⑤
○
目を覚ますと、時刻は既に四時を過ぎていた。しまった、と正太郎は飛び起きた。時計を見た瞬間から、眠気は一気に吹っ飛んだ。
約束の時刻を絶対に過ぎてしまう。
確実に、七生は遅刻を理由に、また殴ってくるだろう。
――いっそ、お守りは諦めてしまおうか?
「やあ正太郎君、起きたかい」
公太郎が相変わらず人の良い笑みを浮かべて、キッチンから出てくる。
寝ているうちに戻ってきたのだろう。顔から少し疲れが伺えた。
その表情を見ると、ずくりと胸が痛んだ。
正太郎の腹に、ブランケットがかけられていた。彼がかけてくれたものだろう。
だが今の彼に、礼を口にする余裕はなかった。
「友達に会ってきます」
「正太郎くん!?こんな時間に一人で出歩くのは危ないよ!」
「すぐ戻りますから!」
正太郎はそれだけを言い残して、無我夢中で家を飛び出した。
公太郎がもし、あのお守りに悲惨な出来事が起きたとしたら、悲しむに違いない。
それだけは避けたかった。
何があっても君を守ってくれると、お守りを渡す公太郎の笑顔を裏切りたくないと思ったのだ。
○
時間は二時間ほど遡る。
公太郎はスーツ姿で、正太郎の小学校に出向いていた。指定された四時半に、四年生の教室で、正太郎の担任と対面していた。
「残念です。お別れ会もできず、正太郎君とさよならなんて」
担任はのんびりした口調はそのままに、悲しそうに目を伏せた。
彼女は子供好きの教師で有名だ。
本来なら、転校する生徒には特別にお別れ会というものが開かれる。
送別会を実施しなかったのは、巷で騒がれている殺人鬼の一件があるからだ。
子供を長時間学校に置けば、父兄から苦情がくると学校側は判断した。集団下校も、まだ捕まっていない殺人鬼を警戒してのことだ。
「そうですね、僕としても、きちんとお別れをさせられなくて残念です。正太郎君に、友達はいましたか?」
「ええ、友達はいましたよ。休み時間によく、その子に誘われて鬼ごっこやドッヂボールをして遊んでいました」
子供の話題になると、担任は楽しそうに語る。
本当に子供が好きなのだろうな、と公太郎もふっと微笑んだ。
「だからこそ、本当に残念です。例の、一月に起きた児童殺害事件の被害者の一人は、私の受け持つクラスの児童だったんです」
「そうなんですか……」
涙ぐむ担任に対し、公太郎は驚いたふりをしてみせた。
あるツテで事前に入手した情報だ。被害者についても把握済みである。
「本当に良い子だったのに、どうして殺されなけばならなかったのでしょう。
あんなに優しくて友達思いのあの子が……。私、いまだにあの子の事が忘れられません」
思い出す内に、感傷的になってしまったのか、担任の両目からは涙がとめどなく溢れ出る。
公太郎はそっとハンカチを差し出した。
担任は鼻声で謝りながら、ハンカチで目元を抑える。
「今日だって間違って宿題を一部多く刷ってしまって……。
正太郎君もさぞや、ショックだったに違いありません。
親御さんを失っただけでも辛いでしょうに、たった一人の親友まで……」
「そうだったのですか……彼は何も教えてくれませんでした」
「きっと、心配をかけたくなかったんですよ。何も言わなかったけど、今日学校にいる間じゅう、七生君の席ばかり見ていましたから」
泣きはらした目で、椎名は七生の席だった、空っぽの机と椅子を見やる。
そしてまた、生前の児童の笑顔でも思い出したのか、大きな音を立てて鼻を啜った。
〇
正太郎は息を切らして、くれあい山の麓に辿り着いた。
山といっても、標高百メートルもない。
正太郎の家から、歩いて二十分ほどの場所にある、小さな山だ。
「遅いぞ、大山。十分の遅刻だ」
七生はベンチに座って悠々と待ち構えていた。
肩で息をする正太郎につかつかと歩み寄ると、容赦なく握り拳で右頬を殴った。
う、っと小さく呻いて崩れ落ちる正太郎を蹴り飛ばし、無理矢理立たせる。
「十分遅れたから、あと九発だな。今謝れば五発で許してやる」
「お守りを返して」
痛みに呻きながらも、七生の脅しを遮った。口の中に血の味が広がる。
七生は面白くなさそうに唇を尖らせ、正太郎の足に蹴りを入れる。
またよろけて倒れる正太郎を、冷めた目で見つめた。
「口答えしたから蹴り十発追加な」
「あぐぅッ!?ぐあ、ぎゃうっ、げふっ!?」
直後、躊躇無く脇腹に一撃入る。躊躇いなく、二発、三発、四発……。
きっかり十発入った後、やっと七生は蹴りをやめて、正太郎を無理矢理立たせる。
正太郎には、抵抗する気力は、もう残っていなかった。
「返してほしいんだろ?付いてこい」
七生は首にさげた公太郎のお守りをこれ見よがしにちらつかせ、くれない山へと足を踏み入れる。
背後に幽霊男の気配を感じた。服を掴み、行くなとでも言いたげに強く引っ張る。
「駄目だ」 正太郎は独り言のように言って聞かせた。
「あれを取り返さなきゃ」
くれない山の坂道を、七生と正太郎は黙々と歩く。
