6話 真魂回録
①
──ここ、何処……?
正太郎の意識は、混濁した赤と黒の中へと沈んでいく。
自由など利かない。灯りもない。泥で出来た濁流に、ひたすら流されていく。
べとつき、全身にまとわりついて、洗濯機がぐるぐる回転する中をもみくちゃにされる。自分の外殻となる体の輪郭など消えて、意識だけがどうにか形を保っている。
前後左右も、上下も、時間の感覚すらも、血の泥に掻き混ぜられ溶けていく。
激流は嵐の如く、様々な人の怨嗟の声が渦巻き、全身を貫く。
抗う事は出来ない。耳を塞ぐことは出来ない。息を止めることも出来ない。
──うるさい!ここは、うるさすぎる!誰もいないの?
シンは?皆どこに行ったの?僕はどこに行くの?
この煩い渦潮の中に消えるしかないの──!?
恐怖の錯覚を覚えかけた頃、誰かが正太郎の手を取った。
途端、忘れかけていた体の形を思い出して、正太郎は自分の小さな手を視認する。
大きな傷だらけの手が、乱暴にぐいっと正太郎を釣り上げた。
縦一本線の傷が刻まれた、空洞に琥珀色の炎を宿した左目が、挑発的に笑う。
「よお正太郎。この世の終わりみたいなツラしやがって、辛気臭いぜ」
「天道!……あれ、シンは?」
「いるだろ、そこに」
「え……うわっ!?ち、小さいッ!?」
きょろりと見回せど、シンの姿はない。
否、いた。乳児ほどの大きさにまで縮んでしまった幼いシンが、正太郎の右腕の中で大人しく抱かれている。
こんな小さなものをずっと抱き込んでいたなんて、何故たった今まで気づかなかったのだろう。
轟々と渦巻く赤と黒の渦潮の中、天道はすました顔で正太郎を片腕に抱く。
「大方、お前の魂を守るために力を殆ど使い切っちまったんだろ。
しっかり掴んでおけよ、まさに風前の灯火だぜ」
「う、うん。っていうか、ここ何処?」
「なんだ、
「何のモグリだよ!」
正太郎は天道の腕にしがみつきながら、改めて周囲を観察する。
一見して無秩序にも見える空間だが、よくよく目を凝らせば、景色の全容を朧気ながらに視認することが出来た。
無数の赤黒いタールめいた濁流が、螺旋状に渦を巻き、ひたすら回転している。滴る血は二人の眼下へと落ちていったり、逆に遡上して血の渦に合流したりと目まぐるしい。
肉の腐ったような臭いや血や、土や苦味にも似た、様々な悪臭がそこかしこに広がり、鼻がもげてしまいそうだ。
「走馬灯って知ってるか」
「ひ、人が死ぬ直前に、過去を見るっていうアレでしょ」
正太郎は胸のむかつきを自制しながら返す。
知っているも何も、真矢との戦いの時に、身を以て体験した現象だ。
「なんだ、只の無知って訳でもなさそうだ」と憎まれ口を一つ叩き、天道は続ける。
「走馬灯は人間が死ぬ直前、自分の記憶の全てを再生して、己が生存するための手段を脳が模索するからだ、とか何とかって話があるらしいけどよ。
実際の所、記憶というものは脳が保管庫、魂が鍵と再生機器としての役割を果たしてんだ。
人は記憶を再生する時、自分でも知らずに魂という鍵を起動して、記憶を回想する。
死ぬ直前ってのは、最も魂っていう内臓器官が刺激されて、体外に出そうになる瞬間でもある。だから走馬灯を見るのさ」
「それとその、スピなんたらってのが、何の関係があるのさ」
「
そもそも、魂ってのは肉体の中にありながら、どこにも存在しない内臓だ。
お前にも分かりやすく言えば、シャボン玉の宇宙みたいなもんだ」
「シャボン玉の宇宙?」
「そうさ。普段はシャボンの液体みたく体に紛れ込んでいるが、息をふきかけてやればぷくーっと膨らんで、どんどん大きくなる。
この息ってのが、他の魂や記憶、感情、自我だ。
記憶や感情が豊かであるほど、自我が強ければ強いほど、そして他の魂を取り込むほど、このシャボン玉の宇宙はでかくなって、エネルギーを半永久的に生み出す一つの異世界となる。
