2.2 日は傾き影が足元にかかる
結衣さんと会わなければそもそもこの作戦は始まらない。
そう思った俺は今、何故か段ボールの中に入っていた。
「もうすぐ来るから、あと少しの辛抱だよ。結衣が私のところまで来たら、橘君は段ボールからわって出てきて結衣を拘束するの。良い?」
言っている事はわかるが、あまりにも自分のやっている事が滑稽で今すぐにでも飛び出したい気分だった。
結衣さんを遊びに誘うべく、試験前にこんな事をしているのだが(去年の試験プリントをもらう事を条件に)、果たして彼女はいつ来るのだろうか。早く足をのびのびと伸ばしたいその一心に、俺は声を発さずじっとしていた。
それから数分後、扉が擦れる音とベルの音が同時に鳴る。
「やあやあ、今日もお疲れ様。あの本は無事読了したかな?
...ん?この箱は一体何だい?」
結衣さんがこんな違和感を逃すわけが無い。
開始早々ピンチを迎えるが、俺は今雪さんを信じる事しかできない。
「あーそれは古本だよ。今日出そうと思ってね」
「図書室のではないだろう?つまりこれは今日、頑張って家から持って来たのか、はたまた別の何かと言うんだね」
唾を飲み込み、暗闇の中で雪さんの次の言葉を待つ。
「んー...もーめんどくさい!もう出てきていいよ、橘君!」
果たして俺の待っていた10数分は何だったのだろうか。
やれやれと重い腰を上げ、ぬっと俺は段ボールから姿を現す。
「どうも、お久しぶりですね」
俺が姿を現したのが少し予想外だったのか、結衣さんは少し目を丸くした様にも見えたが、その表情もすぐに通常運転に戻ってしまう。
「ああ、久しぶりだね夏向くん。すまないが時間がなくてね。要件があるなら手短に頼むよ」
少し突き放す言い方に、俺は眉を寄せる。
「じゃあ、単刀直入に」
一度雪さんの方を向き彼女が首を縦に動かしたので、俺は呼吸を整えて言う。
「夏休み、どこかへ遊びに行きましょう。3人、もしく結衣さんと雪さんの2人でも」
さあ、どんな返答が来るだろうか。そう思いながら結衣さんを見ると、その反応は思っていたものと全く違っていた。
露骨に驚いた顔をする結衣さんは自分に言われた言葉を理解したのだろうか、細かく息をこぼしながらだんだんと声が大きくなっていき、やがて上を見上げながら腹を抱えて笑い続けていた。
今度はこちら側が呆気にとられる番で、彼女が収まるまで俺は隣に視線を移し、雪さんは訳わからんと言わんばかりに肩をすくませていた。
「いやぁ、夏向くんにはいつも驚かされてばかりだよ。大事な話かと思ったら、まさかそんな事だとは」
そんな事なんて、と言おうとするがそれよりも先に雪の口が動いていた。
「最近付き合い悪かったから、このまま自然に離れて行くんじゃないかって...」
彼女の顔は結衣さんと裏腹に表情が影がかっている。
流石に自分の失言に気づいたのか、結衣は少し微笑みながらうつむく彼女の頭に手を乗せ、そっと髪を撫でた。
「君が私と関われていたのはあの1件があったからって、勝手に思っていたみたいだ。ここ最近、君とこのまま関わり続けて良いのだろうかってね。ほら、麻倉結衣は一応みんなに距離を置かれているから。
でもそれは私の杞憂だったみたいだと、今ここで理解したよ。本当は君に説教された時に、素直に受け入れれば良かったんだけどね」
そう言って、彼女の視線がこちらを向く。
「君も来てくれないか。きっと、うん、そのほうが楽しいに決まっている」
その言葉に、俺の数時間かけて形成された緊張はほぐれていった。
良かったとりあえず第一関門は突破だ。しかし...
