それぞれの事情 其の四・持たざる者
――あなたはやればできる子――。
【一人称単数】は、お母さんにそう言われて育ちました。
だから、お母さんの言う通り、努力を重ねてきました。
勉強も、運動も、なんにもできなかったけれど、それでも、頑張ることを、それだけはやめないできました。
どんなに結果が伴わなくても――です。
それはきっと、【一人称単数】の努力が足りないのだと、そう自分を奮い立たせて。
だってそれが、お母さんの遺言だったから。
【一人称単数】の家は、貧しい家でした。
ボロボロの八畳一間のアパートで、母と二人暮らしでした。
父親はいません。
母は、未婚の母でした。
母は頑張っていました。
女手一つで【一人称単数】を養おうとしてくれていたのです。
けれど母は、【一人称単数】と同じで不器用な人でした。
要領がよくなくて、どれだけ働いてもお金を稼げなくて。
ただ、【一人称単数】の前では決して弱音は吐くことなく、参っている姿は絶対に見せなくて。
【一人称単数】の前ではずっと笑顔でいてくれました。
母は、強い人だったのです。
ただ、強かったのは精神で、身体の方はそうではありませんでした。
無理が祟ったのでしょう。
母は身体を壊し、寝たきりになってしまいました。
【一人称単数】が小学校へ上がる前のことです。
動けなくなった母を、【一人称単数】は懸命にお世話をしました。
けれど、まだ幼かった【一人称単数】には無理なことを多くて。
ちょうど小学校の入学式だったその日、
――母は亡くなりました――。
直前に言ったのが冒頭の言葉。
――あなたはやればできる子だから――でした。
小学一年生で両親がいなくなってしまった【一人称単数】は親戚に預けられることになります。
しかし、母と同じで要領の悪い【一人称単数】は、伯父さん、伯母さんから疎ましく思われるようになってしまいました。
もしかしたら、【一人称単数】の勘違いかもしれません。
面と向かって言われたことはないので。
ただ、夜中にトイレに起きた時に偶然二人が話していることを聞いてしまったのです。
「あの子はなんにもできないな」と。
「うちも余裕があるわけじゃないから、うちのためにならないなら引き取りたくなかった」と。
「でも、妹の子だから仕方がない」と。
「せめて家のことくらいは一人でできるようにならないものか」と。
「最悪、施設に預けることも考えなければいけない」と。
話の内容はこういったものでした。
【一人称単数】は困惑しました。
二人がそんなことを言うなんて信じられなくて。
だって【一人称単数】がいる時は本当に良い伯父さん、伯母さんでしたから。
「なんにもできない」、「うちのためにならない」、「仕方がない」、「施設に預ける」――そんなふうに思われていたなんて想像もしていなかったのです。
【一人称単数】はそれを受け容れられなくて。
これは悪い夢だ、そう自分に信じ込ませて、なんのために起きたのかも忘れて【一人称単数】の布団の中へと逃げ込みました。
翌日、【一人称単数】はおねしょをして伯母さんにすごく怒られました。
そんなこともあって、もう伯父さんと伯母さんに迷惑はかけられないと感じた僕は頑張ることを始めました。
勉強も運動も、家事だって。
何事にも一生懸命に取り組みました。
けれど。
どれだけ必死に勉強しても成績は良くて七人中五位で。
どれだけ身体をつくっても運動会の徒競走ではいつもやる気が空回りしてしまって最下位で。
どれだけ家族の負担を減らそうとして家事を手伝おうとしても、お皿を割ったり、洗濯物を泡だらけにしてしまうなど、逆に仕事を増やしてしまって。
【一人称単数】は本当に無力でした。
それでも、【一人称単数】は諦めませんでした。
諦めることなんてできませんでした。
お母さんを失望させたくなかったから。
だから、【一人称単数】は努力を続けました。
他人よりも出来が悪いことは自覚しています。
不器用な【一人称単数】は他の人よりも二倍――いえ、五倍は頑張らないと彼らと同じようにはできません。
彼らを越えるのであれば、もっと、もっと努力をしなければならないのです。
【一人称単数】は来る日も来る日も同じことを繰り返して、それこそ死に物狂いで練習を重ねていきました。
そうやって寝る時間を削って、やっとのことで他の子と学力や運動能力で並ぶことができたのが中学校に入った頃でした。