背中を見せる七生は、背後から襲われようと返り討ちにできる余裕を見せていた。
草木が生い茂り、丘は春の喜びをあちらこちらに垣間見せていた。
去年の今頃は、父母と連れ立って、くれない山で花見をしたものだ。
曲がりくねった石段を登るうち、立ち入り禁止の立札に辿り着いた。
七生はそれを無視し、蹴飛ばした。
ボロボロの立札はいとも容易く地面から抜け落ちて、斜面を転がり落ちていく。
「こっちだ、正太郎」
七生は涼しい顔をして、整備されていない獣道を進む。突き出た石にどうにか手と足をひっかけて、正太郎は七生に続く。
正太郎は徐々に、疑問を覚え始めていた。七生は何故、こんな道を汗一つ流さず登れるのだろう。小学生の体力で成し遂げられる所業ではないと感じた。
けれど既にその疑問を抱くころには、正太郎は戻れない位置にいた。
急な下り坂は、ちょっと見下ろすだけで眩暈を覚えた。もし誤って落下すれば、木や岩に頭を打ちつけてしまうことは想像に難くない。
やがて開けた場所に出た。正太郎は、目の前に広がる平坦な空き地に溜息を吐いた。
くれあい山には何度も足を運んだが、こんな空間があるとは思いもよらなかった。
教室一つ分の広い空間の中心に、大きな岩が一つ転がっている。七生は歩み寄ると、岩に腰掛けた。
「なあ正太郎。正月の初詣のこと、覚えているか」
七生はそう切り出した。海馬が記憶を探り出す。
母が亡くなって数週間後のこと、正太郎は家にいた。
初詣に出ようと思ったが、父は家にいなかった。悲しみに沈む大山家は、正月を祝う余裕がなかった。
その日、どういうわけか七生は大山家を訪ねてきた。
二年もの間、いじめの時間以外に口を利かなかった彼が、初詣に行こうと誘ってきたのだ。
『ずっと家にいるだろ、お前ひとりで。暗い奴だな。暇だし来いよ』
『いやだ。どうせいじめるんだろ』
正太郎は断った。
自分をいじめる七生が誘いに来るなんて、ろくな事がないと思ったし、父を待つ義務感が勝った。正太郎は珍しく強気な態度で七生を突き放し、固く扉を閉めた。
その事に関して、七生は責め立てることをしなかった。罵ることもしなかった。
一階の窓から確認した時、七生は一度だけ玄関の戸を蹴りつけて、そのまま立ち去って行った。
「あの日さ、俺、お前と別れた後に、死んだんだ」
七生は事も無げにそう言った。
やや間をあけて、正太郎は「え」と間の抜けた声をあげた。
「なんて?」
比喩か何かだろうか、と考える。分からない。七生は能面のように表情がない。
それが異様に不気味で、破裂寸前の風船を見つめる不安感のようなものを思い起こさせた。
「母さんが、「正ちゃんと初詣にいってきなさい」って言ったんだ。
お前の母親は俺の母さんと仲がよかったから、初詣に誘ってやれって言われてさ。
仕方なく行ったんだ。でもお前は来なかった。だから俺は一人で初詣に行った」
正太郎の脳裏に、灰色の空の下、一人で神社に向かう七生の背を思い浮かべる。
あの日、正太郎に突き放される瞬間の七生の顔を、どういうわけか思い出せなかった。
「その帰りに、俺は死んだ。殺されたんだ。
どう死んだかは覚えていない。気づいたらこの山に埋められていた」
絵本を読み聞かせるように、七生は滔々と語る。
「この、岩の下に」
七生は自身が座っている岩を指さした。
彼の白い肌は、よくよく見れば生気を感じられないほど青白く、目に光がない。
冗談だと思いたかった。彼は恐がらせたいだけに違いないと、正太郎は思った。その思考を読んだかのように、七生は新聞紙を投げ出した。
「お前、親が死んでニュースとか見てなかったんだろうけどさ、俺が死んだ時はかなり大きく報道されたんだぜ。
名前は出なかったけど、皆すぐ分かっただろうさ。死んだのは俺だって」
彼は自虐的に微笑んだ。正太郎は新聞を拾い上げ、一面を読む。
カラフルな見出しで、件の殺人事件について記されている。小学四年生の男子児童の遺体の一部が発見されたと書かれてある。他の体のパーツはまだ見つかっていないらしい、とも記されている。
「でも、君は学校に来ていたじゃない」
「誰も俺に気づいていなかったさ。視えていたのはお前だけだよ、正太郎」
ますます愉快そうに七生は口角を釣り上げる。底知れぬ恐怖を与える、情の欠片も感じない笑みだ。
「本題に入ろうか、正太郎」もったいぶって、七生は足を組んだ。
「俺を殺したのは、誰だと思う?」
冷たい風が肌を突き刺す。正月の冷風と同じだ。骨の髄まで突き刺さる冷気が周りを包む。
「俺を殺して、頭をちょん切って、こんな所に埋めたのは誰だと思う?」
地が揺れ動く気配がした。
木々が正太郎を冷罵するようにざわめく。夕日は雲に隠れ、空はにわかに陰る。
授業で習った、「逢魔が時」という言葉が、脳裏をよぎった。
「お前の父親さ、正太郎」
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