⑦
「……、……あ、あれ?」
正太郎に痛みはこない。恐る恐る瞼を開け、怪物のほうへ視線を向ける。
目の前の光景に、絶句せざるをえなかった。
怪物の歯は、正太郎ではなく、仁王立ちするひとりの怪物の肩に突き立てられていた。
怪物の体は怪物に劣るものの、普通の男性の二倍は体格が大きく、全身に棘や鱗がびっしりと生えている。
その姿に、正太郎は見覚えがあった。
「こ、公太郎……さん?」
震える声で名前を呼ぶ。男は、自身に生えた太い尾で、怪物を殴り飛ばした。
大型の遊具に叩きつけられ、呻く怪物を尻目に、男は正太郎の足に圧し掛かる遊具を簡単にどかせる。
面をあげた男の顔は間違いなく、公太郎のものであった。
「い、っててて……大丈夫かい、正太郎くん」
「公太郎さん!き、傷が……!」
肩に大きな噛み傷があるのもいとわず、公太郎は正太郎の身を案じている。
ぼたりぼたりと、青い血が辺りにペンキのように散らばる。
安心感から、正太郎は気絶してしまいそうになるのをどうにか堪え、公太郎の首にしがみついた。
「ごめんなさい、僕のせいだ。軽い気持ちであんな怪物を連れてきてしまって……おじさんにまで……」
自分がしでかした後悔と恐怖とで、正太郎は溢れる涙を止められない。
公太郎の、鱗と棘に覆われた手が、守るように小さな背中をそっと叩いた。
「平気だよ。君が無事でよかった。けがは?」
「ちょっと痛いけど、平気です。それより、おじさんの……」
「ああ、
「あ、いえ、服のほうが……」
「そっちかあ。服ばかりはね、うん……派手にこけてびりびりになった、ってことにしておいてくれる?」
怪物は体勢を立て直し、公太郎を警戒するかのように間をとる。
どうやら鈍いなりに、敵の力を認識しているらしい。
「正太郎くん、目でよく視て。
相手は色んなもので自分の姿を隠しているけど、殆どは他人の恐怖を吸ったものだ。実体はそんなに大きくないはずだ」
正太郎は涙をぬぐい、眼帯を剥ぎ取って右目に集中させた。
目の中で、モノクロの世界に青い揺らめきが生まれ、怪物を映し出す。
そこにいるのは、一人の子供だった。
体はがっしりとしているけれど、気弱そうな、正太郎と同い年くらいの男の子だ。
【コワイ コワヨォ オトーサン オトーサン ドコナノ ヒトリニ シナイデ】
「視えた!僕と同い年くらいの男の子です!」
「やっぱりか。その子はここで転落事故にあった子供だよ」
「事故に?」
「転落したショックからか、魂が抜けてしまってね。あの名もない妖怪の核にされて、ここまで急速に育ってしまったんだろう。
生きた子供の魂は、”あちら側”にとっちゃあ格好の餌だからね……!」
子供は蹲って泣いている。
体のあちらこちらから血を垂れ流し、痛い、苦しいと泣いている。
苦しみのクッションとなるかのように、濁りが覆い隠しているかのようだ。
「魂の状態を見る限り、子供は奇跡的に生きている。
君が彼を見つけたことで、彼は正太郎くんを拠り所にしようとしているんだね」
生きている、だけど魂はない。
その言葉で、心臓がきゅっと絞められるようだった。鱗だらけの手が、正太郎の頭をぽん、と優しく叩いた。
「今なら助けられる。僕が囮になるから、君が救うんだ。彼を」
正太郎は目を見開く。
まさか公太郎に、そんな大役を任されるとは思いもよらなかった。
「できるかい?」
公太郎は尋ねるというより、確認するかのように口にした。
正太郎は固くライターを握る。あの恐怖の濁りから、名前も知らない男の子の魂を、何の力もない子供の自分にまかせようとしている。
「――やります!」
「うん、良い返事だ!状況開始だよ!」
正太郎はライターを点火した。轟々と火柱が上がり、正太郎とシンを包む。
散らばっていた正太郎の感情は、公太郎の一言で「相手を救う」ただひとつに向けられていた。
右手には剣、正太郎の装いは白と金の装束に包まれ、顔には真っ赤な隈取が現れる。
正太郎の心が闘争の姿勢を見せた証だ。
「チャンスは一度、ぶっつけ本番だ。シン!援護を頼む!」
『承知だ!正太郎、己が刃の使い方を教えてやる!お前は魂の炎を加速させろ!』
「分かった!」
【 サビシ イ サビシ ィ ヨ ナカマ ナカマホシィィイイ!! 】
怪物が動いた。公太郎たちを飲み込まんと、大口を開けて飛びかかる。
公太郎もまた、怪物に向かって飛びかかった。公太郎が禍々しい腕を振るうと、どこからともなく銀色の鎖が現れ、その両手に収まる。
「我が身、【自縄】を以て【縛】を命ずる!汝、その身を己で縛れ!」
公太郎は鎖をしならせる。
銀の鎖がまるで蛇のようにのたうつと、みるみるうちに怪物の全身へとまとわりつき始めた。
怪物が暴れれば暴れるほど、鎖は深く食い込み、まるでローストハムのごとく縛り上げていく!
