⑧
○
目が覚めた時、正太郎は病院のベッドにいた。
これで二度目だ。空はすっかり夜の色に染まっている。
壁にかかった時計は、夜中の十時を指している。あっ、と歓声が聞こえた。
「あ……れ?」
「よかった、目が覚めたか」
首を捩じると、ベッドの側に公太郎がいた。
隣には、先日正太郎を検診した女医もいる。二人とも、ペアルックのように目のくまが酷い。
公太郎は安堵の溜息を漏らし、ぎゅっと正太郎を力強く抱きしめる。
風呂に入っていないのか、ちょっと匂った。
「君、丸々三日も眠っていたんだよ」
「み、三日?」
カレンダーを見ると、確かに戦いの日から三日も経過していた。
正太郎は唖然として、何度もカレンダーを見直した。
やがて、正太郎の記憶が一気にあふれ出す。死んだ七生、くれあい山での戦いが嵐のように思い出される。
あの幽霊の男を探すと、正太郎の頭上で船を漕いでいる。
幽霊も眠るのか、と見当違いの推測が脳裏をよぎる。
公太郎はライターを差し出した。電燈に照らされ、銀色に輝いている。
「これを使ったんだね。君はこれを使って、七生真矢の霊と戦ったんだ」
「真矢のこと、知っているんですか?」
「上で船を漕いでいる彼から、一部始終を聞いたよ。
一人で戦うだなんて、とんでもないムチャを……生きていてくれて、本当に良かった」
正太郎は俯いた。七生の腐った体、彼の憎悪溢れる言葉が蘇る。
彼は正太郎の父を憎んでいた。
理不尽に殺され、死してなお味わう苦しみと痛みに悶え、復讐を誓っていた。
「……真矢が言っていました。自分は、僕の父さんに殺されたって。殺人事件は全部、僕の父さんの仕業だって」
「知っていたよ」
公太郎ははっきりと断言した。正太郎は目を見開いて、公太郎を見た。
その「知っていた」の言葉の意味を飲み込むと、ざわざわと腹の底がざわめいた。
「知っていて、黙っていたんですか」
正太郎の声は、非難の色を含んでいた。
公太郎は目を伏せ、正太郎にライターを握らせる。
「君の父さんは、妻であるエリサさんを失って、狂ってしまった。
何を成そうとしているかは知らないが、彼を止めなくてはならない。
僕らは今、全力を挙げて彼の行方を追っている。
まもなく彼は、全国指名手配されるだろう。捕まるのも時間の問題だ」
正太郎の掌に収まるほどのライターは、見た目より遥かに重みを感じた。
親友を燃やした武器を両手で握りしめた。
こみあげる感情を、どうにか抑え込もうとした。
もしこの場で感情が爆ぜてしまえば、あの七生のような怪物になってしまうような、そんな恐れの気持ちが渦巻いていた。
沈黙が病室を包む。やがて、公太郎が口を開いた。
「正太郎君、君の父親のことで、黙っていたのは悪かった。
けれど、君が悲しむくらいなら、教えないほうが一番だと思ったんだ。
……君を、傷つけたくなかった。すまなかった」
公太郎は深々と頭を下げた。僅かに震える肩を見て、正太郎はひどく困惑した。
真実を隠された事に憤怒を覚えたにも関わらず、その怒りの風船はみるみる萎んでしまっていた。
行き場のない感情をどこにぶつけていいのか、皆目見当もつかない。
公太郎に八つ当たりできるほど、正太郎の心は強くない。
己の気持ちをごまかすため、話題を変えることにした。
「その……公太郎さんは、幽霊、見えているんですか?」
「ああ、見えているよ。天井でいびきをかいている奴だろう」
「彼は何者なんですか?」
正太郎の問いに、公太郎も女医も、渋い顔で互いを見やった。
知らないのか、それとも言いたくないのだろうか。
ややあって、公太郎は再び幽霊を注視した。
「彼は何かと謎が多くてね。昔は自分を「大妖怪だ」と名乗っていたんだ」
「妖怪?あれが?」
「まあ、何の妖怪かも分からないけどね。守護霊だとか土地神の類かもしれないし、
単なる野良幽霊かもしれない」
「そんな、近所の猫みたいに……」
「まあでも、人の味方であり、友人であることは確かだよ。君のお父さんとも、仲がよかった」
父と。頭上の幽霊はむにゃむにゃ何か唱えている。
考えれば考えるほど、謎は深まるばかりだ。何故そもそも自分は、母の死を覚えていないのだろう。父親のことをこれほどに知らないのだろう。
記憶を辿ろうとしても、白く濃い霧がかかったみたいに、何も思い出せない。
僕は何を忘れてしまったんだろう。友達のことでさえも、幽霊の言葉がなければ、思い出そうとすらしなかった。
自分の身に、何かが起きている。それを知っている大人たちは、誰もが口を閉ざしている。
――僕は、何を信じればいい?
