③
○
音もなく、子供部屋のドアが開いた。
明かり一つない暗闇の中で、青い影がぬらりと、なめらかに床を滑るように動く。
異形の塊の頬に僅かな光が差す。
ほんのひとまたたきの間に、前髪の簾が揺れる様を、老いの皺が刻まれた男の感情を失った顔を、照らす。
暗がりの中、安らかな寝息が規則正しく、ベッドの中で繰り返される。
尖った爪が、傷つけることをおそれるように、枕に預けられた小さな頭をそっと、撫でる。
幾度となく、その肌を傷つけぬようにと、ぎこちなく触れていた手は、やがて名残惜しそうに離れ、巨体を屈めて、子供の耳元に唇を寄せる。
起きろ。太陽が近い。
○
はっ、と正太郎は布団から跳ね起きた。一瞬、朝か夜か分からずにいた。
電気は消えたままだ。家具の位置も、床に転がった玩具も、そのままだ。
雀の囀りが聞こえる。柔らかな曙光が、東の空から射し込んでくる。
『随分早いな、正太郎』
「え、あっ……おはよう、シン」
逆さになったシンが、寝惚け眼で頭を掻いている。相変わらず大層な寝相だ。
寝巻からいつものパーカーとズボンに着替え、銀色のライターを手にとった。
少し傷がついた小さな立方体を掌で弄び、転がす。
夢の中から意識だけが抜け出てきたように、まだ全身がふわふわとして落ち着かない。
「さっき父さんが、ここに来た」
『馬鹿な。お前の父親は追われているんだろう。
それにもし、ここに来ていたら、己が気づくはずだ』
正太郎はかぶりを振って、己の頭に手を添える。
まだぬくもりが残っているような気がして、その熱の名残を手でなぞった。
「ううん、確かにいた。僕の頭を撫でて……太陽が来るって教えてくれた」
ベッドに腰を下ろし、ぶらつく足に視線を落とす。琥珀色の瞳がとろんと揺らいで、まだ微睡んでいるようにも見える。
シンは宙で足を組み、フムと考え込んだ。
『正太郎よ、お前は力に目覚めて日も浅い。
もしかしたら、それは点火器に籠められた、サトルの念やもしれぬ』
「念?父さんの?」
左様、とシンは頷いた。彼が指をさっと振ると、ライターは宙に浮かび、ひとりでに炎を灯す。
まだ薄暗い部屋で、淡い青碧の輝きが無数に飛び散る。
『炎は型に囚われず、故に無限なり。
この火炎が燃やすは物だけに非ず……その点火器は元々、物質世界に限らず、怪異、神羅万象に通用する代物だ』
ここから、シンの長い説明が始まる。あまりに難しい言葉を多用した説明のため、正太郎は紙に逐一メモをしてまとめ、ひとつ単語が飛び出すごとに質問しなければならなかった。
そしてどうにか要約すると、こういうことである。
魂の証──この不思議な銀のライターは元々、正太郎の父親が若い頃に設計し、改良を重ねながら製造したものだ。
火は最も生命に類似した現象の一つだ。
生物は他の生物を捕食し糧として、余分なものは排出する。
火も同じく、物質を燃やすことで熱や光、化学物質などを生成し、燃焼する対象を変えながら存在し続け、残りは炭や燃えカスとなる。
加えて、火は対象を燃焼し、滅却することで「浄化」の作用が発生する。正太郎の父親は光と熱エネルギーがもたらす浄化作用に着目し、このライターを完成させた。
生命に最も近い火は、不定形であるが故に人間の脳と波長も合いやすく、その特性から生と死、つまり物質世界と精神世界……つまり正太郎の右目に映された怪異達……その両方に干渉しやすい。またイメージも無限だ。
「つまり、ライターの中の炎に、父さんの感情が移ったってことでいいんだよね?」
『察しが良いな、正太郎。炎は様々な特性を持つ。
お前が感じ取った父親も、その影響やもしれん』
「……。そもそも、こんなものを”作れる”ってのがヘンな話だけど。父さんは何者なの?」
『さてな。己には正しい答えを出してやることは出来ん』
空中で弄ばれたライターは、逃げるように正太郎の掌に収まった。
床に転がった玩具をどかし、正太郎は姿見の前に立った。鏡は痩せ細った仏頂面の少年を映している。
シンが後を追うようにして姿見を覗き込み、瞬きする。
カチンッと乾いた音が点火の合図を告げる。正太郎は変身しない。青い炎が儚げに揺らぐのみ。
父は何故、このようなものを作ったのだろうか。
そもそも、あれだけ黒いスーツを着こなし、快活に笑っていた父親が、サイエンティフィックな暗い実験室めいた場所で、気難しい顔で物を作るイメージが結びつかない。
分からないことだらけだ。このライターを作った経緯も、正太郎を置いて去った理由も、猟奇的殺人に手を染める事情も。
「父さんを探さなきゃ。なにも分からないまま、何も出来ないまま流されるなんて、そんなの嫌だ」
ライターを強く握りしめた正太郎の口から、その一言が飛び出した。
正太郎はこの怒涛のひと月あまりを、何も知らないままに過ごしてきた。
それを不安に思っていた。果たしてこのままで良いのか。否だ。
「シン、僕は父さんを絶対に見つけてみせる。多分おじさんたちは反対するだろうけど……せめて僕には知る権利ってやつがあるはずだ。
そのためには君の力が要るんだ。教えて、このライターのこと。君の事も」
シンは優しく微笑んで、「もちろんだとも、相棒」と答えた。
『しかし、己自身の事はあまり教えられん。なにせ記憶が曖昧でな』
半透明の表情に渋みが加わり、炎の瞳が黒い眼窩の中で萎む。
幽霊に果たして記憶というものがあるのか、ぴんと来ないが、嘘をついているようには見えない。
答えられないならば無理に詮索する必要もない。軽い相槌を返して、口を噤む。
『だが、その点火器の使い方や戦う術ならば、いくらでも教授しよう。元よりそのつもりだ』
「……ありがとう、シン」
『無茶は禁物だがな。お前は少し猪突猛進が過ぎる』
目標ができたおかげか、今まで不明瞭だった心の靄が少し晴れた。
丁度その時、ベーコンの焼ける香りが階下から立ち昇り、やにわに正太郎の腹がぐうう、と大きな音を立てる。
まずは朝飯だな、とシンがウインクを飛ばした。
正太郎は頷くや、階段をやや急ぎ足で駆け下りた。
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