「今だ、正太郎くん!」
「はい!」
大きく開かれた口に、正太郎の刃が容赦なくねじ込まれた。
正太郎は咆哮し、力任せに炎の刃を上へと振り上げる。
浄化の炎が肌を舐め、怪物の全身に広がっていく。
切り口からは濁りを焼ききるように、青い炎が迸る。粘液や顔たちは油に点けた火が燃え広がるように、次々と焼き消えていく。
濁りと炎に包まれる中、正太郎は右目越しに、景色を視ていた。
屋上遊技場だ。
先程の少年が一人、とぼとぼと遊技場を歩き回っている。
――父さんがいない。大人が誰もいない。友達もいない。
皆、どこに行っちゃったんだろう。肝試ししようって、一人で飛びだすんじゃなかった。
少年の戸惑いや心の声が、正太郎には手に取るように分かった。
やがて、遊技場のアスレチックの上で、一人の子供が立っていることに気づいた。
男の子は子供に向かって、気丈に尋ねる。
「なあ、ダチと父さんを探しているんだ。だれか大人を見なかったか?」
直後。子供の姿が泥のように形を失った。
恐怖に言葉を奪われた少年の前で、ごぼごぼと泡立ちながら、不格好な大人の形を取る。
無数の顔が浮かび上がり、人型は問う。
【オトナ ッテ ドンナ カタチ?】
少年は悲鳴を上げて、人型から逃げ出す。
けれど遊技場の扉が固く閉じられ、逃げることが出来ない。
人型がじりじりにじり寄ってくる。無数の顔がけらけら笑いながら、子供に手を伸ばす。
「たすけて!誰か、誰か助けて!
殺される!お願い、開けて!ッ、誰かぁぁああ!!」
【ナカ マニ ナロウ ヨ 】
少年は今度こそ悲鳴を上げて、がむしゃらにフェンスを登る。
高い所だなんてことは、関係なかった。
捕まったら最後、もう只の人間に戻れないことを、お父さんの元に帰れないことを、本能で感じていたのだ。
「はあっ、はあっ!やだやだやだやだ、お前の仲間になんかなりたくない!」
【ドウ シテ ヒトリ ナンデショ オイテ イカレタンデショ】
「ちがう!置いてかれてなんかッ……あ、ああああああ!!」
そして無我夢中でフェンスを登った矢先、強い風に煽られて、少年はフェンスの上から落下する。
最後に見た景色は、驚いた顔が次々に浮かび上がり、怪物が細い泥の触手をフェンスの隙間からのばして、絡めとる瞬間であった。
やがて、濁りが全て消え、傷だらけの少年が残された。
穏やかな顔をした、下がり眉が特徴の子供だ。
「……」
「君は生きているよ。体は元気だし、お父さんが傍にいる。僕たちと一緒に帰ろう」
公太郎は元の姿に戻り、そっと手を差し出した。正太郎もそれに倣った。
少年は怖々と、正太郎と公太郎の手をとり、泡のように消えていった。
あの怪物はもしかして、と考える。
単に、男の子と遊びたかっただけの、想いだけの塊だったのかもしれない。
自分が害を為す何かであるとも気づけないまま――せめて子供の魂だけは守ろうとして、とりこんでしまったのではないだろうか。
「大丈夫だ。今ごろ、魂は体に戻ったよ。……さて」
公太郎はぐるりと、遊技場を見回した。
怪物たちは消えたが、敷地の惨状はそのままだ。
おそらく、下の階で一部の人間が聞いているだろう。この光景を見たモールのスタッフたちの反応は、想像に難くない。
「どこから説明したものかな。この格好のこととか、僕のこととか……帰ってからでもいいかい?」
「別にいいですよ、言いたくないなら、言わなくて」
正太郎は、先の戦いで溢れ出た鼻血をぬぐった。
きょとんと目を見開く公太郎を見やりながら、シンが軽く正太郎を小突く。
『いいのか、正太郎。お得意の質問攻めをする絶好の機会だぞ』
正太郎は「うるさいな」とシンの霊体をはたいた。
確かに、本音を言えば、色々聞きたいことは山ほどある。
けれど同時に、先程の短いやり取りの中で、お互いに強い信頼を感じた。
だからそれで十分だった。
「おじさんは、もう隠し事はしないって言ってくれた。
だから、待つことにします。言えないことも、話したいことも」
「……ありがとう。君が賢くて気の利く男の子で助かったよ。
さて、ここから先は大人の仕事だ。またこってりしぼられるだろうな」
ははは、と公太郎は空笑いする。妹や高雄らの渋い顔が目に浮かぶようだ。
正太郎はしばらく虚空を見つめていたが、おもむろに、俯いたまま、公太郎の手を握った。
「おじさん、僕も一緒に謝ります。
ええと、汚くした理由は……思いつかないんで、おじさんが考えてくださいね」
公太郎は目をぱちくりとさせた。
正太郎は少しだけ面をあげて、弱弱しく微笑む。
「だって、家族《おじさん》の問題は、僕の問題でもある。そうでしょう」
公太郎の頬が、ふと緩んだ。モール内の停電騒ぎも、ようやく収束の兆しを見せていた。
〇
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