グラウンドには一年生から最上級生まで、全生徒が集まっていた。

正太郎は四年生の列を探し、紛れ込む。七生の姿は見えない。

一人で帰ってしまったのだろうか。ありえる話だ。彼なら町に恐ろしい殺人鬼が闊歩していようと関係なく振る舞うだろう。

寧ろ、その殺人鬼の隣を歩いているかもしれない。

担任の後ろに続いて歩く自分たちは、まるでアヒルの親の後をついていくひよこのようだ。

やや間をあけて続く正太郎は、醜いあひるの子と自身を重ねた。違いがあるとするなら、自分は白鳥になれないことだ。

ゆっくり時間をかけて、正太郎は我が家に戻った。

ベルを鳴らしたが返事がなく、持っていた合鍵で扉を開ける。ただいまと口にすることが躊躇われた。


「公太郎さん、いませんか」


二度ほど呼びかけたが、返事がない。キッチンに書置きが置いてある。

用事があるため、しばらく家を空ける旨が書かれていた。

すっかり殺風景になったダイニングにランドセルを放り出し、床に座り込む。

粗方の荷物は全て持ち出され、ベッドの類もなくなっていた。

業者の人間が運び出したに違いない。四時までかなり間がある。服を捲ってみると、奇妙な青あざが浮かび上がっていた。


「うわ……どんだけ勢いつけて殴るのさ、あいつ……」


よほど強く殴られなければ出来ない。道理で痛むわけだ。

床に寝転がると、見慣れたクリーム色の天井と可愛らしい花をモチーフにした小さなシャンデリアが目に入る。

正太郎が、母の誕生祝いに選び、父が買ったものだ。

彼女はいたくこれを気に入って、毎日のようにはたきをかけていた。

今は掃除するものがいなくなり、埃をかぶっている。

あれを持っていけないだろうか、公太郎に相談しよう、正太郎はそんなことを考えながらまどろむ。

幽霊男がじっと、こちらを見つめている。



夢と意識の狭間に、正太郎は落ちていく。

経を唱えている坊主の声が遠くから響いてくる。

白い花に囲まれた棺には、亡き母の愛理紗の笑顔が写った写真が立てかけられている。


これは過去の記憶だとすぐ分かった。

十二月の通夜の記憶だ。母のエリサは事故で亡くなったと聞いている。

隣では父が拳を固く握りしめている。

仕事場の同僚と名乗る人達が多く参列していた。

正太郎は母のエリサが死んだその日から一度も、涙ひとつ見せなかった。

ただただ、動揺していた。

まだ十歳の正太郎は、母の死を受け入れられなかった。死んだと理解しても、リアリティを感じられなかった。

事故死の詳しい内容を、正太郎は聞かされなかった。


父は腫れものにでも触るかのように正太郎に接した。

身の回りの世話はしてくれたが、言葉をかけたりスキンシップをとらなくなった。

過去の記憶が濁流のように押し寄せる。

母が亡くなる以前の父親は、生真面目でこそあったが明るい性格で、暇さえあれば正太郎を相手にしていた。

休みの日は遊びにでかけたり、本を読んでくれたり、一緒にゲームもした。


「父さん、なんでゲームとか漫画の主人公って、火の力を使うことが多いんだろ?」

「そうさなあ」


正太郎が感じた些細な疑問も、父は真面目に、そして一生懸命に考えてくれた。

彼の職業については詳しく知らないが、古いものや歴史というものを研究する人、ということだけは、幼い正太郎にも理解できた。

彼は生真面目なので、ゲームの最中にも、難しいことを考えながらコントローラーを操作していた。


「火は、人を進化させる重要なアイテムだった。

体を温めるにしても、食べ物に火を通して食べやすくするにしても、金属を熱して武器にしたりだとか……。

 火そのものは、どんな使い道も存在する。

そして時に、思いもよらない形で人を殺す」

「うん。本で読んだ」

「火は不思議だ。形がなくて、使い道を変えれば、頼れる道具にも、恐ろしい敵にもなる。扱いづらいけれど、僕らを進化させてくれた存在、それが火だ。

 思うに、火を克服する……つまり、進化を促した現象たる火を、思いのままに支配できる人は、凄い人だってのを、感じる人が多いからじゃないかな。.....あーっ、また全滅した……」

「おとうさん、ゲームよわい」

「いいんだよ、現実のお父さんは強いから。ゲームのお父さんは弱いくらいでいいんだ」


彼の言葉は難しかったが、幼い正太郎は聞いているだけでも、なんだか賢くなって、誇り高くなれるような気がした。RPGゲームが母よりもへたくそだった、そんな父が大好きだった。

だが通夜を迎えた翌日から彼は豹変した。

会話もしなくなった。目を合わせることすらしなかった。

昔、父親は正太郎を抱き上げて、「お前は目つきが母さん譲りだな」と誇らしげに目を細めていた。おそらく彼は正太郎の目に、亡くした母を見ていたのかもしれない。



記憶はランダムに巻き戻される。

緩やかに、あの夕暮れの日へと――十二月二十四日に差し掛かっていく。父親はその日、家にいた。泥だらけになって帰ってきた正太郎を一瞥し、驚いていた。

「転んだ」と正太郎は嘘をついた。本当は帰り道に、七生に泥団子をぶつけられたのだ。けれど本当の事を言えば、父は悲しむと思った。

そうか、とだけ父は答えると、風呂に入りなさい、とタオルを寄越した。

風呂上がりに夕飯をとったはずだが、何を食べたか覚えていない。

満腹になってまどろむ正太郎の横で、父は一服していた。

エリサが正太郎を身ごもって以降、彼は煙草をやめたはずだった。一本だけ彼はセブンスターに火をつけて、ゆるゆると煙を吐きだしていた。


「なあ、正太郎。母さんは好きか」


父は出し抜けにそう聞いてきた。好きだったか、ではなく、好きか、と聞いた。

正太郎は微睡みながら、うん、とだけ答えた。睡魔が正太郎の思考に重石を乗せてくる。


「もう一度会いたいと思うか」


間をあけて、今度はそう問いかけてきた。

正太郎はぐらぐらと頭を揺らしながら、うん、と生返事した。

大きな手が正太郎の濡れた頭に乗せられ、父の膝へと引き倒された。懐かしい温かさを感じた。

西日が窓から差し込み、父のライターが卓上でオレンジの光を受けて輝く。

冬の風が街路樹の葉を揺らしていた。天気予報番組では、今週は雨の日が続くだろうとお天気キャスターが報じていた。


「父さんも会いたいよ。もう一度」


翌日、雨は降った。そして父は姿を消した。

正太郎は父を待ち続けた。買い物に出かけたか、急な仕事が入ったのだと自身に言い聞かせた。

夜になっても彼は帰ってこなかった。

急な出張だろうと再び言い聞かせた。翌日も彼は帰ってこなかった。

次の日も、また次の日も、彼は帰ってこなかった。

正太郎は家から動かなかった。

父が今この瞬間、家に戻ってきて、自分が居なかったら混乱するだろうと考えた。

父が家を出て二週間後、大山家の窓ガラスを割った男が、衰弱した正太郎を発見して事なきを得た。

入院生活の後、正太郎は児童養護施設に預けられた。

もしあの時、父の問いに違う答えを返していたら、まだ父は隣にいてくれただろうかと考える。答えはでない。


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