②
ユビキタス二階、正太郎の寝室にて。
「おはようございます、正太郎さん」
「んむ……飛鳥さ、うわああああああっ!?」
耳元で聞こえる声に、正太郎の意識が引っ張られる。
重たい瞼をこじ開けた途端、眼前いっぱいに飛鳥の顔があった。
跳ね起きようとする小さい体を、飛鳥の白い手がむんずと押さえつける。
首だけ辛うじて動かすと、ベッド脇にあるサイドテーブルには、湯気を立たせた桶とタオル。
その隣にはコップと歯ブラシセット。
「あの、飛鳥さん。これは一体」
「朝起きたらまず、お顔を洗わなくては。
拭いて差し上げますので、顔をこちらにどうぞ。その後は歯を磨きますね」
「ちょちょちょ、ちょっと待って!僕、一人でも顔洗えるし、歯磨きだって出来るってば!」
正太郎は慌ててぐい!と飛鳥を押しのけた。
しかし飛鳥の両手はしっかりと、正太郎の腕を掴んだままだ。
首を傾げる、能面のような飛鳥の表情からは、考えを読み取る事などできない。
「ですが今は非常時です。あのような不審者が家に侵入してきたというのに、目を離してなどいられません」
「だからってそこまでしなくていいよ!お風呂場はすぐ真下じゃないか!」
「ですが数秒目を離しただけで、幼稚園児は10メートル先の道路で車に轢かれる事例も……」
「僕は!もう!小学校5年生になるんですッ!普通に恥ずかしいってば!」
顔を真っ赤にして、正太郎はこんこんと反論し続けた。
結局、「歯磨きは自分でする」という話し合いに落ち着き(「私の歯磨きはベテランの歯科衛生士にも負けませんのに……」と飛鳥は大変不満そうだった)、朝食を摂る。
──僕ってもしかして、飛鳥さんからしたら幼稚園児並みに危なっかしいのか?
不安になるのは致し方ない。現に昨日、襲撃があったばかりだ。
だが飛鳥は過保護すぎだ。
正太郎にも、自尊心というものがある。
『いやあ、中々に苛烈な女だ。
昨日も夜半じゅう、ずっと寝ているお前を監視していたぞ。寝ずの番でな』
「え、ええっ!?なんで教えてくれなかったの!」
『寝かしつけようとしたんだがな、聞く耳持たずだった。
おぬしを起こそうとすると、殊更怒るし……』
「……シンも飛鳥おばさんは怖いんだね」
『怖いのではない、あのような気の強い女の扱い方が分からんだけだ』
シンはぶすくれながら反論した。
吸血鬼を相手に大立ち回り出来るような巨躯の幽霊が、まだ年若い少女相手に狼狽える様は、どこか不思議で滑稽でもある。
不意に、先日戦った吸血鬼……吉備津山ムツのことを思い出す。
──手前の臭いは覚えてるんだからなアックソがァアア!
──八つ裂きにしてやるって決めてんだよォオ!
公太郎達は、ムツを知っている筈だ。
単に狙われているのか、恨みを買ったのか。
あの尋常じゃない声色や襲い方から察するに、後者だろうか。
浅はからぬ因縁がある、それは確かだ。
一向に戻ってこない公太郎の身が心配だった。飛鳥も口にこそしないが、自宅に帰らない公太郎のことを、正太郎以上に案じているはずだ。
「(天道って奴にぼこぼこにされたから、当分は表に出て来なさそうな気もするけど……おじさんだってきっと、弱いわけじゃないし……)」
それでも不安だ。
射羽に教わった、魔術師の話がちらつく。
彼らは魔術を用いて、怪奇現象や怪物と対決する。
もしも公太郎が、同じように、ムツを退治することが目的で対峙しているのだとしたら……。
今こうしている間にも、ひどい目に遭わされていたらどうしよう。
抵抗出来ないように斬りつけられ、痛めつけられて、虫を全身に這わされたりして、首から血を啜られて……などと、怖い想像が嫌でも浮かんでしまう。
うんうん唸っていると、シンが顰め面で正太郎の顔を覗き込んでいた。
『おぬし、顔に似合わずえげつない妄想をするんじゃのう……』
「えっ、な、何の話?」
『言いにくいんじゃがの、おぬしが考えている事は時折、己の中にも同じ想像が流れてくるんじゃ』
それを聞いた刹那、正太郎の思考がフリーズする。
なら、シンが現れるようになってから今日まで、色々頭で考えていたことは、シンに筒抜けだったというわけで。
一気に、全身の血が顔に集まっていく感覚が襲う。
林檎のように真っ赤になりながら、正太郎はソファのクッションを投げつけた。
「そっ……それ、早く言ってよ!シンのエッチ!」
『うわっ!癇癪でものを投げるな!』
「ごめん!でも人の心勝手に覗かないでッ!」
『そっちが勝手に見せおるんじゃわいっ。人を破廉恥扱いするな!』
きゃんきゃん口喧嘩する二人をよそに、インターホンが鳴り響く。
反射的に身構え、出入り口を見やる。
だが彼らの不安をよそに、扉が開き、にこやかな双子達が飛び込んできた。
その背後には、巨躯の男がいる。
くしゃくしゃの黒く白髪交じりの髪に、痩せこけた頬。
落ち窪んだ三白眼に、スーツ姿。その背丈は、2mもありそうだ。
年は四十路ほどだろうか。双子と手を繋ぎ、狭苦しそうに部屋に入ってくる。
「おはよう、しょうちゃん!」
「おはよう、しょうちゃん!」
「おはよう。えっと」
正太郎は男を見上げる。父親だろうか。それにしては、まるで双子に似ていない。
男は正太郎と視線が合うように屈むと、ぺこりと礼儀正しく頭を下げた。
「どうも、正太郎くん。
射羽から事情は聞いています」
「あ、どうも」
「近頃、不審者だの人が死ぬ事件だのと、物騒ですからね。
二人が正太郎くんと遊びたい、というので、お迎えにあがりました」
「今日はねー、おとしゃん、休みなんらって!
「お弁当も作ってきたんだよーっ!」
「うん、行……きた、いところ、だけど……」
そろ、っと伺うように、飛鳥の顔を伺う。
あれだけ過保護な飛鳥が外出を許してくれるだろうか。
案の定、外に出ると聞いた途端、能面だった表情に不安と若干の怒りが滲む。
「昨日の騒ぎのこと、もうお忘れですか。
大人が一緒だからって、外に出るのは感心しません」
「……だ、だよね……」
「遊ぶなら、うちの中か、せめて庭までにしなさい。いいですね」
「あ……わ、分かり、ました。ありがとうございます」
「いえ。目の届くところで遊んでくださいね」
飛鳥はぷい、っと視線をそらすと、黙々と掃除を始める。
双子たちは目を合わせると、その意図を汲んだ。
にこっと笑って「おじゃましまーす!」と意気揚々と正太郎を連れ、中庭に飛び出していく。
きゃあきゃあ騒ぐ三人を眺めながら、幹人は手に持ったバスケットを近くのテーブルに置いた。
そうして「父さんも混ぜてください」と気持ち、明るめの声をあげながら、子供らの輪にまざっていくのであった。
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