5話 ユビキタスにて
①
梟も鳴かぬような、真っ暗な夜。
三注連町の河川敷を、足をひきずりながら歩く男が一人。
吉備津山ムツである。
「血、血だ……血を喰わねえと……」
ぜいぜいと荒い息を漏らし、されど足音の一切はなく、氷の上を歩くかのような足取り。
不気味なほどに静まり返り、木々も息を止めぴくりとも梢を鳴らさない。
街灯はチカ、チカと覚束なく辺りを照らす。
だが、ムツを照らせども、影が落ちることはない。
此岸に身を置き損ねた魔性は──吸血鬼擬きであれば尚更──、知覚されない限り実体化のかなわない存在である。
影がないことは、生前の自身の在り様を置き去りにした、朧げな生物であることの証左。
ムツの荒い息を聞く者もいない。ボロ雑巾のような姿を目にする者もいない。
「クソがよぉ~ッ……あのクソガキ、オレ様を散々嬲ってくれやがってッ……!
今に見てろ、あの
怨嗟を漏らしつつ、吉備津山ムツの足は住宅街へと向かっていく。
昼間の戦いで、ムツの体はかなり消耗しきっていた。
飢餓感に苛まれ、血に飢えていた。
胃の辺りがぎゅうぎゅうと凄まじい音を鳴らし、裂けた口からは涎がとめどなく溢れ出る。
腹が減る、それだけで気が狂いそうになる程の焦燥と苦痛に支配される。
自我を保つだけで精一杯で、今すぐにでも誰かの首に齧りつき、皮だけになるまで吸い尽くしたい。
吸血衝動は、通常の空腹の二十倍以上の渇望と苦痛をもたらし、暴力性を加速させる。
「誰でもいい……血、血を……まずは回復せんと。
それからあのガキ共を探し出して、手足をちょこっとずつ千切って食い散らかしてやる。フヒッ、イヒヒ、ヒヒヒヒッ……ギッ!?」
ムツの足が、ある道路へと差し掛かった瞬間、彼は前のめりに倒れこんだ。
右足に燃えるような激痛が走り、咄嗟に足元を見やる。
……鎖だ。銀の鎖が蛇の如く、脚部に纏わりつき、白煙を上げて皮膚を焼いている。
鎖の先に続く暗がりから、足音。夜を伴い、何者かが津山へと近づく。
暗闇を凝視し、津山の瞳に憎悪の炎が燃え上がる。
「やあ、随分探したよ。かくれんぼが上手なようだね。
尤も、僕の匂いを尾けて店に来たのが間違いだったな。
さんざ証拠を残してくれたおかげで、君の位置を特定できたよ」
影そのものが人の形を形成し、それはやがて大山公太郎の姿となる。
その肌は爬虫類を思わせる鱗で覆われ、鋭利な棘が背筋や腕、胸部や脚部に至るまでびっしりと生えていた。
自身の頭身ほどもある杖を持ち、眼鏡の奥から津山を見据えている。
その背後には女──今鵺射羽を伴い、対峙する。
「テメエッ!こないだのクソ魔術師ッ!」
「犯人は現場に戻る、ってね。随分と君は三注連の地に縁が深いようだ。ここの生まれかい」
「だから何やねん、ウダウダ喋るだけなら、その頭ァフッ飛ばすぞ……!」
「やれるものならやってみるといい。君にそれだけの力が残っていれば話は別だが」
公太郎は涼やかな顔で告げた。
刹那、ムツの姿が異形に変じる。
皮膚が膨張し、蜘蛛を彷彿とさせる、びっしりと剛毛の生えた鋭利な異形の腕が生えた。
変異したムツを見て、射羽は顔を顰め「牛鬼か。変異が早いな」と呟く。
その六つの手に刃を握るや、風を切って肉薄し跳躍。
振り上げた黒い刃が公太郎の首を薙ぎ払──うことはなく、巨大な杖が槍へと変じ、難なく受け止める。
「でえっ!?」
「随分単調な動きだ。誰ぞに嬲られたかい」
赤と藍色の火花が激しく散る。
すかさずもう一刀振り下ろされる。これも杖で受けきる。
一度払われ、三振目。やはり杖で弾かれる。五、六、と鍔迫り合いが続く。
脂汗が浮かぶムツに対し、公太郎の顔色は変わらず。
何度も打ちつけられる斬撃をものともせず、槍杖を持つ公太郎の膂力が、ムツを易々と払いのける。
「ギャアッ!?」
「やんちゃが過ぎたね、吸血鬼。生憎、遊びに付き合っている暇はないんだ」
ムツは投げ出され、地面に叩きつけられた。
公太郎の眼鏡が街灯に照らされ、白く反射する。
ガラスレンズ越しの視線は、絶対零度もかくやの冷たさを放ち、ムツを貫く。
脊髄に走るような殺気に気圧され、無意識のうちに津山の足が半歩、後退していた。
「僕の逆鱗に触れたね。"あの子"に手を出したことが間違いだった。
潔く僕だけを標的にすればよかったものを、家まで襲撃して、あの子を怖がらせて。
分かってる?僕はね、怒ってるんだよ。吸血鬼」
「(──やっべ、これ
傲慢なムツとて、改めて認識する。
最初に戦った時とはわけが違う。相手の格が違いすぎる。自分では──勝てない。
とあらば、ムツはプライドをかなぐり捨て、すぐさま生存の手段を行使する。
刀は血と化して溶け落ち、ムツの体がバラッと黒い霧となり散る。
「うわっ!?」
「勝負はお預けや、クソ魔術師!全快したらたっぷり親子共々嬲ったるわ!」
霧から生ずるは大量の虫、虫、虫。
津山を構築していた虫の大群が一斉に押し寄せ、公太郎たちに襲いかかる。
顔といわず腕といわずへばりつき、噛みつき、毒針を穿つ。
「くそっ、忌々しい……!」
「射羽、僕の後ろへッ!
杖を振るうや、先端にはめ込まれた宝石が藍色に輝く。
途端に杖の先から氷の礫が射出され、次々虫たちを撃ち落とし、肌に纏わりつく虫たちに雹が直撃すると、シャーベットよろしく凍りつき、次々と落下する。
体じゅうにまとわりついた虫達を全て払い落とす頃には、ムツの気配は消えていた。
不気味な静けさが支配するなか、まるで呼吸を取り戻すかのように、木々が風にあおられた。
「……自分を構成する半分を虫に変換して、核だけ逃がしたか。
すばしこい上に生き汚いな」
「追うか?そう遠くへは逃げていないはず」
「いや、ここは退こう。彼岸側に逃げられては、僕らも迂闊に手が出せない」
それに、と公太郎は足元の凍りついた虫を踏み潰し、嘆息一つ。
周囲は大量の虫の死骸が転がり、道路は無惨な有様。
杖ひとつ振るうと、凍りついた虫達は一瞬にして炎で燃やされ、消失する。
射羽が己に視線を向ければ、双方ともに、虫に服の大部分を食いちぎられていた。
「まず、君の手当が先決。吸血鬼の虫から受ける毒は侮れない。
後、そんなセクシーな恰好でうろつかせたら、君の旦那さんに怒られるからね」
〇
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