『泣く石膏』『赤く染まるプール』『下りの階段』

「……」


 少し呆けてしまう。まあまあ長く一緒にいるが、節分が俺と仲がいいと思っていたとは初めて知った。戸惑いはあったが、こんなわけもわからない状況に置かれているのだ。力になると言ってくれたのは正直嬉しかった。


 などと感じ入っている暇は俺にはなくて、今度はヤツが話しかけてくる。


「きしゃしゃしゃしゃ! 浮かない顔してるっスねぇ~! ど~したんスか!? 何があったんスかぁ~!?」

「……」


 村主照夫。ヤツが菖蒲を連れてやってきた。……こいつ、神経を逆なでする天才なのか? 俺は視線を外しながら答えた。


「……またこれが机の上にあった。それでいい気分なワケないだろ」


 俺が不機嫌な理由を直接俺の口から聞けて満足だ、と言わんばかりに「きしゃしゃ」と愉快そうに笑う村主。その様子が癪に障ってギロリと睨みつけるが……。効果はないようだ。憤る俺を見て、村主は更に笑みを深めていた。


「そうっスかぁ! そうっスよねぇ~! 七不思議に呪われてるんスもんねぇ~! きしゃしゃしゃしゃ!」


 ああ、もう! 本当に癇に障る! こいつ、他人事だと思って……! 俺たちと同じことを体感してみろっていうんだ! それでも笑えるのかって問い質したい! 笑えなくなりそうなら笑うじゃない! そこまで考えた上で発言してんだろうな!?


「……!」


 いけない。落ち着け。ここで怒ってもどうにもならない。むしろ、双子の妹の立場が悪くなるだけだ。暴力的なお兄さんがいるって陰で叩かれて。ミキにまた、そんな思いをさせていいわけがない。

 俺は一度、視界にミキの姿を収めたあと、深呼吸をして怒りを身体の外に拡散させた。


「な~んだ。煽れば殴ってくるかと思ったんスけど、つまんないっスねぇ~。殴ってきたら菖蒲に返り討ちにしてもらおうって思ってたんスけどね! なんてったって菖蒲は無敗の一匹狼『怪物』なんスから! (……そっちの方が楽だったんスけど、しょうがないっスね……)」


 なおも強気の口調で言ってくる村主の態度に俺は辟易した。最後の方はぼそぼそっと言っていて、なんて言っていたのかよく聞き取れなかったが。

 ……というか、わからないのは菖蒲の存在だ。そんなに強いのならどうしてこんな小物感漂うヤツの下についているのか? まったくもって理解に苦しむ。なんのメリットがあるというのか。仕える主を間違えているとしか思えないぞ、まったく……。


 俺が菖蒲の選択を訝しんでいると、村主が切り出した。


「っと、それは置いといて。実はさっきの見ちゃってたんスよねぇ~! あのオタクくんと話してるとこ! なんスか!? 『自殺する少女』を見たんスか!? それとも『幽霊の咆哮』!? はたまた『消える人影』!? どれを体験したんスかぁ~!? まさか全部だったり!?」


 「全部」。そう言われた瞬間、身体が意図せずに跳ね上がった。反応してしまった。それは、それが正解だと相手に知らせているということにほかならなかった。

 村主はニマァと嫌な笑みを浮かべる。


「きしゃしゃしゃしゃ! 全部! 全部っスか! そりゃあついてなかったっスねぇ~! 七つの内四つも、もう体験しちゃうなんて! あと三つ! 『泣く石膏』! 『赤く染まるプール』! 『下り階段』! それを体験しちゃったらもうお終いっスよ~!? 最短記録の二日でいなくなるなんてこともあるんじゃないっスかねぇ~!?」


 調子に乗った村主は声高々に、それでいてまるで罵るようにそう発した。クラス内がざわめくのも気にした様子は微塵もない。しかしそれは、注目されているのに気にならなかったという点において、俺も似たようなものだった。

 言われて初めて気がついた。これは七不思議で、七つ全てを体験してしまうと俺の身によくないことが降りかかるということに。……眉唾かもしれない。いや、オカルトというものは事実確認ができないものがほとんどなのだから、誰かが他人を怖がらせるためにつくった創作物である可能性の方が遥かに高い。そう解釈しているのだけれど……。昨日、立て続けに起きた理解不能な出来事の数々が、これは七不思議の仕業だと言っているような気がした。

 震える。そんなわけないと言い聞かせているのに、身体が勝手にこれは「七不思議の仕業」だと決めつけたみたいに怯えて言うことを聞いてくれない。身体を押さえようと俺が奮闘していると、ヤツが口にした。


「甘花も今日、五日目できえちゃったみたいっスっからねぇ~!」


 ……いや、ちょっと待て。それはおかしくないか?



