それぞれの事情 其の五・正しき者
……はぁ。
……どうしようもない。
……本当に溜息が出る。
――この世は腐っている――。
それが【一人称単数】の認識だった。
【一人称単数】は裕福な家に生まれた。
正直に言ってお金持ちだったと思う。
家は豪邸だったし、庭にはプールなんかもあったりして、他にもいろんな土地を所有していて。
けれど、どんなに物が裕福でも、近くにいる人の心はみすぼらしかった。
着服をしているのに情報を操作して罪を他人に擦り付けることが常態化している政治家の父。
その姿を見て、傍若無人に好き勝手遊び歩いている厚顔無恥な年の離れたニートの兄。
家にあるお金を無駄なことに湯水のように消費していく浪費家の母。
……最悪だと思った。
彼らと血が繋がっている【一人称単数】もこうなってしまう未来があるかもしれない、と思うと反吐が出そう。
これは、【一人称単数】の頭を悩ませる最大の頭痛の種だった。
そういえば。
【一人称単数】の家の近所にはボロボロの家があった。
そこには【一人称単数】と同い年の子が済んでいるとのことだった。
なんでも親が駄目駄目な所為で、その子が生活を支えるために数百メートル先の商店街に頼み込んで働かせてもらっているらしかった。
流石に幼い子に給金を与えるのは問題があるため、売れ残った野菜なんかを分けてもらってるようだったが。
……なるほど。
まったく、勤勉なものだ。
家族に恵まれていないという点で、その子には親近感が持てた。
その子の性質はうちの家族にも見習ってもらいたい。
特に愚兄あたりにはその子の爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだと感じた。
【一人称単数】はその子に興味を持っていた。
だから、父が入学させようとしていた超エリートの小学校の話を蹴って、【一人称単数】はその子と同じ一般的な小学校に入ることにした。
――本当に、この世は腐っている――。
それは、小学校に入って暫く経った頃に【一人称単数】が抱いた感想だった。
あの子が虐められ出したのだ。
発端は、『親がクズだから』。
……はぁ。
何、その理由?
それは親の問題であって、この子の問題じゃないでしょう?
しかも、発言者は自分で考えていなかった。
――『お母さんが言ってたから』。
……思考の放棄。
鵜呑みにしてるだけ。
その真偽を確かめようともしない。
【一人称単数】は発言者に指摘しようとした。
しかし、
その前に、あの子が前に出てきた。
そして、強く否定した。
『自分は違うんだ!』と。
『あいつらと一緒にするな!』と。
……ふむ。
この子は自己の主張ができるようだった。
少なくてもこの発言者よりも何十倍、いや、何百倍かは好感が持てる、そんなことを考えていたら、
――『うわー! クズだーっ!』――
そんな声が教室に
言ったのは発言者。
こいつがそんなことを言うものだから、追従する者たちが現れた。
――『ああいうのがクズって言うのかー!』
――『クズが怒ったー!』
――『逃げろー! クズを
――『クズ怖ーい!』
誰も考えていない。
便乗しているだけ。
空気は最悪となった。
皆で寄って集ってその子を貶し始めた。
駄目だこいつら、早くなんとかしないと――いや、もう手遅れか。
あの子を除け者にしようとする「無自覚な悪意」に、【一人称単数】は虫唾が走った。
【一人称単数】はその子に話し掛けようとした。
けれど、その前に、その子は教室から飛び出していってしまった。
ちょうど担任の先生が来たところで、先生はその子を追いかけていった。
教師が話を聞きに行ったのなら、この問題の解決にはそれほど時間は要さないかもしれない――そう考えて、【一人称単数】はこの嫌な空気をつくり上げたこいつらにどう責任を取らせるかを熟考するのだった。
けれど、それは【一人称単数】の楽観であったことがすぐに判明する。
その子は先生に寄って連れ戻された。
先生がいるうちは何事も起こらなかった。
当たり前だ。
鬼がいる間に洗濯するやつなんていないのだ。
先生がいなくなった途端、クラスの連中は行動を起こした。
――あの子の物を隠したり壊したり、ウザ絡みしたり反対に無視したり――。
……なんだこれ。
残酷。
【一人称単数】には、どうしてこうなったのか理解できなかった。
親が悪いだけでここまでされる筋合いがどこにあるというのか。
流れでその子に嫌がらせを仕掛ける他のクラスメイトたちに、【一人称単数】は眩暈がした。
その眩暈から回復した時、教室の中にはもうその子の姿はなかった。
放課後、私は担任の先生に抗議した。
クラス内で発生している虐めの対策を打診したのだ。
担任は【一人称単数】の話を深刻に受け止めてくれて、対処することを約束してくれた。
これで少しはあの子が学校に来やすくなるだろう、とほう、と息をついた。
しかし、そう判断するのは早計だった。
――あの担任は、あの子の救世主たり得なかった――。
翌日。
その子は遅刻した。
顔を伏せながら教室に入ってきた。
