるのか。神々の狂気の凶暴さの仮面としてなのか。しかしそれは神域を犯した浄化の儀式の疫病的な逸脱として存在するのだから、ディオニュソスがバッコスとして歌われるのは数多ある名の一つとしてそれが月の女神の祭礼の賜物=男根になっているということである。しかしソフォクレスがコロスにディオニュソスのことを歌わせているのはそれとは別の動機であるように思える。つまり支配する男である人間が子供の種子を母親に委ねるという性的な情欲の火を、父殺しで母子相姦の英雄であるオイディプスに雷撃の知恵として宿らせることで、真理の片輪、半言を、欲望の馬の市場であるコロスの無知に担わせる反照規定という作法をその時代ではありなかった海の交流のやり方で持ち込んでいる、ということではないか。ただしそれはソクラテスや近代の人間が感じる皮肉とは違う。また顕教と密教という多重化でもない。コロスの長が叡智を称えるやり方がオイディプスのように片輪でしかないことが観客にアンティゴネーの姿をありありと美しく思い描かせることになっているのだが、それがペルセフォネーの領域で語られる限りではデーメーテールの豊穣の掟と神秘的な出来事との区別ができないのだ。だから忘我の飲料を冷徹に拒否する合理的なクレオンの取り持ち役という役割をコロスの長に任せ、アンティゴネーの姿を美しい神々だ、とコロスの一人に審美的に言わせることで、それがどうしようもない侮辱であり、運命の悲劇性が持つ意味を取り違えている、ということを観客に対して開かせようとするのである。これを日本の神話のように死者はその穢れで腐敗しているから視覚的に醜いという即物的な美的イメージの植物性の季節の盛衰の観照と取り違えないようにしよう。ギリシア的な意味では死者はその穢れで容貌が醜くなるのではなく、生者の持つ特有のを死者が悪性の腐敗として持ち込むからその内面が醜く思い描かれるということだからだ。


 

 『アンティゴネー』の劇でもアンティゴネーが美しいと呼ばれるのは、彼女が石の墓の中で兄の亡骸を守ろうとしている姿が神々のように気高く映るから美しいと呼ばれているのであって、アンティゴネーの死んでいる姿が神々のように描写されるということではない。ただしアンティゴネーが守ろとしているのはそのような美質でも美的な芸術性でもないのである。彼女が守ろうとしているのは同じ親の名に属する兄弟姉妹の出生に関する一意性の繋がりであり、家族の生まれの身分の名目的な利害関係ではないのだ。彼女がニオベーの運命にならって都市の聖域の身体として死者の棺に閉じ込められると近親相姦という一族の呪われた特性を感情的に強調するのはそのためだ。だからアイスキュロスと違ってソフォクレスは死んだ父に対するエレクトラとオレステースの復讐に対してエリュニスの弁明をアテナにさせる必要を感じないのである。攻撃されているのは家父長的な家名の継承的特権で親の名を穢すコロスの神々の礼拝を利用した観客への道徳的追従にあるからである。これはコロスがダナエーと黄金の雨という比喩をもって歌っていることである。コロスはアンティゴネーを俗にいう悲劇のヒロインに仕立て上げるのだ。だからディオニュソスの真理の半言である預言の盲目の狂気がヘカテーの従者である破壊の神々として襲い掛かってくるのを疫病の叡智として癒そうとでっちあげる合唱で返答する羽目に陥るのである。アンティゴネーが結婚できない理由を単に子供を犠牲にした兄弟姉妹の近親相姦を求めているからということでは、母を太陽の瞳の焼き尽くされた半言として別の父を夫として兄弟でない子供を身籠るというディオニュソス祭祀の仮面に神話の系譜の忘却として流されてしまう。だからアンティゴネーの神々への畏敬の念は、祖母と姉君の位置が養父と兄貴の死線として義妹と従弟の無知を真理の合唱の引き際にずらしてしまうような近親相姦の系譜の反照規定において、実際の兄弟姉妹の情欲を排除する冥府の結婚として量子的にその罪の愛を存続させ続ける応報の因果を自然の黄金の夜に捧げられる夢から館の迎賓の重鎮が愛の重さの始原に情欲の眠りを与えるまで神々の正義の施行を追放する。

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