②
午前三時過ぎ、新みらいヶ丘市
──人間が風船になって死んでいる。
通報者は町内に住む壮年の男性であった。
酔っぱらっているのか錯乱しているのか分からず、ひとまず通報を受けて様子を見に来た警官は、見せられた死体を前に嘔吐したまま気絶したという。
「なんだこれ。そもそも人間なのか?」
凄惨な光景を目の前にして、丁字路のミラーに映る複数の警察官は、ただ絶句するしかなかった。
道路には、しわくちゃに潰れた、人間大のバルーンのなれの果て、と表現するに相応しい物体が転がっている。
否、これは人間だったものだ。収縮しきった筋肉と骨が、辛うじて人間の形を形成し、ぺらぺらの皮膚がそれらを覆っているに過ぎない。
しかし、数滴ほど地面に残された黒い斑点を除けば、血は殆ど残されていなかった。集った刑事や鑑識達は、点滅する灯りの下で、一様に真っ青な顔を晒す。
誰もがこの空間に、筆舌に尽くしがたい異常を感じていた。
「神楽刑事。こんなこと聞くのも野暮かもしれないンすけど……
これは殺人ですか?もしそうだとして、果たして……人間が成せる業なんでしょうか?」
芝生頭をがりがり掻いて、巨漢の若い刑事――
彼は捜査一課に配属されて、まだ日が浅い青年であった。
三好自身、死体を見たことが初めてではない。写真でも実物でも、死体そのものには慣れている。
だが、目の前の変死体には、さしもの図太さが評判の彼ですら、動揺を隠しきれなかった。
「さあな、俺もこんなコロシは見たことがない。ガイシャの直接の死因は首を骨折して即死だそうだが……」
「首へし折ったあとに、こんな姿にされたってことですか。あまりにも
動揺を漏らす鑑識課や刑事たちの中で、
ワックスが取れかけた前髪を乱暴にぐい、と掻き上げて整える。ここのところ、多忙を極めて散髪をさぼりがちだった。が、当分は美容院に行けそうにないだろう。
――目の前の事件は、とびきり難解な匂いを漂わせているのだから。
「ガイシャの身元が分かるものは?」
「財布や連絡用端末の類はなし。あとは鍵、おはじきの入った靴下、マイナスドライバー、バーナー、等の類でした。これって……」
「典型的な空き巣泥棒の必需品じゃないか。でも戦利品がないってところを見るに、犯行の前か、あるいは戦果ゼロってところか」
「確かこの死体発見の二時間前に、空き巣の通報がありました。その犯人かもしれませんね」
「やれやれ、捕まってりゃあゴム人間なんて末路にならずに済んだろうに……」
出来るだけ死体の位置をずらしたくはない。
ゆっくりと風で煽らないよう近づき、遺体に指先を当てる。
首の骨折にしたって、並の腕力で出来る芸当ではない。
何かしらの凶器が使われた形跡もなく、強いて挙げるとするならば、針で刺したような小さい穴が二つ、隣並んで空いているのみ。
その、直径わずか一ミリ程度の小さな空洞であるにも関わらず、ぽっかりと口を開けた深淵が、内側から被害者の血という血を奪っていったのではないか、と思わせた。
周囲では鑑識課が慌ただしく、現場の保存につとめている。
「ああっちょっと、何やってるんですかお兄さん!
というかどうしたんですか、お兄さん!その格好はまずいですよお兄さん!」
若い婦警の慌ただしい声を耳にして、一同は振り返る。
三好もまた、野次馬かと振り返り、ぎょっとした。
野次馬の間を、そして黄色のバリケードテープを超えて、一人の男が現場へと近づいてくる。
若い男だ。付け足すなら、不審者であった。
黒ぶちの眼鏡をかけ、胸部や腹を多分に露出したコスプレ紛いの奇妙な出で立ち。おまけに全身の至る所が血にまみれ、夜中に出くわしたら悲鳴を上げること請け合いだ。
手には巨大な杖をもち、神妙な面持ちで歩み寄る。少し後ろに、白衣を着た黒髪の女を一人伴っていた。
「しくじった。僕の責任だ」
開口一番、男はそう言った。
不気味なものを見る目を向ける三好に、神楽は「俺の知り合いだ」と一言告げて、現場に通す。
何者なのだろう、と好奇の目が、珍妙な二人組の肌を刺す。
誰かタオルを、と神楽が声をかけ、鑑識が差し出したタオルを青年に渡した。
「酷い格好だなアブラハムさん、それに臭うぜ」
「すまないね、奇襲を受けてこの様さ。すぐに逃げられたもんだから、このまま追いかけてきたんだ」
三好は、アブラハムと唇だけを動かし、神楽へ説明を求める視線をぶつける。
男は口から溢れる血を腕で拭った。顔色が悪い。奇襲を受けたという物言いと何か関係はあるのだろうか。
頭からバケツいっぱいの血を浴びせられたような様相に、その場にいた二、三人の警官は、三好と同じく、あからさまに疑わしいこの男達に疑惑の視線を向けていた。
しかし二人組は意に介さず、輪に混じり、妙齢の女は慣れた所作で死体の検分を始める。
「それで、犯人の目星はついているんですか」
「この町から出ていないことは確かだ。たとえ何者であろうと、この町から出ることはかなわない」
女は持っていた鞄から、検査用紙だの小型の機械類を幾つも出し、死体の肌にパットのような物を押し当て、検死や記録を行い始める。
