それぞれの事情 その九・壊れた者
【一人称単数】には兄がいました。
双子の兄です。
彼はなんでもできました。
頭が良くて、スポーツもできて、いじめられそうな【一人称単数】を守ってくれて、ゲームも上手くて、恰好良くて。
全てにおいて優れていた才能の溢れる存在。
それが【一人称単数】の兄でした。
……【一人称単数】とは大違いです。
【一人称単数】は顔こそ兄に似ていましたが、他は似ても似つきませんでした。
物覚えは悪く、運動音痴で、気弱なために誰かが仲間外れにされていても助けに行けず、ゲームは下手。
お母さんのお腹にいる時に、兄に栄養を奪われてしまったのではないか、なんてよく言われました。
優秀な兄とは比較できないほどに、才能を得られていなかった存在。
それが【一人称単数】でした。
【一人称単数】は兄のことが嫌いでした。
……いいえ。
嫌わなければいけない、と自分に言い聞かせていました。
【一人称単数】は度を越えたお兄ちゃんっ子で。
幼い頃からずっと兄にくっついて行動していて。
将来は兄と結婚するのだと本気で思っていて。
けれど、両親に諭されました。
「兄妹で結婚はできない決まりになっている」と。
この国には、血縁者と結ばれていいという法律はありませんでした。
【一人称単数】は抱いてはいけない思いを抱えてしまっていたのです。
いけないことはしてはいけない。
だから【一人称単数】は、彼のことを嫌おうと努めました。
兄以上に魅力的な異性なんて【一人称単数】には考えられなかったけれど。
けれど、そうしないと、待っているのは破滅でしたから。
心がどうにかなってしまいそうでした。
本当は真逆なのに、冷たい態度を取らなければいけないなんてつらくて、つらくて堪りませんでした。
【一人称単数】のこの行動の所為で兄に嫌われてしまったらどうしよう――そう想像するだけで目に熱いものが込み上げてくるのです。
それに相反して、「兄に嫌われた方が破滅せずに済む」、「さっさと嫌われた方が楽になれるかもしれない」という考えも持っていて。
【一人称単数】の心はぐちゃぐちゃになっていました。
小学校に入学してしばらく経ったある日のことです。
【一人称単数】はいじめられそうになっていました。
幼稚園が【一人称複数】一緒だった女の子が小学校に上がってできたお友だちと嫌なことを話していたのです。
――『【
彼女らはそのように陰口に収まらないほどの大きな声で言っていました。
その顔は笑っておらず、真剣で、言外には「お前みたいなやつがあの人に近づくな」という意味が込められているのがひしひしと伝わってきました。
でも、【一人称単数】は兄妹なのです。
近づかないなんてできるはずがありません。
それに【一人称単数】も、「結ばれないのだから、せめて、普通の兄妹くらいには」と、そのくらいの関係性に収まろうと考えていたため、彼女らの圧力には屈しませんでした。
けれど、それが、仇になりました。
――【一人称複数】と同じ幼稚園出身の女の子が働きかけたことで、クラスの女子全員が敵になってしまったのです――。
女子が敵になると、複数人の男子もそれに従って【一人称単数】の悪口を言うようになりました。
全員が全員、【一人称単数】のことを「兄ができるのに、残念な妹」と馬鹿にしたわけではありませんが、【一人称単数】が学校に居づらさを覚えたのは事実です。
……そんなこと、言われなくてもわかっているというのに。
改めて言葉にされると、本当にそうなんだ、と実感させられます。
現実を叩きつけられて、【一人称単数】は打ち
何度も言われる「残念な妹」という罵倒に、【一人称単数】は到頭耐えられなくなってしまいました。
部屋で泣きじゃくった【一人称単数】を見て、兄は不安そうに問い掛けてきました。
「何があった?」とか「お兄ちゃんがいるから、大丈夫だからな」とか、優しい口調と優しい手つきで頭を撫でながら言われて、【一人称単数】は学校であったことを吐露してしまいました。
すると、兄は【一人称単数】を抱きしめて「お兄ちゃんに任せろ」と囁いたあと、血相を変えて部屋から飛び出していってしまったのです。
それから
【一人称単数】は困惑させられました。
別に謝ってほしかったわけではないのです。
嫌がらせが止めばそれでよかったのですから。
こんなことをさせて変に反感を買ったらどうしよう、そればかりが【一人称単数】の頭の中をぐるぐると回っていました。
彼らに恨みを持たれないかどうか、が不安材料でした。
それと、こんなに多くの人が土下座をしている姿は異様で、痛々しく見えて仕方ありませんでした。
そのため、すぐにやめてもらいました。
「何をやっているの!?」と兄に問うと、