――まだ今日は学校が始まっていないというのにどうして甘花がいなくなったことを知っているんだ?――



 彼のクラスに行って確かめてきたのか? それで前の被害者三人と同様行方不明になってしまったとどうして言い切れる? ただ休んでいるだけかもしれないだろ?


 あまりにも知りすぎている。情報の取得が早すぎる。他の生徒たちは「甘花も消えたって!?」とか、「き、今日!? これで四人目か……!」などと口々に言っているというのに。

 怪しい。思えば、どうしてこいつは全ての七不思議を知っているのか? それも自らが体験したかのようにその知識を披露していた。もし、本当にそうなら、こいつは行方不明になっているはずだ。『白菊の花』の呪いによって。でも、そうなっていないということは、やはり七不思議に人を消息不明にする力なんてない、ということなのでは……?


 質したかった。しかし、無情にもそこに学校の開始を知らせるチャイムが鳴り響いた。教師も入ってきてしまい、聞ける状態ではなくなってしまった。

 教師――今日も担任ではなく学年主任の雛菱――に着席を促され、始まるホームルーム。俺は村主に説明を求めたくて仕方がなかった。



 ホームルームが終わると、一限目は雛菱先生の担当する授業だったためそのまま移行する形になった。


 それなので、一限目と二限目の休み時間に村主に聞きにいこうとしたのだが、その時間になって思いもよらない人物に捕まることになる。無敗の一匹狼にして『怪物』と呼ばれる村主の側近、菖蒲尚武に。

 村主に話し掛けようとしたその手前で廊下に連れ出された俺とミキは菖蒲に詰め寄られた。


「……話がある」


 そのつくられた怪物のような顔が間近に迫る。……おい、やめろ。ミキが怖がってるだろうが。隣で縮こまってふるふると震えていたミキの前に俺は立ち塞がった。とりあえず眼は飛ばしておく。

 すると、意外にも菖蒲は謝ってきた。


「……いや、悪い。敵対したかったわけじゃねぇんだ。本当に、話がしたかっただけなんだよ」


 俺は面食らった。村主に問い詰めようとしたタイミングで、邪魔するように引っ張り出されたものだからてっきり村主に厄介払いを命じられたのかと思っていた。けれど、そうではないらしい。菖蒲は菖蒲の意思で、自分に必要なことだと判断して俺たちを連れ出したようだ。

 ただ、俺には菖蒲が俺と何を話したいのかがさっぱりわからなかった。


「話? なんか話すことあったか?」


 その答えは、俺の予期していないことだった。


「……ああ。お前、怪異を体験したんだろ?



――『消える人影』、どこで消えた?――」



「……ほぁ?」


 素っ頓狂な声が漏れ出た。菖蒲が、何を知りたいのかが理解できなくて。……いや、なんでそんなこと知りたいんだ? こいつ、七不思議に興味でもあるのか? 見た目からして関心なさそうなんだが。……こういう決めつけは良くないか。

 なんて考えていると、またその顔を寄せられた。


「……で、どうなんだよ?」


 ……だから、やめろっつってんだろ、それ! お前の顔、怖いんだよ! ミキが涙目になってぷるぷるしてんじゃねぇか!

 俺もまた眼光を鋭くしてぶつける。


「あ゛? そんなの聞いてどうするんだよ?」


 すると、また意外なことに菖蒲は頭を下げてきた。


「……頼む。教えてくれ」


 その様子は切羽詰まっているようで。何か事情がありそうだ、と感じた。もしかすると、無敗で最強だとされるこいつがあんなのに仕えている理由がそこにあるのかもしれない、そう思えた。


「……一階の西階段付近だ。教室棟から特別教室棟に向かっていくあとを付けてたが、階段横の通路への角を曲がったところで見失った」


 俺は話した。菖蒲が求めたことを。教えなければならない、そんな気になったんだ。


「……! 恩に着る!」


 俺から得られた情報に、菖蒲は顔を引き締めていた。何かを決意したような、まるで死地へと赴かんばかりの覚悟の籠った表情だった。その中には抑えられないほどの怒りも滲み出ていた。