『まずは泣け、正太郎』
頭上から男の声がする。幽霊が起きたらしい。
正太郎の視線に合わせるように降り立つと、ベッドの端に腰掛けて正太郎の目をまっすぐ見た。
『男には二つの強さがある。正太郎、お前は心を開く程に強くなる男だ。
感情の怪物を恐れず、素直になれ。心を曝け出せ。
そして、感情の手綱をとるのだ。己は語れることは多くないが――お前の助けとなろう、正太郎』
幽霊の言葉がゆっくりと、正太郎の脳に染み渡る。
公太郎もそっと、正太郎の頭に手を置いた。
「これから、僕らは家族になるんだ。もう、隠し事はなしにする。
だからもっと、頼ってくれていいんだよ」
その手は、あの夕暮れの帰り道と同じく、父の手と同じく、懐かしい大きさと重みだった。
目頭に火が付いたような熱が走る。正太郎の頬を大粒の涙が伝い、声を張り上げて泣いた。
父に裏切られたことが悲しくて、一遍も変わらない父への愛情に安堵して、真矢の死が悲しくて、公太郎の温かい手が懐かしくて、もういない家族と友達を想って、泣いた。
○
翌朝、正太郎は退院した。
世間は春休みを迎え、七生の遺体が見つかったことで連日ニュースとなっていた。
犯人の心理に迫るドキュメンタリーなども、ゴールデンタイムで放映された。
正太郎は退院した翌日、車のクラクションで目を覚ました。知らないワゴンアールが大山家の前に止まっている。
急いで身支度を整え、母のシャンデリアが入った段ボールを抱えて家を出る。
「よ、正太郎。久しぶりだな」
運転席に乗っていたのは、四十路ほどの男だった。
くすんだ稲穂色の髪に、熊のように大柄で逞しい体つきをしている。あまりに筋骨隆々なので、青のポロシャツが横に引っ張られている。
彼は、衰弱していた正太郎を助けてくれた男で、名前を高雄ジュンといった。
父親の友人だそうだ。公太郎といい、父にはつくづく謎が多い。
正太郎に続いて、公太郎が眠たげな顔で現れた。
「早いね、高雄。出発の時間まであと三十分あるよ」
「馬鹿、三十分前だから来たんだ。お前ならあと一時間は夢の中だろうからよ」
高雄は呆れかえった顔で、さっさと乗れ、と促す。
まだ朝ご飯も食べていないのに、と公太郎は毒づき、転がり込むように助手席に乗り込んだ。
幽霊を見た時、高雄は一瞬変な表情をしたが、無視して視線をそらした。関わるつもりはないらしい。
後部座席に乗り込んだ正太郎に、高雄が色紙を差し出す。
「お前らを待っている間に妙な女がきてな、これを渡してくれだとさ」
色紙には担任と、クラスメイト達の名前があった。
そこには、正太郎に向けられた、励ましと別れを惜しむメッセージが人数分、綴られていた。
「ありがとうございます」
正太郎は潤む声で言った。
「ありがとうございます……」
「出発するぞ。忘れ物はないな」
高雄はブレーキを軽く踏み、エンジンをかけた。
正太郎は色紙とシャンデリアの箱を大事に膝の上に抱える。
車は町を離れていく。正太郎はリアガラス越しに町を見送る。空は青くどこまでも澄み渡る。
幽霊はというと、公太郎と正太郎の間に挟まって、こぢんまりと小さくなっていた。
「幽霊のくせに車に乗るのかよ。しかも狭いし」
『別にいいではないか、場所はとってない』
「いやだよ、半分くらい僕埋まってるんだぞ!」
「君達、ただでさえ狭いのに車の中で喧嘩するんじゃないよ、大人げない」
『そもそも車が狭いのが悪いのだ!』
「おい誰だ、さっき俺の車の悪口言ったやつ!放り出すぞ!」
「僕じゃない!」
車内は賑やかを通り越して騒がしく、空を飛ぶ雀がきゃたきゃた鳴いた。
くれあい山の桜は、もうすぐ花を咲かせるだろう。
正太郎は一度だけ振り返って、遠のくくれあい山を見やった。
「またね、真矢」
〇
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