担任が遅刻したその子に対して注意をした。
周りで陰口を叩き始めた子がちらほらいたというのに。
そいつらにはお咎めがなかった。
あの教師はあの子のことを面倒を起こす存在として捉えていたようで。
【一人称単数】は、ずっとその子のことを見ていた。
そうしていたら、ずっと項垂れていたその子が一瞬だけ顔を上げた。
【一人称単数】の視線に気づいたのだ。
その顔は、
――痣だらけで、晴れている個所もあって――。
【一人称単数】は堪らず叫んでいた。
――『おかしい! 証拠もないのにこんなことするなんてどうかしている!』――と。
授業中だったが、そんなことに構ってはいられなかった。
許せなかった。
本当なら、この国においては働かなくてもいい年齢であるにもかかわらず、この子は働いている。
生活のために。
一生懸命生きようとしている。
どう考えたって、その子はクズなんかではない。
そんな子がこんな目に遭うことがどうしても認められなかった。
【一人称単数】はその子を庇った。
そうしたら、【一人称単数】も虐められるようになった。
机の中に虫の死骸を仕込まれたりとか、体育の最中に着替えを隠されたりとか、トイレに入っている時に水を掛けられたりとか。
まさか、こんな漫画じみた嫌がらせを小1で受けることになるとは想定もしていなかった。
これらは女子からの仕打ちだった。
虐めは女子の方が陰湿な傾向があるという話は聞いていたけれど、どうやらそれは本当らしかった。
この身をもって体感したのだから。
男子から受けた虐めは精々体型を馬鹿にするように大きな声で揶揄われたくらいか。
【一人称単数】はチビだったからな。
あの子が男子にやられているところを何度か目にしたことはあるけれど、肉体的にダメージを与える嫌がらせが多かったように思う。
対して女子の虐めは精神的にくるものが多かった。
また、女子は基本ばれないようにやる。
男子の目を気にしていたのだろうか?
【一人称単数】にはわからなかった。
そんなことをしようなどとは思わなかったからな。
そうして、虐めが始まって一週間ほどが経過したその日。
到頭クラスの男子に動きがあった。
あの子と一緒に【一人称単数】を虐めだしたのだ。
【一人称複数】は同じく虐められていたけれど、それまで一緒に虐められることはなかった。
理由は上述の通り、【一人称単数】を虐めていたのが男子にばれたくない女子で、あの子を虐めていたのが男子だったからだ。
その一週間ほどは、その子はやられっぱなしだった。
絶対に反撃はしなかった。
唇を噛み締めて、されるがままの状況を耐え忍んでいた。
それがクラスの男子たちは詰まらなかったらしい。
あいつらは変化を求めた。
より残酷にあの子を追い詰めようとした。
あの子の表情の変化を引き出すために利用したのが【一人称単数】だった。
【一人称単数】はあの子の前であいつらに髪の毛を引っ張られた。
痛かった。
【一人称単数】は思わず、「やめて」と懇願していた。
刹那、【一人称単数】の髪を引っ張っていたやつらが吹っ飛ばされていた。
――あの子によって――。
正直、嬉しかった。
【一人称単数】のために怒ってくれていたのがわかったから。
あの子は自分がやられていた時はひたすら我慢していて。
だから、【一人称単数】のためだった――というのは瞬時に理解できて。
けれど、あの子が手を出してしまった所為で、
――あの子の立場はもっと悪くなってしまった――。
相手の親には謝らせられるし、実の父親からはいつにもまして酷いことをされたらしい。
この世に神はいないのか?
この子がこんな目に遭うのは、やはり納得がいかなかった。
それでも、【一人称単数】はその子の味方でいた。
一人にしたらなんだか危なっかしそうだったから、放ってはおけなかった。
その子と一緒にいたことで、クラス委員だったのにそれを辞めさせられて、困っている時に手を差し伸べていたことでそこそこあった人気も失ったけれど、そんなのは気にならなかった。
あの子も申し訳なさそうにしていたけれど、「あいつらからの評判なんてどうでもいい」って言ってやった。
【一人称複数】は順調にハブられていった。
学校行事に参加させてもらえなくなったんだ。
だがしかし、そんなことは本当にどうでもよかった。
あの子と一緒にいられれば、【一人称単数】は満足だった。
中学もあの子と一緒のところにした。
父親が嘆いていたが、関係ない。
【一人称単数】はあの子を支える――それは【一人称単数】の中で既に決定していたことだった。
ただ、中学に入ると、【一人称単数】は溜息をつくことが増えた。
なんたってあの子がガラの悪い輩によく絡まれるようになったからだ。
お世辞にも、あの子の容姿は人相がいいとは言えない。
それが輩どもの癪に触って目をつけられたようだった。
あの子の近くにいた【一人称単数】は狙われることが多かった。
あの子を呼び寄せる、または、あの子を弱体化させる道具に使われたのだ。
ちょっと――いや、かなり気持ちの悪い視線を感じたことも少なくなかったが、あれは一体なんだったのか?