これが
魂や肉体を持たない連中が生きた人間なんかを狙うのも、魂、ひいては
「く、詳しいんだね」
「この道の専門家だからな、俺様は」
ふふん、と天道は得意げに鼻を鳴らす。
「吸血鬼は特に、人間の魂を取り込んで自分の魂を拡張……ま、要は強化させる能力に長けている。
だがな、連中はそもそも魂を取り込む力ががあるだけに、こうやって他人を魂の中に招きやすい。
その習性を利用して、俺たちは吉備津山ムツの
「でも、そんなことして何するの?」
「吸血鬼は制約が多ければ多いほど、強い力を発揮したり、特殊能力を得るんだ。
一番でかい制約、縛りは真名──「生前の本当の名前」だ。
名前がないヤツは、最初に自分に付けた名前を真名にする。吸血鬼達は脆い魂を守るために、弱点である真名は絶対隠す。
それを暴かれると、連中は驚く程従順になるんだ。首輪をつけられた犬みてぇにな」
「じゃあ、その真名を探すために……」
「この記憶の渦に突っ込んで、ヤツの正体を暴く!ちょいと乱暴だがな」
ごくり、と正太郎は生唾を飲み、遙か眼下に広がる暗闇を見つめた。
天道の話を信じるなら、途方もなく果てのない奈落の底に落っこちながら、真名とやらを探さなければいけないらしい。
轟く怨嗟の声は、それだけ吉備津山ムツが喰らってきた魂たちの、溶けかけた声なのだろう。
ここは吉備津山ムツの、飽くなき貪食を体現した胃袋でもあるのだ。
「僕ら、現実に帰ってこれる?」
「保証はねえ。こうしている間にも、俺たちの魂だって取り込まれ始めてる。
時間との勝負だぜ。しくじったら仲良くこいつの胃袋の中だ」
「後から言う、それ!?僕ら下手したら溶かさて死んじゃうんだよ!」
「あの場でゆっくり手足もぎとられて、むしゃむしゃ食われる人生を送るのとどっちがマシだ?ぐだぐだ言ってねえで、刀握った時点で死ぬ覚悟も決めやがれ!」
「ぐうう……もう、こうなったらやってやる!
その代わり!あの約束、忘れないでよね!」
「あん?」
「僕が吉備津山ムツに勝ったら、色々教えるって話!」
「はん。記憶力は良い方みたいだな。
いいぜ、男の約束に二言はねえ!」
に、っと天道は相変わらず不敵に笑い、「そんじゃあ征くぜ!」と宙を蹴る。
再び浮遊感が二人を襲い、正太郎は必死に天道の腕にしがみつきながら、腕の中のシンを力強く抱いた。
無数の血は、垂直に落下し続ける滝の流れにも似ていた。
今度は只流されるのではなく、螺旋状に渦巻く血の上に乗り、飲み込まれぬよう踏ん張る。
「目を使え!俺たちの目は
だがその性質を利用すれば、俺たちの目の力で「門」を創り出すことだって出来る!
吉備津山ムツの魂、その根幹に繋がる門を創るんだ!」
「ど、どうやって!」
「意識を集中させろ、周りの雑音に耳を貸すな!
魂の世界の入り口になりうる亀裂があるはずだ、そこを探せ!
その亀裂を起点にして、正面突破する!」
「っ、分かった!」
恐怖を押し殺し、青く燃える目で、正太郎は遙か下に広がる暗闇を睨んだ。
右目に意識を集中させ、亀裂を探す。
直後、闇しかなかった空間に、うっすらと放射状の光の筋が見えた。
直感的に正太郎は「あれだ」という確信を得て、光の筋へと指さす。
「天道、あそこだ!」
「っし、良くやった!掴まれ、突っ切るぞ!」
天道は両足の力を込め、力の限り亀裂へと突貫する。
右手が胸元のネックレスを掴むと、飾りの宝石が黄金色に輝く槍へと変じる。
一瞬で狙いを見定め、天道は咆哮を上げ、槍を投擲。
すると槍の先端が光の筋へと吸い込まれたかと思えば、亀裂を砕き、巨大な穴となる。
どうどうと、穴の方へ血の濁流が吸い込まれていく。
流れに乗って、二人は吉備津山ムツの魂の世界へと誘われていった──
◆
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