「お前にあんな顔をさせたのが許せなかった」と返してくるのです。
そして、その許せない者の中には兄自身も入っているらしく、彼も深く頭を下げてきました。
「そんなこと求めてない」って言っても兄は頭を上げてくれません。
こうなると兄は頑固でした。
許されるまで自分を責め続けるのです。
【一人称単数】は溜息をつきました。
呆れてものが言えなくなりましたが、それでも兄が【一人称単数】のためにやってくれたというその気持ちは受け取ることができました。
それがどうしようもないほどに嬉しくて、【一人称単数】の頬は緩んでしまいました。
兄が暴走したあの一件から【一人称単数】は孤立するようになりました。
ですが、兄がいてくれたので、寂しいとは感じませんでした。
むしろその兄が、【一人称単数】がどんくさい所為で恐れられるようになってしまったことに負い目を感じてならないのです。
兄もあの一件以降、【一人称単数】同様に孤立していました。
【一人称単数】は、【一人称単数】の所為で友だちがいなくなってしまった兄に寂しい思いをさせてはならない、と強く思いました。
兄が悲しくならないようにしっかり支えよう、と心に決めました。
と、いうのは建前で。
兄の近くにいていい言い訳を、【一人称単数】は求めていただけなのかもしれません。
年月が過ぎても【一人称複数】には友だちができず、性差が発現する小学五年生になった頃。
この頃から男女の兄妹は互いに敬遠し合うようになることが多いということを【一人称単数】は聞きました。
もしかしたら【一人称複数】もそうなってしまうかもしれない、と【一人称単数】は危惧していました。
兄は【一人称単数】の元から離れていってしまうかもしれない。
【一人称単数】も兄のことを嫌いになってしまうかもしれない。
それはすごく嫌でした。
想像するだけで胸がズキンと痛むほどに。
けれど、そうなってしまったら仕方がありません。
その時にはもう嫌っていて、なんとも思わなくなっている可能性だってあるわけですから。
まだ兄のことを思っているのに、向こうから離れられてしまったとしたらつらいですが、兄には兄の考えがあるため、もしそうなってしまったら諦めるしかない――【一人称単数】はそう腹を括りました。
ところが、【一人称単数】が不安視していたことは起こりませんでした。
兄が【一人称単数】から離れていくことはありませんでした。
それは、友だちがいないというあまり喜ばしくない要素が作用した結果だとは思うのですが、そうであっても、兄は【一人称単数】の傍にいてくれました。
一方で【一人称単数】はといえば、兄のことを嫌いになるどころか日を追うごとに好きになっていったのです。
以前から頼もしかったのですが、肉体的にも若干頼もしくなったからでしょうか?
その変わった姿で気に掛けてもらえると、どうしても意識してしまって仕方がありませんでした。
漏れ聞こえてくる周りの声では、兄は「低身長」、「華奢」、「女々しい」などと評価されていましたが、彼らはまったくもってわかっていません。
兄の変化に気づけないなんて、何を見ているのか、と小一時間問い詰めたい気分でした。
困っている時に手を差し伸べられ続けること二年。
中学生になった【一人称単数】は到頭感情を抑えきれなくなりました。
し、仕方ないじゃないですか!
いつもいつも優しくされて、好きだという思うが溢れてしまったんです。
【一人称単数】は兄の手を取りました。
すると、伝わってきたお兄ちゃんの熱に、【一人称単数】は得も言われる快感を覚えたのです。
その日、【一人称単数】は兄の手を手離せなくなりました。
兄を困らせてしまいましたが、【一任所単数】は自分の意思だけでは引き離すことができませんでした。
それから【一人称単数】は兄のぬくもりを求めてちょくちょく手を繋ぐようになりました。
世間の目を考えれば控えるべきことなのは理解していたのですが、兄の手を握っている時のあの安心感を知ってしまったら、やめられなくなってしまったのです。
兄は【一人称単数】が求めるたびに困った表情になってしまいましたが、それでも、優しい彼は【一人称単数】の願いを聞き入れてくれて、拒むことは一回もしませんでした。
幸せな日々でした。
本当に、幸せな……。
――あいつが現れるまでは――。
兄との五回目の幸せな下校時間を味わった翌日のこと。
【一人称単数】に地獄が待っていました。
何者かに見られている登校中の通学路。
なくなる学校においてあった上履きや教科書類などの私物。
体育の時間や部活中に行方不明になる靴下や下着。
帰ってからは三十分置きになるスマホの着信音。
無言電話。
家の中にいるのに感じる視線。
家の中から出てきた盗聴器。
送り付けられたよくわからない液体が入った容器。