 俺たちから離れて、廊下を行こうとするその後ろ姿に、俺は気づいたら呼び止めていた。


「お、おい、菖蒲! 何があったんだよ!?」


 ……わからない。どうしてこんな行動を取ったのか自分でもさっぱりだった。けれど、このままこいつを行かせてしまったら、もう二度と戻ってこないような、そんな予感がした。

 何かあったに違いない。そうでなければこんな、大きな怒りと底知れぬ悲しみが複雑に絡み合うような雰囲気を醸し出しなんてしない。彼の話を聞きたかった。

 けれど――、


「……お前も気を付けろよ、御鏡ミカガミ


 最後にかけてきた言葉は、俺たちへの、ミキへの忠告。それを伝えた菖蒲は何も打ち明けることなく廊下を歩いて行ってしまった。


 俺は、俺たちはしばらくの間呆然としていた。


「お、お兄ちゃん……!」

「……っ!」


 ミキの声によって我に返る。その時には既に、廊下に菖蒲の姿はなかった。

 もう本当に、この学校には一体何があるというのか。わけのわからない現象が起こりすぎている。菖蒲も、村主のように俺たちの不幸を楽しんでいるものだと捉えていたのに、「気を付けろ」などと言ってきて意味がわからない。わからないことだらけで気持ち悪かった。


 けれど、菖蒲は何かを知っている。それは確実で。こうなったらあとを追って、洗いざらい吐いてもらおう。俺たちの快眠のために。


 完全にはぐれてしまったが、行き先には心当たりがある。西階段の一階。むしろ、そこしかないだろう。

 俺たちはそこへ向かおうとした。しかし、呆けていた時間は思っていたより長かったようだ。



――キーンコーンカーンコーン――。



 授業開始のチャイムが鳴ってしまった。俺としては、ことは一刻を争うので無視しようとしたのだが、今から受ける授業の担当の先生とばったり出くわしてしまい、教室に連れ戻されてしまった。


 その二限目の授業中、菖蒲が帰ってくることはなかった。



 二限目と三限目の間の休み時間。俺とミキは菖蒲を探しに一階西階段付近を訪れていた。しかし、菖蒲を見つけることはできなかった。一応、その周りにある職員用の男性トイレや、体育館へ抜ける通路、特別教室へ向かう渡り廊下、中庭にも目を向けてみたのだが、どこにもいなかった。どこへ行ってしまったのか? 俺たちの推測は外れていたのか? と頭を悩ませていると、背後からいきなり話し掛けられる。


「あっ、君! ちょっといいですか?」


 驚いて俺は振り向いた。さっきまで周りには俺たち以外誰もいなかったはずだから。声のした方を見た、そこには、俺たちの担任の代理で学年主任を務める雛菱の姿があった。先生の姿を確認した瞬間、ほんの一瞬だけ見えている景色が暗くなったように錯覚した。……ん? なんだ、今の?


「これを美術準備室まで運んでくれますか? お願いします」


 感覚の異変に戸惑っていると、先生が手にしていたものを差し出してきた。それは三十センチ四方の木箱。思案に耽っていたところに突きつけられたため、咄嗟に受け取ってしまった。


「えっ!? あの、ちょっと……!」

「私はこれから用事がありますので助かります。これは美術準備室の鍵です。それは石膏像ですので、準備室に入ったら箱から取り出して似たようなものが纏めて置いてあると思いますのでそこに並べておいてください。木箱は邪魔にならないところに置いていただければ結構です。終わりましたら鍵を職員室まで持ってきてください。お願いしますね」


 そう告げて、先生はささっとどこかへ行ってしまった。たぶん、方向からして職員室なのだと思うが。……まるで嵐のような教師だったな。パッと現れたと思ったら、サッといなくなって。


 ……それにしても、どうしようか、これ。俺たちは俺の手元にある木箱を見つめた。……まあ、押しつけられる形ではあるが受け取ってしまった手前、頼まれたことを放棄するという選択肢は取れないよな。