【一人称単数】は、これでやっとスタートラインに立てたと喜んでいました。
しかし、中学校に上がったことで授業は難しくなるし、他の子は身体が成長するし、それらによって、やっと追いついたというのに、【一人称単数】はまた置いてけぼりになってしまいました。
なんとか必死に縋りつこうとしていたけど、それができたのは中学二年の夏まででした。
不出来な【一人称単数】は出された宿題を片付けるのも一苦労で、増えていく量と難易度が上がっていく課題にどんどん終わらせるのが遅くなっていって、徹夜をするようになって、そして、到頭終わらせられなくなって。
当然、宿題を提出できなくなれば、先生からの評価は悪くなって。
先生に言われました。
――『他の子ができているんだからできないのはおかしい』――って。
各教科の担当の先生全員から言われたので、きっとそれが正しいのでしょう。
【一人称単数】がおかしい。
できないのは自分の所為。
【一人称単数】はどうにかしておかしくならないように努めようとしました。
それはもう、がむしゃらに。
けれど、どうしてもできなくて――。
――【一人称単数】は身体を壊してしまいました――。
中学二年生の冬のこと。
お医者さんによると、無理が祟ったとのことでした。
奇しくも母と同じ理由で【一人称単数】は倒れたみたいです。
宿題を終わらせようと徹夜を続けたこと。
それでも終わらせられなかったストレス。
【一人称単数】が悪いのだけれど、宿題を提出できなかったことに対する叱責で、精神が擦り切れてしまっていたこと。
また、そんな不甲斐ない自分自身へのストレス。
それらが積み重なって、【一人称単数】は先生に怒られている最中に過呼吸を起こしてそのまま倒れてしまいました。
ただ、【一人称単数】は宿題を忘れる常習犯で、教師たちとクラスの子たちからの評判が良くなかったため、暫くの間、そのまま放置されてしまったのですが。
まあ、それは、日頃の行いが悪かった【一人称単数】の所為、ですよね……。
倒れた時、【一人称単数】の呼吸は止まっていたらしく、すぐに救急車が呼ばれて一命は取り留めたものの、身体への負担は決して小さくはありませんでした。
身体に痺れが残ってしまったのです。
……絶望でした。
ただでさえ何をやるにも鈍いというのに、身体まで素早く動かせなくなってしまったのですから。
【一人称単数】はしばらくの間、塞ぎ込みました。
そんな【一人称単数】を救ったのはやはり、母の言葉でした。
――あなたはやればできる子だから――。
不意に心の中に響いてきた、母が【一人称単数】を信じて言ってくれた言葉。
それなのにその時の【一人称単数】の行動は、母の残してくれた言葉を踏みにじろうとしていて。
それがどうしても許せなくなって。
――裏切りたくない――。
その感情が、【一人称単数】を立ち上がらせてくれました。
リハビリをして、なんとか日常生活に支障が出ない程度までには回復させて。
一カ月とちょっとをかけて
一カ月の遅れは途方もなく虚脱してしまいそうでしたが、それをなんとか耐え、兎に角早く終わらせることだけに注力してなんとか課題を溜めずに乗り切った【一人称単数】(それでも朝までかかることが何回もあったけど)。
溜まっていた宿題も春休みを返上して提出することができました。
そうして迎えた、中学三年のある日のことです。
【一人称単数】はあまり人通りが多くない場所で三人の高校生らしき人物に囲まれて困っている一人の人物がいるという光景を目の当たりにしてしまいました。
三人の高校生は毅然とした態度。
威張り散らすように一人の子を拘束していました。
もちろん、【一人称単数】は喧嘩なんて強くありません。
止めに入って、三人の人物に目をつけられたらまず間違いなく無事では済まないでしょう。
その子には悪いと思いましたが、そこへ突撃していく勇気が持てなかった【一人称単数】は踵を返そうとしました。
そこへ聞こえてきた声。
――『助けて!』――。
その声は、【一人称単数】の足を止めました。
振り返ると、囲まれていた子が発したものだとわかりました。
求められている――。
その子の顔を見た瞬間、
――あなたはやればできる子――
母の声が頭を過りました。
気がついたら、【一人称単数】はその子の元へと駆けだしていて――。
