「ぐあッ……!?」


突如、正太郎の右頬を強い力が打ちつけた。

鞭で叩かれたかような鋭い痛みが、正太郎の全身を襲う。

間髪入れず、反対側から同じ痛みが全身に叩き込まれた。右、左、右、左と、鋭い痛みは何度も正太郎に降りかかる。

何に殴られている?わけもわからず、正太郎は自分の頭を腕で庇うように抱き込むしかない。


「お前の父親だ、俺は見たんだ、俺の頭を綺麗に切り取って、体をここに埋めたんだ。

 あと三人殺すって言っていた。いいや、きっともっと殺すんだろうさ!

 俺はお前の親父が許せない!俺をこんな所に埋め捨てやがった、あのクソ野郎を!」


七生は激情を乗せ、怒りに吼える。

強い力で何度か叩かれるうち、正太郎の眼帯が千切れた。

そして、右目に映った光景を見て、正太郎は恐怖に喘いだ。


七生の体は、おぞましい色合いに腐っていた。

首からたえず茶色く変色した血を流し、蛆が沸いている。

血色を喪った皮膚がささくれのように無数に裂けて、筋肉や骨は無惨にもずるりと剥き出しになっている。

乾ききった内臓は、ぶらぶらと垂れて土がこびりつき、木の根が全身に巻き付いて、枝や蔦が、まるで長い鞭のように伸びている。

正太郎を鞭打ったものの正体だ。


「お前に分かるか。俺は苦しいんだ。

 首が千切れたから、息ができないんだ。腐った血と土の臭いしか感じないんだ。

 根っこがずっと俺の体を締め付けてくるんだ。

 死んで埋められるとな、そうなるんだ。ずっと喉から苦くて腐った臭いがして気持ち悪いのに、吐き出すこともできないんだ。

 ミミズや芋虫が鼻の穴を好き勝手這いずって痛いのに、俺は何もできないんだ!

 骨が折れてるのに、体が千切れてずっとずっと痛いのに、痛みから逃げる事すらできない苦しさが、分かるか、お前に、お前に!!」


右目に映る七生は、憎悪の塊と化していた。

ホラー映画に登場するゾンビや死体より遥かにグロテスクで生々しい。喉の奥が酸っぱくなり、正太郎はたまらず嘔吐した。


「死んでるのにどうして俺は苦しいんだ。

 俺が何をした?お前を虐めたから俺は殺されたのか?」


違う、と声に出して叫びたかった。

父が人を、ましてや子供を殺すとは思えなかったし、例え人を殺すとしても正太郎の為に誰かに手をかけるなど考えられなかった。

なにより、正太郎はあれだけ七生がおそろしかったはずなのに、死んだ七生を見てショックを受けていることを、やっと自覚した。


「俺はお前の親父が憎い。お前も憎い。殺してやる!

 お前の体を乗っ取って、お前の親父に復讐してやる!」


ずるずると木の根が這いより、蹲る正太郎の全身に巻きつく。

太いワイヤーが全身を締め上げるかのようだ。正太郎は圧迫感と痛みに呻く。


「お前の体を貰ったら、アイツを探し出して半殺しだ。

 骨をていねいに一本ずつぼきぼき折って、すり潰して食べてやる!

 それから目の前で自殺して、罪を全部おっかぶせて、アイツは刑務所いきだ。

 死刑だ!ざまあみろ!滅茶苦茶にしてやる、何もかも!

 お前があの日、俺と初詣に来ていたら、こんなことにはならなかったんだ!

 謝れ、謝れッ!死んだのはお前のせいだ!認めろ、土下座しろッ!」

「が、あっ……や、めて、しん、や……!」


暗い喜びを露わにし、七生は正太郎に語りかける。

木の根が正太郎の皮膚を浅く裂き、血が流れる。根は血の味に歓喜するかのように、より締めあげる力を強くした。

みしみしと骨が悲鳴をあげる。

喉が締まり、息をするのも困難だ。助けて、と声を出すことも叶わない。

酸素が回らない頭が、僕は死ぬのかと問いかける。

父にも会えぬまま、この山でひとり、息絶えるのだろうか。七生と同じように、腐った体を恨み、七生を恨み、父を恨みながらこの山に縛られるのか。


――いやだ。そんなのは嫌だ!