ポストに入っていた【一人称単数】の盗撮写真。
――【一人称単数】はストーカーされていました――。
毎日があんなにも幸せだったのに……。
そんなことがあってからは、何もかもが怖くて堪りませんでした。
全てが信じられなくなって、自室に閉じこもって。
あんなに好きだった兄にさえも、怯えてしまう自分がいて。
けれど、
兄は優しく【一人称単数】の心を解してくれました。
時間をかけてゆっくりと【一人称単数】を立ち直らせてくれたのです。
【一人称単数】が自分の部屋から出られるようになった中学二年生の春の朝。
兄は「犯人の目星はついた」、「今日決着を付けてくるからもう心配はいらない」と【一人称単数】に向けて言い、学校へと向かいました。
兄の笑顔に、【一人称単数】はまたしても救われました。
【一人称単数】はあの笑顔に何度助けられたかわかりません。
【一人称単数】はその日、兄が学校から帰ってくるのをリビングで待っていました。
ここまで甲斐甲斐しく親身になって付き添ってくれたというのに、お礼を伝えられていなかったのです。
だから、兄にちゃんとお礼がしたくて、【一人称単数】はずっと時計と睨めっこしていました。
そして夕方。
兄から連絡が入りました。
【一人称単数】は嬉々として第一声が、いつ帰ってくるのか、その確認になってしまいました。
しかし、
――『【固有名詞】……! 逃げ、ろ……っ!』――
スマホから聞こえてきたのは息も絶え絶えになった兄の声。
それはとても苦しそうで。
けれど、要件をはっきりと伝えようとしていて。
ただならぬ状況だと察した【一人称単数】は問い質しました。
――何があったのか。
――大丈夫なのか。
――今、どこにいるのか。
兄からの返事はありませんでした。
ただ、最終下校時間を知らせる十八時のチャイムの音が大きなボリュームで響いてきて。
学校に居る――【一人称単数】は悟りました。
兄に確認しようとしましたが、その寸前で――グシャンッ! という何かの壊れるような音が耳を
【一人称単数】は外に出るのが怖かったですが、大好きな人が苦しんでいることに居ても立ってもいられなくなって家を飛び出しました。
向かった先は学校。
そこで何かあったに違いありません。
【一人称単数】はない体力を無理やりにでも捻出させて学校へ行き、閉まっていた裏門をよじ登って校内に入りました。
【一人称単数】はパニックに陥りながら兄を探しました。
そして、校舎裏で見つけたんです。
兄の携帯を。
携帯は無事だったのですが
――落ちていたのは何故か、赤い液体でできた海の上でした――
……え?
なに、これ?
これって、血?
あれ?
兄さんは?
どこ?
どこなの、にいさん……?
【一人称単数】は辺りを見渡しましたが、その姿は見当たりません。
電話をかけてみると、着信音はすぐ近くから聞こえてきて。
音を張っていたのは海に浮かぶ携帯――。
『――い、いやああああああああっ!』
これが兄の物ならば――。
すぐに思い至ってしまいました。
兄が――【一人称単数】のすぐ近くから消されてしまったのだ、と。
【一人称単数】は絶叫し、それから意識を失いました。
いない。
兄がいない。
近くにいない。
【一人称単数】のお兄ちゃんがいない。
【一人称単数】の頭の中をぐるぐると回り続けるこれらの言葉。
【一人称単数】はもう、他のことなど考えられなくなっていました。
兄は遠くへ行ってしまった。
すごく遠くへ。
もう会うことは叶わない。
……あ。
【一人称単数】もここから飛び降りればまたお兄ちゃんに会えるかな?
そう思って、【一人称単数】はいつの間にか入院させられていた病室の窓からこの身を投げ出そうとしました。
その時、
扉が開いたのです。
音のした方を向くと、
そこには
――『何してんだよ、【固有名詞】』――
――いなくなったはずの兄が立っていました――。
【一人称単数】は驚いて近づきます。
もう二度と会えないと思っていました。
けれど、兄はそこにいました。
兄の顔。
兄のニオイ。
兄のぬくもり。
間違いなく兄はそこにいたのです。
死んだと思ったのは【一人称単数】の勘違いでした。
【一人称単数】は抱きついて泣きじゃくりました。
兄は微笑んで【一人称単数】の頭を撫でてくれました。
……ああ。
この幸せを失わなくてよかった。
【一人称単数】は心から、心から安堵しました。
そして、【一人称単数】は高校生になって、事件に巻き込まれることになります。
―――――――――――――
「だ、大丈夫だ! 【固有名詞】! 俺が、お兄ちゃんが何とかしてやるからっ!」
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