どの視点から捉えたとしても、カッコイイと言えるものではありませんでした。
その子を助けにいったはいいものの、散々なやられよう。
殴られ、蹴られ、締め付けられ。
【一人称単数】はボロボロにさせられたけれど、こっちからは一撃も与えられず。
……けれど、
その子に被害が及ぶようなことがないよう、それだけは死守して。
格好なんてつかなかったけれど、それでも。
――【一人称単数】はその子を守り抜いたのです――。
大したことはできなかったけれど。
ただ、あの子が触れられそうになったら間に割り込んで殴られたり蹴られたりしただけ。
それを繰り返していたら、高校生三人の方が諦めてくれただけ。
格好なんてつけられたものじゃなかったんです。
顔はボロボロで体力もボロボロで。
それでも、あの子は言ってくれたんです。
――【一人称単数】のことを、カッコよかった――って。
初めてだったんです。
母以外から褒められたのは。
確かに、【一人称単数】のしたことは無謀で、傍から見たら褒められたことではなかったでしょう。
それでも、思いました。
助けてよかった、って。
心の底からそう感じて。
初めての、心が温かくなるようなそんな感覚に、【一人称単数】は涙が溢れました。
それと、その子が与えてくれたのはそれだけじゃなかったんです。
「助けてくれた時の姿がカッコよくて、惚れてしまった」と、その子が。
その人は綺麗な人だったけど、【一人称単数】としてはそんな打算的な考えで助けたつもりなんて毛頭なくて。
だって、【一人称単数】は【一人称単数】が優れていないことを理解しているから。
この人と【一人称単数】とじゃあ、月とスッポン。
……ううん、スッポンですら生ぬるいよ。
兎に角、釣り合わないってことを正しく認識できていたんです。
けれど、その人は【一人称単数】に告げてきました。
――「よかったら付き合ってほしい」――って。
十四年と数カ月生きてきて、初めて――。
【一人称単数】に初めて恋人ができました。
それからの日々は毎日が本当に幸せでした。
恋人は違う中学校に通っていたけど、その人にいろいろとやり方を教えてもらって。
効率を教えてもらって、五倍は頑張らなければ人並みには暮らせなかった【一人称単数】が、二倍くらいの努力までに改善されて。
初対面でのあの時以外、本当にあの人には助けられてばっかりでした。
だから、【一人称単数】は誓ったのです。
――何があってもこの人を幸せにする――と。
【一人称単数】は高校へと進学しました。
恋人の希望校でもあった高校へ。
あの人が勉強を教えてくれなかったら、【一人称単数】だけでは落ちていたと言っても過言ではないでしょう。
高校に通えるようになったのは紛れもなくあの人のお陰です。
また返しきれないほど大きな恩が一つ増えました。
【一人称単数】は、あの人の幸せを願い、あの人の幸せのために生きる――その思いがどんどん強くなっていきます。
だって、もらってばかりで申し訳なくて。
どこかであの人のためになることができないか、とつい考えてしまうのです。
ただ、思いに駆られてしまいました。
【一人称単数】は、
――徐々に焦らされるようになっていきました――。
あの人に恩を返すことができないことへの焦りが募ってしまったのです。
その結果、【一人称単数】はあの人と一緒にいることを純粋に楽しめなくなってしまいました。
それが、その人にも伝わってしまって。
――『君と楽しい日々を過ごしたいだけなのに』――。
【一人称単数】はあの人に悲しい顔をさせてしまったのです。
そして、それが【一人称単数】があの人から聞いた最後の言葉になりました。
――翌日から、【一人称単数】の大事な人は行方不明になってしまったのです――。
【一人称単数】は盛大に後悔し、嘆きました。
今更、嘆いたところでもう遅いのですが……。
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「――さん? 【一人称単数】はここにいるよ? あなたの近くにいるんだよ? ほ、ほら! ね、ねえ、お願い! 目を開けてよ……っ! ねぇってばああああああああっ!」
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