心が叫んだ。

呼応するように、半透明の男が姿を現す。黒い目が食い入るように正太郎を見つめる。その時、男の唇が動いた。


『死ぬな、正太郎』


幽霊の男が、正太郎に巻きつく木の根を力強く掴む。

刹那、青い炎が噴き出し、まとわりつく根を燃やす。

七生は聞くに堪えない絶叫を奏で、正太郎を振り落とした。

小さい正太郎の体が、地べたに転がり落ち、嫌な音を立てる。げほ、ごほと咳き込む正太郎の背中を、カイロのような熱が支える。


「ゆ、幽霊さん、声が……」

『やっとお前と「繋がった」。お守りだ。お守りを取り返せ、正太郎』

「わ、わかった!ところでなんで君、喋ってんの!?」

「お前と初めて会った時から、ずっと己は喋っていたぞ。お前が耳を貸さなかっただけで」


正太郎は混乱していた。

今になって幽霊の男が口を開いたことにも驚いたし、七生の口から聞かされたショッキングな話や、自身の体に刻まれた痛みや傷を受け入れられないでいた。

兎に角、無我夢中で正太郎は駆けだした。燃え盛る木の根の群れをかいくぐり、七生に捨身の体当たりを食らわせる。

ぎゃあ、と素っ頓狂な悲鳴を上げ、七生は後ろ向きに倒れた。

手にしている汚い小袋をむしり取った矢先、腹を力強く蹴り飛ばされた。

小袋を手にした途端、正太郎の腹の底から、ぐあっと沸き上がるような激しい熱を覚えた。その熱に支配されてしまったみたいに、正太郎は今までに出したことのない声を張り上げて、もう一度七生を蹴り飛ばす。

七生自身が小柄であることに変わりはない。正太郎にまたも倒され、怒りに喚く。だが既に正太郎の手には、お守りがしっかりと握られていた。


「取り返したけど、どうすればいいの?」

『中にあるものを出せ』


お守りは不自然な膨らみができていた。正太郎は咄嗟に袋をこじ開ける。

中から出てきたものは、銀色に輝く長方形の物体だ。

父のライターだ、とすぐに気づいた。

怒りに震える七生が、木の根をしならせ正太郎を再び締め殺そうと迫る。


「うわあ、また来た!」

「火を灯せ、正太郎!」


幽霊男が叫んだ。間髪入れず、正太郎の指がライターのスイッチを押していた。

ヤスリが勢いよく回転し、フリントと擦れ合う。

生物のように青い炎が迸り、その勢いは天を突いた。ライターは絶えず振動し、正太郎の手の中で暴れ回る。

炎は形容し難い、獣に近い姿をとり、七生の木の根を次々に燃やす。正太郎自身は熱を感じないのに、七生は熱い、熱いと叫び、恐ろしい咆哮をあげる。

苦しみ悶える七生の様子に、正太郎は怖くなり、震えた。だが、ライターを持つ手は、蓋を閉じようとしない。


「す、すごい火が出てるけど!これ、僕まで燃えない?死んじゃわないか、これ!?」

『恐れるな、正太郎。これなるは「魂の証」。

 この炎はお前の目を通して、想いの力から発せられる炎だ』

「想いの力?」

『左様、現世の言葉を借りるなら、電力だの水力だのと同じく、人の脳の働き、感情を動力として得られる特殊な力だ。

 奴は果てしない憎しみに囚われている。お前の炎なら、奴を憎しみの根から解き放てる!』

「でも、どうやって!」

『思い出せ、正太郎。お前にとって、あの子供が一体どんな存在だったかを!』


幽霊男は激励し、七生を見据える。根は徐々にだが、七生に纏わりつく木の根を炭に変え、消し去っていく。

七生は同じクラスのいじめっ子だ。正太郎にとって、その事実は変わらない。

その程度のはずなのに、この炎の大きさはなんだろう。

――僕にとって、彼は何者だったのだろう?

