2話 「シン」
①
◆ある少年の回想
〇
正太郎は、児童養護施設の一角で蹲っていた。
多目的室と名ばかりの、遊具が乱雑に置かれた薄暗い倉庫で、膝を抱えている。
黴臭さが漂い、尻の辺りが濡れているように冷たい。
外から人の気配がするたび、正太郎は亀のように、身を縮こまらせる。
当たり前にあるはずの、人の気配が空恐ろしい。
見つかれば、どこか知らない遠くの地に連れ去られてしまうかのような心細さ。
「(父さん……どこ行ったんだろ)」
施設に入ってどれほど経っただろうか。
父が黙って家を出て暫く。食事もろくにとらず、衰弱状態でいるところを、ある男性が見つけて保護された。
そうしてこの施設に入り、一向に迎えに来ない父を、正太郎は縋る思いで待ち続けていた。
家から引き離され、知らない場所でひとり寝泊りする布団から、知らない匂いがすることが心細くて堪らない。
「あ、いたぞ、正太郎だ」
「探したわよ、正太郎くん」
「一緒にあそぼうよ」
多目的室に、複数の子どもが押し入ってくる。
皆、顔だけは知っている。
正太郎と共同寝室を同じくする子もいる。名前を覚える気はない。
皆、親に傷つけられたり、捨てられたり、故あって引き離された少年少女ばかり。
大抵この施設に預けられた子供達は、大人が大嫌いだ。だから子供だけで団結している。
その空気が、正太郎は苦手だった。
父親を大好きな自分の気持ちを、団結力によって否定されることが癪だった。
爪先を丸める正太郎の前に、年長者の女の子が一歩、踏み出した。
切り揃えられた黒髪が美しい少女だ。
彼女の名前はなんだったか。髪と同じくらい真っ黒な、黒曜石みたいな目が印象的だった。
「先生が探しているわ、戻りましょう、正太郎くん」
女の子が手を差し出す。
正太郎はその白魚のような手をじとりと睨みつけ、無下にも弾いた。
彼女の態度から、上から物を見るかのような威圧感を感じて、不愉快極まった。
「頼んでない。僕に構わないでよ」
自身に集まる、非難の視線と声から逃れるように、正太郎は多目的室から飛び出した。
多目的室は小さなグラウンドに直結している。
何人かの男児たちが球技に夢中になっていたが、正太郎は目もくれなかった。
正太郎が預けられた児童養護施設は、田園と小高い丘に囲まれた静かな場所にある。
大山家から車で二時間弱の場所にあり、まだ開発が進んでいないのどかな土地だ。
グラウンドの西口から出ると、道路を挟んですぐの田園の向こうに、見知った住宅街がのぞめる。
田畑を挟んで隔絶された世界が、正太郎にとっては苦痛でしかなかった。
「(きらい、きらい、きらいだ、何もかもが)」
ぬかるんだ土の臭いや、澄み渡る冬の山の寒さが、住み慣れた町の記憶を塗り潰してしまう。
そんな妄想にも似た空恐ろしさに心を蝕まれていくようで、逃げ出してしまいたかった。
町に続く広い道路を、脇目もふらず駆けていた。
どれだけ走っても屋根の群れは近づくことなく、むしろ正太郎から遠ざかっていくかのように思われた。
かじかむ寒さに目が霞み、歯を鳴らしながらアスファルトを蹴る。
すれ違う、見知らぬ子供達の奇異の視線を背中に受けて、疲れ果てるまで走る。
「正太郎くん、敷地の外に出ちゃ駄目よ。危ないからね」
「お父さんに会いたい気持ちも分かるわ。でも居ない人を探したところで、会えっこないよ」
「それより皆と仲良くしましょう?一人じゃ寂しいでしょ。皆正太郎君と仲良くしたいって言ってたわよ」
施設に迎えられて以来、毎日同じ行為を繰り返した。足が引きつって動かなくなるまで、道路を脇目もふらず走る。
探しにきた大人たちに連れ戻されて、もう二度としてはならないと叱られても、やはり次の日には同じことをしでかした。
友達になろう、一緒に遊ぼう、そんな優しい声をかけられても、全て突き返した。
新たな優しさを知ってしまえば、父はもう戻ってこない、そんな確信が正太郎にはあった。
大人の目を盗んでは、今日こそはと町に向かって走り続けた。