「しょうがない。行くか……」

「うん……」


 俺たちは仕方なく特別教室棟四階の隅にある美術準備室へと向かった。


 特別教室棟四階に辿り着き、美術準備室の前までやってきて鍵を開け、中に入る。そこは少々埃っぽく、パレットや絵の具、筆などが棚の中に所狭しと詰められていた。目当ての石膏像たちは扉の位置からは最も遠くにある、腰くらいの高さのラックのようなものの上に並べて置かれていた。


「あった、あった。これだな」


 俺はラックの近くの台に木箱を置いた。中身を取り出して並べて置こうとしたのだが、どうにもスペースが合わない。追加すると決まっていたのなら予めつくっておけよ、と思いながら、元々あった石膏像を寄せて場所を確保した。そして、いざ取り出そうとした時だった。


「ね、ねえ、兄さん? なんか、ちょっとおかしくない?」

「ん?」


 ミキがそんなことを言い出した。俺は美術に疎いので感じ取れなかったが、彼女は違和感を覚えたらしい。ミキが何に違和感を抱いたのか確かめたくて、中に入っていた石膏を持ち上げてみる。

 刹那――


「――んなっ!?」


 俺はそれを放り捨てていた。見つけてしまったのだ。それの異様な部分を。


 ゴロンと床に転がる。その正面が俺たちの方を向いた。


「「――ひぃっ!?」」


 悲鳴を上げる。揃っていた。俺たちの声は。だってそれは、像というにはあまりにも生々しくて。


 まるで悲痛な叫びの一瞬を切り抜いたように象られた姿。


 そして目元には、あり得ない現象。



――流していたのだ、赤色の涙を――。



 そういえば、触れた時に妙な硬さだと感じていた。石膏にしては柔らかいのではないか、と。



――もう、白く塗りつぶした本物の生首にしか見えなくて――。



 やばい……!

 やばい、やばい、やばい、やばい……っ!


 俺はミキの手を引いて美術準備室を飛び出した。鍵も木箱も床に転がった石膏像もそのままにして。並べるとか、鍵を閉めるとか、怖すぎてそんなことをしている余裕なんてなかった。


 職員室に駆け込んで雛菱先生に事情を尋ねる。「あの像はなんなのか?」と。さっきあったことも話したが、先生は首を傾げるだけだった。「私はわからない」、それが先生からの回答だった。「いや、先生が持ってたんだろ!」と追及したかったが、それをまたチャイムに邪魔されて教室に戻るように言われてしまった。



 それからずっと考えていた。さっきの休み時間に体験したあれは七不思議のひとつ・『泣く石膏』だったのではないか、と。そうだとしたら、俺は、七不思議を五つ体験してしまったということになる。普段なら確証のないことなんて信じない。七不思議なんてその最たるものだろう。しかし、ここまで重なるとどうしても意識してしまう。俺は本当に呪われているのではないか、という言葉が頭の中にちらついてしまう。


 そんな思考を振り払おうとしても振り払えず、気づけば四限目の授業が終わっていた。


 俺を正気に戻らせたのはクラスメイトの誰かのこんな言葉だった。



――「てかさ、菖蒲もいなくなったけど、村主も消えたよな? 二人とも二限目からいなかったんだっけ? 先生は早退とか言ってたけど、どうなんだろうな?」――



 ……いなくなった? 菖蒲はおろか村主も!?


 俺はガタンッと音を立てて立ち上がり、辺りを見渡した。言われていた通り、教室内に二人の姿はなく……。

 ミキに確認を取るが、彼女も俺と同じような思考に囚われていたらしく、菖蒲と一緒に村主もいなくなっていたことを俺と同じタイミングで知ったという。

 時刻を確かめて、昼食の時間になっていることにそこで気づく。誰かは知らないがあのクラスメイトの勘違いで、二人は昼食を採りにいっただけ、という可能性が消えたわけではない。