七生は唸り声をあげ、燃える木の根を自ら切り離した。


「こんなちっぽけな火で俺の憎しみが消えるだと!随分と勝手な事を言ってくれるじゃないか、幽霊風情が!」


土が盛り上がり、七生の姿を覆い隠す。新たな木の根がその上から纏わりつき、皮膚から浮き出た血管を思わせる。

みるみるうちに七生は、上半身だけの醜い土の巨人へと変貌する。腐った肉塊で出来た一つの目玉が、ぎょろりと正太郎を見下ろした。

大きすぎる。5mはくだらない巨人だ。上半身だけの姿とはいえ、135cmしかない正太郎にとっては十分すぎる脅威であった。


「これでも俺の憎しみは燃やし尽くせるのか。やってみろよ、正太郎!ぺっちゃんこの台無しになった豆腐みたいにして終わりだぜ!」

「ど、ど、ど、どうするのさ!」


正太郎は狼狽した。炎がいくら巨人を焼いても、次から次へと新たな木の根が生えて再生する。

ぐわあ、と巨大な腕が振りかぶり、地面を殴る。

みしみしと周囲の木々が悲鳴を上げ、地面が波のようにうねり、正太郎の体が1mも浮いた。

殴りぬかれた地面は、巨大な穴が開いていた。ぞおおっと恐怖が正太郎の背筋にはりつく。あんなものに殴られたら、砕けた豆腐どころじゃすまない。


「死んだ、やばいよ、これ絶対死んだ」

『うろたえるな正太郎、願え。あの子を救いたいと切に願え。炎の力はお前の心を欲している。己を燃やせ、正太郎!』

「燃えたら死んじゃうよ!」

『ああうん、今のは言葉が悪かったな。違う、心を燃やすんだ。

 心臓じゃない、お前の頭の中にいる、この世界を見ている自我、心の自分を燃やすさまを思い描け。

 魂の己に火をつけろ!感情をひとつにしぼり加速させ、奴にぶつけろ!その炎はお前にしかない、お前だけの力だ、正太郎!』

「感情をひとつに、って、難しいよ!なにをどうすればいいのさ!」

『ええい軟弱なやつめ!サトルとエリサはお前に何を教えた!?』


サトル、その名前に一瞬たじろいた。

……父母の名前を、どうしてこの幽霊が知っているのだろう?

その一瞬の隙が仇になった。巨大な腕がぶうん、と正太郎の頭をわずかに掠める。

巨腕が振るう風圧は、正太郎の小さい体を容易く吹き飛ばしてしまう。

宙を舞う正太郎の体は、木の幹に打ち付けられ、潰れたカエルのような声が出た。


「ぐぎゃうっ、ううう……!」

「ははははっ!情けない豚みてえな声だ!もっと聞かせろよ正太郎!泣け!クソを漏らせ!お前がべそべそに泣くツラを見ると気分がいいぜ!」

『言われているぞ、正太郎。悔しくないのか!』

「うる、っさい……!」

「あ”あああぁぁぁっ!?」


ボイスチェンジャーでもかけたみたいに、彼等の声がぐわんぐわんと大きく響く。

ライターを再びつけると、また大きな炎が、七生の醜い目玉を焼いた。

悲鳴をあげる隙に、体に鞭打って、できるだけ離れる。

うるさい、静かにしてくれ。大きな声を聞くだけで、また吐きそうだ。

口の中が酸っぱくなって、全身はどこもズタズタになったんじゃないかと思うほど熱くて痛む。

足の筋肉は今にも削げ落ちて動けなくなりそうなくらい疲弊して、もう諦めてしまいたい。なのに、「死にたくない」という一心のせいで、惨めったらしく這いずって、木の陰なんかに隠れている。

獲物を取り逃がした七生は、怒り狂いながら、近くの木々を薙ぎ倒す。まるで見える嵐だ。

木々がへし折れる音、腕を振るうたびに唸る風の音、絶えず地響きと共にもたらされる振動。


――思い出せ、正太郎。お前にとって、あの子供が一体どんな存在だったかを!

幽霊の言葉と今の状況が嚙み合って、かちりと正太郎の頭の内側で、鍵の開く音がした。



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