3話 今鵺一家
①
──
靴墨で磨かれたような夜の闇を、命短い街灯が照らす。
点滅する光の下で、痩せこけた男が一人、道を歩く。三月の風が夜を冷やし、アスファルトの冷気があたりを冷やしていた。
公園のフェンスが落とす影が、男の顔に歪な菱模様を落とす。
男のほかに人の気配はない。遠くでサイレンが聞こえている。
急がなくては、と男は足を急がせた。
この男は盗人だ。空き巣の専門であったが、つい先ほど仕事の瞬間を通行人に見られ、逃げ出したところだ。
顔を見られていないか不安だが、さほど心配することでもないだろう。人間は他人の顔を覚えることが存外苦手な生き物である。
ましてや男はサングラスをかけ、ニット帽をかぶっていた。
どちらも処分した今、素知らぬ顔で寂れたアパートに帰り、だらりと眠ってしまえばいい。
しばらく泥棒稼業を休業しなければならないが、懐がさびしくなるまでの話だ。
世間が忘れる頃、また男は盗みに手を出す。
「次はうまくやればいい。今日を捨てても、明日があるさ」
それが、しくじった時の男の合言葉であった。
ふいに、男は足をとめる。サイレンの音に交じって、何か聞こえる。
人の類が出す音ではない。
風もないのに、何か擦れる音がする。
耳の中でかさこそとこそばゆいようで、肌が粟立つ。
発泡スチロールが摩擦する時のような耳障りな音を思い出し、男は薄ら気味悪くなって、首筋を撫でた。
三寒四温の寒のさなかか、ここのところよく冷える日々が続く。
とっとと家に帰ってビールでもあおろう。
男は足をはやめる。かさこそと気味の悪い音のうねりは、ひそやかに、しかし男の足跡を追うように迫る。
耳が詰まったか、さもなくば羽虫でも入ったか、と小指をねじ込む。
しかし栓をされた耳はより鮮明に、うねる乾きの響きをとらえた。
「うん?今、なんか妙なものが……」
男は何気なく、丁字路のカーブミラーに映る己を見た。
景気の悪い顔をした自分が立っている。
向かって右手には閑静な住宅街に続く道があり、左手にはさびれた公園が見える。
その時、男は気づいた。黒いアスファルトの上、剥げかかった白い標識が、徐々に黒で覆われゆく様を。
足元を見る。何かが蠢いている。得体の知れない何かに怯んで一歩退くと、街灯がひときわ強く点滅した。
「ギャッ……!?」
刹那、目に飛び込んできた光景に、男は悲鳴を上げた。
有象無象の虫たちが群れをなし、男の足を避けるように行軍を作る。蟻、蜘蛛、ヤスデ、百足、ダンゴムシ、名前も知らない芋虫が続々と、小さな津波となって押し寄せる。
彼らは来る災害から我先へと逃げ出すかのごとく、時折男のシューズを乗り越え、丁字路の向こうへと消えていく。
「ひいっひいいいっ、なななっなんだ、なんなんだよおッ!
やめろっ、シャツの中に入るんじゃねえッ、このこの、このッ!」
男は半狂乱に陥り、女々しい声を漏らしながら虫を叩き落とした。
何度も。何度も。
電灯が点滅する。虫達の光沢を照らす。男が動く度、靴底に、気泡が潰れるような感触が伝わった。
慌てふためく男の様は、学芸会で踊りでも披露するかのような滑稽さ。
ぶんぶんと辺りを飛び回る虫も増え、男は恐怖のあまり頭を抱えてその場に蹲る。
濁流に飲まれゆく恐怖。瞼を開けることすら許されず、男は喉からヒーッという哀れな声をあげ、許して、許してくれと何度も繰り返す。
……。
蟲の波は、突然終わりを迎えた。
嵐はあっさりと去り、当たり前の夜の静けさが戻った。
サイレンはもう聞こえない。
それまで取り乱していた男は呆然として、その場に立ち尽くしていた。
耳に纏わりついていた不協和音が過ぎ去り、静寂がより濃く、澱んでいた。
今のは夢か、現か。心臓は未だ蚤のように跳ねている。
再び丁字路のカーブミラーを見上げると、茫然自失の己と目が合う。
少し落ち着いた後、男はよろよろと立ち上がった。今はただ、帰ることだけを考えた。靴の裏を見る勇気はない。
コキンッ。
踵を返した時、男は奇妙な音を聞いて、立ち止まる。はて、何の音だろう。
男は首を捻っていた。真正面に向いたままの体を置き去りにして、真後ろのミラーを見ていた。
鏡には、ありえない角度にねじまがった男しか映っていない。
それが男の、最期に見た景色であった。
○
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