無駄な事、と見えない誰かが囁いても、知らぬふりをした。
言って聞かせるだけでは埒が明かない、そう判断した周囲は、正太郎に外出禁止令を出した。子供らの目も厳しく光っていた。
しばらく、正太郎は諦めたかのような素振りを見せた。
大人たちはようやく大人しくなったと安堵したその矢先に、正太郎を引き取りたいと願い出る者が出た。
「叔父さんがね、正太郎くんを引き取りたいって言ってたわよ。良かったわね」
「とても優しい人よ。きっと正太郎くんのこと、大切にしてくれるわ」
先生は心から喜んで、小さい頭をかいぐり撫でた。
翌日、正太郎は陽も登らぬうちから寝床を抜け出した。半分寝惚けた警備員を尻目に、門をよじ登って、朝靄の中を駆け抜けていた。
とても痛快な朝だった。足取りも軽く、どこまでも走れる気がした。
人影はどこにもなく、鳥の囀りもない。薄雲が白い空にのっぺりと広がる朝だった。
田んぼも道路も、霧にすっぽり覆い隠されて、遠く正太郎が住んでいた町が顔を出している。
この瞬間、自分と町の間に隔たる田園が見えない今ならば、あの町に追いつける、我が家に帰れると、そんな希望が首をもたげた。
足裏がアスファルトを蹴ると、足元に漂う冷気がわびしげに正太郎へ別れを告げた。
爽快感を振り払ったのは、こちら側へと歩いてくる一つの影だった。近づいてくる人影を見るや、晴れやかな気持ちはみるみる空気が抜けるように萎んだ。
正太郎は速度を緩め、俯きがちにすれ違おうとした。
顔を見られたくなかった。だが自信もあった。
霞の中を歩いてるうちは、相手に顔を見られまいと高をくくっていた。
「どこへ行くんだい」
その声は、霧の中で、鈴が鳴るように凜、と響く。背丈は大人であるのに、幼さを含んだ、不思議な声だった。
正太郎はぎくりとして、その場で歩みを止めた。
霧靄がより一層濃く感じられ、東の空が雨の匂いを連れてくる。
「どこへ行くというのだ」
もう一度、人影は問いかける。ちりんと、甲高い鈴にも似た音がした。
どこかで味わった冷たさが頬を、喉を、うなじを伝い、骨をなぞるように沁みていく。
嘘を口にすると、連れ去られて、二度と戻れなくなる。直感めいたものが正太郎に囁く。
「父さんを、探しにいくんです」
泣きそうな声をあげて正太郎は吐露した。
肺から無理矢理言葉を引き出される、そんな力を声の主は持っていた。
早くその場を離れてしまいたいのに、手も足も、身動きひとつ取れない。霧が枷のように重く、生き物のように絡みつく、そんな違和感があった。
「も、もう行きますね」
どうにかすれ違おうと、重たい足をひきずって立ち去ろうとした。一分一秒でも無駄にはできない。
今この瞬間にも、父は家に帰ってきているかもしれない、その焦りが正太郎の足を突き動かした。
だが、人影はそれを阻んだ。霧からぬっと突き出た白い手が、少年の右腕を掴む。
触れた皮膚を、灼けるような熱が襲い、骨は凍りつく冷たさを覚え、正太郎は絶叫した。
「行き先は、そっちじゃない」
人影は静かに、確信をもった声で告げる。
正太郎は細い手を振りほどこうと躍起になったが、まるで鉄の枷のようにびくともしない。
「離して、僕、帰らなきゃいけないんだ。
父さんを待つんだ。あの家にきっと帰ってくるんだ、だからお願い」
正太郎は座り込んで、泣いて懇願した。しかし相手の腕はしっかりと手首を捉えて離さない。さりとて正太郎をいずこへと連れていくでもない。
霧が僅かに腫れた時、人影と目が合った。
真っ黒に塗り潰された目が正太郎を見据えていた。白目もない、ぼっかり空いた空洞の奥で、青い炎が燃え盛る。
正太郎の目の中でも、青い揺らめきが身を躍らせる。その直後に感じた強烈な熱に、正太郎は再び叫んだ。
熱い。目玉がそっくり火になってしまったかのように、脳から足先まで熱が駆け抜ける。
黒い目玉が、青い炎の瞳が、泣き喚く正太郎を見下ろしていた。
〇
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