鑑識の一人が「あの、現場を荒らさないでください」とやんわり告げると、女は「これでも検死官の資格はある」とつっぱねる。
そうじゃない、と鑑識は返すものの、女は無視した。
ふいに、三好は身を震わせる。やけに今宵の町は、静かすぎる気がする。
口をきくものも言葉を持たぬ者も、皆が息をひそめ、口裏を合わせたように黙り込んで、目に見えざる者の横暴を許すかのような、そんな静けさだ。
検死を終えた女が、立ち上がる。
「洋ドラマ風に言うなら、良い知らせと悪い知らせがある」
「どっちでもいいですよ
神楽が問う。今鵺と呼ばれた女は、目にかかった、切り揃えた前髪をはらう。
特徴的な二つのほくろが、右目の目尻に並んでいた。
「いい知らせ。犯人は私と彼が追っている輩で間違いない。
相手はアブラハムのせいで相当弱体化したから、この男を適当に襲ったんだろう。人間一人じゃ”足りない”から、まだかなり弱ったままのはず。
悪い知らせ。足りないとなると、また誰か新たな犠牲者が出るかもしれないね」
「それがいい知らせと、悪い知らせですか」
「ええと、今鵺さん、この男はどうやって殺されたんですか」
じれったいな、と三好は今鵺を睨む。
すると、その尖った視線を察してか否か、今鵺はゴムめいた皮膚の一部を遠慮なくひっぱった。
「性急だね、君は。ひとつずつ説明してあげるよ。首をごらん」
今鵺が被害者の骨折した首を持ち上げ、首の皮をびろんと広げる。
すると、たるんで隠れていた部分が露出し、濃い青に変色した、歯型のようなものが浮かんでいる。
「歯型だ」
「後ろから噛みついた痕さ。つまりガブリとね、こんな風にかぶりついて……」
「わッ……」
今鵺は傍にいた警官の一人をひっつかみ、引き倒すや、歯型と同じ個所を狙って噛みつくふりを実演してみせる。
警官は小さな体を完全に委縮させ、今鵺のされるがままだ。
「この時、男は首を勢いよくへし折られて、骨折して即死。そのあと血を吸われたというわけさ」
「吸われた?」
「左様、下手人の目的は血を吸うことだからね。死にたての血が一等好きなのさ、彼等は」
周囲は怪訝そうに、吸血というワードに対して、冷ややかな脱力感を露わにする。
まず現実的に考えて、こんな小さな穴から、何リットルとある血液を全て短時間で飲み干すなんて土台無理な話である。
しかも血液は、人体の体重の約13分の1、つまり約8%程度とされている。今回の被害者の男性を60kgと想定しても、せいぜい血液の量は5ℓ程度だ。
体液をまとめて吸いあげたとしても約5分の3、60%。36ℓ程度。
つまり、犯人は少なく見積もっても40ℓ以上の水分を吸い上げたことになってしまう。
だがしかし、からからに干からびた死体が存在しているのも事実だ。
「この歯型と、別の穴から、唾液反応が検出された。二つ並んだ痕は、吸血の痕だよ。そいつが血を吸った犯人だ」
「そんなすぐに結果が出るものなんですか?唾液で犯人の特徴なんて」
「簡易的な検査だけどね、口をつけたと思われる部分に特殊な用紙を使って検査を行った。
人間にしろ動物にしろ、口の中はたえず菌がうようよいる状態だ。この用紙はね、齲蝕活動性試験――早い話が、虫歯になる菌がどれだけ存在しているか検査するキットを、少しばかり改造したものだ」
「虫歯菌と今回の事件に、どんな関係が?」
三好は挙手をし質問する。今鵺は「はい、そこの君、いい質問だ」と続ける。
「私達が追っている犯人はね、特殊な菌を口腔内に持っているんだ。
その菌に用紙が反応すると、ド派手な色が浮かぶのさ。その色を含む反応が出たということは、そこに口をつけた不埒者は、私達の探し人ってことになる」
「それが犯人だと?でも、その特殊な菌が口の中にいるなんて……何かの病気なんですか?」
「少し似ているけど、違う。彼等は吸血鬼さ」
”吸血鬼”。
当然のように非現実的な存在を、大真面目な顔で言い切るものだから、刑事たちは猶更リアクションに困っていた。
ツッコミを入れてもいいものか。「そんなものいるわけない」と一蹴すべきか。
けれども、異様な死体、異様な男女、異様な現場という環境の中で、「あるわけないだろう、映画の見過ぎだ」などと笑い飛ばせる者は、誰一人としていなかった。
神楽と三好は視線を合わせ、アブラハム青年と今鵺に向き直る。
「また近いうち、お会いするかと。これにて失礼」
アブラハム青年は顔を強張らせて神楽を諭すと、周りに頭を下げて、今鵺を連れて夜の闇に消える。
警官たちが怪訝な顔で神楽の顔を伺い見るが、当の神楽は黙り込んだまま。
ひとまず撤収だ、と別の刑事のひと声で、全員は現場を後にする。
三好は一度、公園を振り返り、神楽の後に続いてパトカーに乗り込んだ。
三月に差し掛かり、風もなく穏やかな夜半。その静穏に混じり、音のない不協和音が、耳に爪を立てていた。
結局あの二人が何者なのか。訳知り顔の神楽はその日、一言も口を開くことはなかった。
〇
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