 俺とミキは菖蒲、それに村主を探そうとして教室を出た。そこへ、


「な、なあ!? あれって、あんなだったか!?」


 聞こえてくる興奮気味の声。その人物がいるのは廊下の東側だった。その人は窓から身を乗り出して更に東側を見ていた。その視線の先にあるのは――


 ……やめておけばよかった。

 心の中でずっと警鐘は鳴らされていた。

 本能は「行くな」と告げていたんだ。

 ミキも「やめた方がいい」と言っていたと思う。

 それでも。

 身体は勝手にその方へと向かってしまう。

 それを見にいってしまう。

 確認しないなんてできなかった。

 身の安全を保障したかった。


 その人と同じように窓から身を乗り出して覗いた先。

 そこにあったのはプールだった。



――水の色が真っ赤に変わり果てた――。



 バタンッ! と。尻もちをつく。制服がよれてしまったけど、気にしてなんていられなかった。ミキの心配する声が凄く遠くから聞こえる。

 あれは紛れもない。



――七不思議のひとつ『赤く染まるプール』――。



 見てしまってから酷く後悔した。これで六つ目。俺に残された猶予はあと一つ。

 震える。息が乱れる。視界がぶれる。

 目に見えておかしくなっている俺に声を掛けてくれる人たちもいたが、何を言っているのかは聞き取れなかった。


 なんとか立ち上がる。時間をかけてゆっくりと。足はふらふらしていた。

 帰りたかった。もう学校にはいたくなかった。ミキからも離れないと……。

 あと一つ体験してしまったらどうなるかわからない。


 信じたくない。呪われているなんて思いたくもない。けれど、あと一つ、あと一つで俺の運命は大きく変わってしまうかもしれない。七つ目を体験して何もないならそれでいい。けれど、もし、何か起きてしまったら……。

 動揺は激しさを増していく。落ち着くには家に行くのが一番だと考えた。七不思議は学校で起こることなのだから。ここから離れられれば安泰だ、と。

 実行しようとして、階段に向かって、ふと足を止めた。思い出してしまったのだ。

 最後の一つが――



――『下りの階段』と呼ばれているということを――。



 後退る。……まずい。恐怖してしまった。ここは三階。階段を降りなければここから出られないというのに……っ。


 帰れない、帰れない、帰れない、帰れない……!


 俺はパニックに陥った。足に力が入らなくなってその場に座り込む。頭の中が真っ白になって、もう何も考えられなくなっていた。


 その時。


「だ、だだだだ、大丈夫かい!? み、御鏡!」


 視界に入ってきた小太りの少年、節分柊。彼は俺を引っ張り起こし、肩を貸してくれた。人に触れたからだろうか。恐怖が和らいだ、そんな気がした。

 ミキはまだ彼のことを警戒していたが、俺を運んでくれているため、それほど悪い人物には見えない。


「……節分、ありが――あれ? どこに行くんだ?」


 俺を担いだ節分はそのまま俺たちの教室を通り過ぎていく。ちょっとした違和感が生まれた。


「ほほほほ、保健室に!」

「……そうか。悪いな……」


 節分は保健室を目指していたらしい。納得した。疑ってしまったことに少し後ろめたさを抱えた。だから、素直に節分に運ばれていた。ただ、この時の俺の思考能力は恐怖の所為で上手く機能していなかった。普段の状態なら気づけたはずなんだ。



――節分は保健室を目指してなどいない――って。



 そのことに気づいたのは、いや、教えてもらったと言った方が正しいな。西側の階段を降りている時にミキが言及して、俺はようやくおかしさを理解した。


「……ね、ねえ、兄さん。保健室に行くならさっきの階段の方が近いんじゃないかな……」


 その言葉を受けて徐々に思考がクリアになっていく。

 保健室は一階の東側階段付近にある。俺たちは東側にいたのだからそのまま目の前にあった階段を使って一階に下りれば最短距離で辿り着けた。わざわざ西側へ向かう必要はなかった。


 じゃあ、なんでこいつは西側に向かっている? 保健室じゃないなら、俺は一体どこに運ばれて……?


 答えは出せぬまま、考えていたら一階が見えてくる。ふと、ここで男性教師が姿をくらませたことを思い出した。

 そんなことを考えていると隣から、


「ちょっ!? 何を――ッ」


 ミキの慌てる声。その声は最後まで発せられることなく、小さくなって途切れた。

 見ると――


「――ミキ!?」


 階段の踊り場で俯せで倒れている彼女の姿。何があったのか考える間もなく、


「――っ!?」


 口に当てられた布のようなもの。その瞬間、思考が一気にぼやけていった。

 霞む前、最後に捉えた光景は――



――気持ちの悪い笑みを浮かべた節分の姿だった――。



 ……ああ、くそっ。ミキの感覚を信じていればこんなことには……っ。


 膨らむ後悔の念とは裏腹に俺の意識は薄れていく。

 何かの外れる音を聞いた直後、俺の意識は完全に途切れた。


……………………。

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