②
〇
「…………ゆめ……」
正太郎は目を覚ます。
窓の外は暗闇で塗り潰され、月が仄かに、風に流れゆく叢雲を照らしている。
時計は二時過ぎを指していた。天井から鼾が聞こえるので、首をねじって見ると、幽霊が鼾をかいていた。
幽霊も鼾をかくのか、と素朴な感想が浮かぶ。似たような疑念を以前も抱いた覚えがあった。
「(喉、乾いた。水…………)」
額の汗を不快に思い、腕で拭う。正太郎の喉は水を欲していた。
廊下に出ると、春先の冷気が体を包んだ。汗が一度に冷え、身震いする。電気をつけるか迷った。手探りで階段を下りていき、台所へ向かう。
ふと正太郎は、ダイニングの扉越しに明かりを見た。
不思議に思い、少しだけ戸を開けると、公太郎がいる。蝋燭の灯を頼りに、安楽椅子に腰かけて分厚い本に視線を落としている。
直後、目の前の光景に目を奪われた。
「(悪魔だ)」
彼の右目には、怪物の影が公太郎と重なって映っていた。
藍色の、きめ細やかな鱗の肌が蝋燭の燈火にあやしく照らされている。
額や頬に幾つも目玉がついている。蜥蜴を思わせる顔つきは、公太郎と似ても似つかない。
髪は肌の色と同化し、つむじ部分から、魚の、あるいは鮫の鰭に似た突起物が背中まで連なっている。
公太郎は以前、自身に竜の悪魔が憑いていると公言していた。
なんでそんなものが、彼に憑いているのだろう。
つくづく、彼も謎だらけだ。
「ッ!」
不意に、悪魔の目玉が正太郎を見た。
額の目が間違いなく、正太郎の右目を見据えた。
正太郎は踵を返す。足音を派手に鳴らすのも構わず、喉の渇きも忘れて自室に飛び込んだ。
布団をかぶり、猫のように丸くなる。
恐ろしい夢を見たような、底冷えする気分に陥った。
悪魔の目に見据えられた瞬間、背筋を大きな氷柱で刺し貫かれるような恐怖がフラッシュバックしたのだ。
あの恐ろしさは覚えている。
七生真矢。正太郎の父に殺された、友人の亡霊。
彼は殺されたことを恨み、亡霊になってなお、苦しみ続けていた。生きた人間のふりをして正太郎に近づき、体を奪い復讐しようとした。
あの時の、怪物のような真矢の目と、公太郎の影にひそむ悪魔は、同じ異質さをはらんでいた。
人ならざる何かの気配だ。彼らには一切の温かみを感じない。
「……正太郎くん?起きているのかい」
階下から、スピーカー越しに語り掛けるような、歪な声がする。
怖くて返事ができなかった。
やがて、正太郎の足取りを追うかのように、足音が響く。扉がゆっくり開かれる音がする。
正太郎は身を固くし、息を押し殺した。起きていることを悟られまいと、つとめて指一本すら動かさなかった。
頭に、掌があてがわれる。公太郎の手だ。鱗はない、尖った爪もない。
けれども、あの影がちらついて、今にも柔らかな皮膚が棘のついた異形と化すのではないかと、妄執が目玉の中でめくるめく。
手が離れてゆき、布団が掛け直される気配を察した。ベッドの傍にあるサイドテーブルの方から、ことん、と軽やかな音。
「おやすみ」
公太郎の足音は忍びやかに、音も立てず扉の向こうに消えていく。
正太郎は、大きく息を吐きだした。探られているように思われて、今まで呼吸する事すら忘れていた。
三月の冷えた空気が肺に飛び込んでくる。喉の渇きは忘れてしまった。
『怯えているのか、正太郎』
そう問いかける声がした。傍に、幽霊がいる。正太郎の右目に、穏やかな顔つきの男が映る。
ある日突然現れ、真矢に殺されかけた正太郎に語りかけ、その身を守ろうとした。
だがその実態は謎が多い。
この幽霊は多くの事を知っているのに、正太郎は彼の名すらも知らない。
「別に、怖くなんかないよ。ただ……怒られると思って」
『怒られる?何故だ。皿でも割ったのか』
「そんなんじゃない。……もういいよ」
正太郎は枕に顔を埋め、おやすみと呟く。
幽霊男は、二度目の就寝についた正太郎の後頭部をじ、と見る。
とてもじゃないが、視線がぷすぷすと突き刺さり、眠れるどころじゃない。
身を起こして、サイドテーブルを見やると、水の入ったコップがたたずんでいた。
「ねえ、一つ聞いていい?」
『寝るんじゃなかったのか。なんだ』
「名前、なんていうの?」
問いかけながら改めて男を見上げる。
正太郎と会話できるようになって以降、体のサイズを変えられるようになった。
歳は四十路か五十路ぐらいだろうと予想がつくが、声だけを聞き取るなら、若い青年にも思える。
袈裟を着ているが、剃髪はしていないし、僧侶らしからぬ言動も多い。
この間は酒を見て「あの酒は鮟鱇の肝と合うんだ」などとつらつら語っていた。
現代的な横文字を使う事はあまりないが、知っている単語もある。
けれどその知識は、少なくとも昭和止まりといった具合だ。
纏う雰囲気はどことなく、父を彷彿とさせる。
半透明の男は、しばし顎をかいて思案していたものの、ぐるんっとひっくり返りながら返事を出した。
『己に名はない。好きに呼べばいい』
「ふうん。じゃあシン……シン、でどう?」
『いやに即決だな。その心は?』
「死んでいるから、シン」
『安直すぎる。さてはおぬし、笑いの機微というものの感受性が皆無だな』
「言ってる言葉の意味は難しいけど、僕のことを馬鹿にしたってことは分かるぞ」
本当は、「シンヤ」から取ったのだけども、言わないでおこうと決めた。
友達の真矢はもういない。彼等曰く、無事に「成仏」したのだそうだ。
成仏すると、その魂は別の命に生まれ直すのだそうだ。
なら、もう真矢のような友達は求めまい、と決めた。無二の大切な友人は、彼だけでいい。
けれど、名前がない、と告げた幽霊の顔が少し寂しそうだった。
なら、共に見送った友人の名にあやかるくらいは、許されるだろう。
今後、長い付き合いにはなるのだろうから。
「それはそうと、君って結局幽霊なの?それとも妖怪なの?」
『質問は一つだけじゃなかったのか』
「一つ聞いていい?とは言ったけど、別に一つしか質問しない、とは言ってない」
『減らず口め……』
「なんでお坊さんの服なんか着てるのさ。寝てる時って夢なんか見たりしてるの?
いつもそんなに体が大きいのは見栄なの、生きてる時からなの?
生きていた時の記憶ってあるの?酒の味を知ってるってことは味覚とかあるの?」
『ああもう矢継ぎ早がすぎる!せめて一つずつ絞ってから聞かんか!』
幽霊は毒づくが、正太郎は構わず質問攻めする。
根負けしたシンは、正太郎が眠気を訴えるまで、質問に逐一答えなくてはならなくなった。
規則正しい寝息が聞こえ始めるころには、丑三つ時に差し掛かっていた。
『やれやれ、幽霊を”気疲れ”させる子供など、なかなか居らんだろうな……』
シンは毒づきながらも、苦笑いを添えて鼻を慣らし、宙に寝転ぶように身を躍らせた。
窓の外は、雲一つない月夜だ。
明日は霧が出るやもなあ、と明日の空模様に想いを馳せ、シンも瞼を閉じた。
〇
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