まあ、呼び寄せるまではやつらの計画通りにいっても、弱体化までは不可能だったが。
あの子は強かったからな。
意味不明な拘束をされた時も含めて、あの子を怒らせたら喧嘩になんてならなかった。
とはいえ、【一人称単数】の中での問題は、あの子がすぐに暴力に訴えてしまうことだった。
【一人称単数】が見ている限り、あの子は百パーセントの確率で手が出ていた。
あの子は、【一人称単数】がいない時は穏便に済ませている、と言っていたが真相は定かではない。
本音を言うと、【一人称単数】は【一人称単数】がいてもいなくても変わらないのではないか、と思っていた。
兎に角、すぐに口ではなく拳で語るのは治してもらいたかった。
人間は言葉を持っているのだから。
対話はできるはずだ。
暴力はやはり心証を良くしない。
それに要らぬ恨みを買ってしまう。
だから、【一人称単数】は口を酸っぱくして忠告したのだが、あまり効果は見られなかったな。
【一人称単数】はいつも守られている立場だからあまり強く言えないことはわかっているのだが、あの子の平穏な生活が遠退いていってしまっていることに、【一人称単数】は危機感を覚えていた。
どうにかしてあげたい。
あの子がやりたくて喧嘩をしているわけではないことは見ていてわかっていたから、そんなものがない日常を送らせてあげたい。
けれど、それができるほど【一人称単数】には力がなくて。
【一人称単数】は歯痒い思いをずっと抱えていた。
あの子の良くない噂を聞きつけ、他県の学校の不良グループが攻め入ってきたことなんて数知れず。
まあ、話にならなかったけれど。
一蹴して、また輪をかけて悪い噂が立って、それを聞きつけたやつが来て……の繰り返し。
そんな嫌気が差す日々を過ごしながら、【一人称複数】は中学の最高学年になった。
ある時のこと。
【一人称単数】は例の如くガラの悪いやつらに絡まれていた。
場所は通学路。
時間は平日の夕方。
【一人称単数】があの子と別れて家に帰る途中のことだったから、【一人称単数】は一人だった。
絡んできた輩どもは見た目からしてあの子に用事があるのか、と考えたが違った。
あの子の名前は出てこないし、不敬な視線を向けてきていた。
どうやら目的は【一人称単数】のようだった。
態度からして、あの子のことは何も考えていなかったのだろう。
【一人称単数】があの子と繋がりを持っていることさえ知らなかったのではなかろうか。
……はぁ。
【一人称単数】は基本的にあの子と行動を共にしているが、朝に迎えに行く時とこうして別れて帰る時はどうしても一人になる。
そのタイミングで絡まれようものなら辟易とさせられる。
【一人称単数】は非力だ。
走って逃げられる体力もない。
だから、こうして絡まれるとどうしようもなくなってしまう。
理詰めの勝負なら得意としているのだが。
こういう多人数を相手取る場においてはその特技は生かせそうになかった。
実力行使をされたら意味をなさないからな。
どうやって切り抜けよう、と【一人称単数】が頭を抱えていると、
――『や、やめろ!』――
一人の人物が割って入ってきた。
あの子ではなかった。
気弱そうな人物だ。
やつらの前に立ち、【一人称単数】を庇う姿勢を見せた。
が、
輩どもの威圧に屈してしまった。
その人物は【一人称単数】の背中に隠れ、怯えだした。
……何しに来たの?
そう言いたかった。
ただ、【一人称単数】を助けようとしてくれたみたいだから、言葉は呑み込んだが。
結局、そのあとは伝え忘れたことがあった、と【一人称単数】の元へ戻ってきたあの子によって助けられたわけだが。
本当につくづくいい時に来てくれる子だ。
頭が下がる。
助けてもらってなんだが、「まずは口を使え」とだけ忠告しておこうか。
なんていつものやり取りをしていたら、【一人称単数】を助けようとしてくれた人物が割り込んできた。
あの子に
――舎弟にしてください――と。
初めは拒んでいたあの子だったけれど、その人物がしつこかったから折れていた。
ますます不良の道へと逸れていくあの子に溜息をつきつつ、もう仕方がないか、と半ば諦めていた【一人称単数】であったが。
当時の【一人称単数】は思っていなかった。
まさか、
――あれが取り返しのつかないことを引き起こすなんて――。
―――――――――――――
「くそっ! 離せ! やめろ! くるなっ! ――あぐ、ああっ!?」
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