「じゃあ私はこれで、予定がわかったらまた言ってくれると助かるよ」
そう言って結衣さんは足早に図書室から出て行った。
「やっぱり長居はしないみたいだね...」
結衣さんが扉を閉めた直後、彼女は言う。
状況をもう一度整理するために呟いたのだろう。しかしこれは良くも悪くも作戦通りと言える。
「よし、じゃあ第2フェーズと行こうか」
俺たちは結衣さんが校門に向かって歩いていることを確認し、図書室を後にした。
結衣さんを見失わないよう急ぎ足で校門へ向かうと、彼女は1つ目の十字路を右折する瞬間だった。
「いつもの帰り道と同じルートだね」
そう雪さんは言いながら歩き出す。
曲がり角で待ち伏せされてそうな予感が頭をよぎるがさすがにないだろうと腹をくくり、俺らは慎重に後を追っていった。
雲一つない日差しはじりじり足元を温め、気づけば一滴の汗がこめかみを沿って流れていることに気づいた。今年に入って最高気温というのは伊達ではない。
隣を歩く雪さんも心なしか、気だるそうになっているように見えた。
ある程度いつもの帰り道を歩いていた結衣さんは、住宅街に入って2つ目の路地を左折する。
そのルートに、雪さんの反応が露骨に表れていたのを俺は見逃さなかった。
「もしかして、結衣さんはあそこに?」
「そんな、有り得ないよ。だってあんなに拒んでいたのに...」
そう呟く彼女の表情は踏切で頭を抱える雪に似ているものがあった。
「雪さんはここにいてください。俺が見に行きます」
そう言って1歩目を踏み出した瞬間、後ろに体重を持ってかれる。
「私も行く」
俺の制服の裾を握る雪さんは、覚悟を決めたような眼差しをこちらに向けていた。
路地を抜けるとそこは高級住宅街で、古い屋敷なども並ぶようなところにその教会らしきものはあった。
寺院のような色合いの雰囲気だが、尖頭と円形のステンドグラスに奥行きがある構造と中心はドーム状の様な建物がそこにはあった。なんと言えばよいのか、多種多様な宗教を組み合わせたかのような歪さがその建物にはあり、一概にも教会と呼べるものではなかった。
「良い加減にしてくれ。目的は何なんだ?私を使って何をしようとしている?」
ドーム状の建物の中から結衣さんの声が聞こえる。彼女があんなにも大きな声を出しているのを俺は初めて聞いた。芯が通っていて上ずることなく、通常の声を大きくしたかのような聞き取りやすい声だった。
身を乗り出したい気持ちを抑え、俺等は次の言葉を待つ。10秒ぐらいだろうか、幾分長く感じた短い時間は1人の少女の声にて破られる。
「...わかったわ。もう貴方は通常集会に参加しなくて良いよ。その代わり8月31日の夜9時、指定された場所にて行われる集会は参加してもらうよ。それが終わったら君は晴れて自由の身、両親にもしっかりと説明して納得させるわ」
それは、頭を鈍器で殴られたかのような衝撃だった。
「ねね、聞いた?8月31日の夜9時だってさ。結衣、やっぱり教団の奴らに従うしかない状況にされたみたい...って橘君?」
雪さんが何かを言っている。しかしその言葉を上手く脳に落とし込むことができない。
有り得ない、とまでは言えなかった。
確かに失ったという表現でしか言えなかったが、行方不明というだけで今でもどこかにいるかもしれないというのは考えて当然のことである。
だからといって、こんなのはあんまりじゃないか。どうして、こんなところに。
「...夏希」
気づけば俺は動く足を止めることができず、2人の前に立っていた。
「やっぱり来てくれたんだね。お兄ちゃん」
その声は、約6年前から色褪せることなく俺の脳内にあったものと何ら遜色なく、だからこそ、今自分に置かれている状況を理解することが困難な状態になっていた。
「私の目算より早かったけれど、それも教団関係者の人がいればしょうがないかな」
そう言って、夏希は1歩こちらに踏み出す。
それに合わせて俺は1歩ずつ後ろに下がった。奇跡的な再開で胸が弾むという気持ちは微塵も感じられない。
その代わり、目の前にいる夏希を夏希であると認識するのがとても怖かった。なんせその表情や声色は、だんだんと俺の思ってきたものとかけ離れていくのだから。
なんとかして踏みとどまって俺は、20センチほどの差に縮まった彼女を見下ろす。
「本当に残念だけれど、私は私というただ1つの存在が生まれたこの世界を亡くさなければならない。それはすなわちお兄ちゃんをも消えちゃうことになるの。
ねぇ、お兄ちゃん。一緒に来て。きっとお兄ちゃんなら私の言うこともわかるはず。
もう...あのことは怒ってないからさ、ね?」
あのこと、あのことが許される?夏希はまだ、俺を兄だと思ってくれているのか...?
もし、そうなのだとしたら。
気づけば、自然と右手が上がっている。
彼女が差し出すその手を掴めそうな瞬間、激しい痛みが横から伝わった。勢い良く冷たい石の床に飛ばされ、自分が横に倒れている状況に、俺は未だ状況の処理が出来ていなかった。
「危ない危ない。本当に君は洗脳が得意だね、リーダーさん」
結衣さんはそう言いながら、床に倒れる俺を見下す。
「私の宝物を壊そうとする真似は、もうしないでもらおうか」
その言葉の意味を理解する前に、彼女の声が思考を遮った。
「この人が夏向くんの何であれ、彼女の誘い文句は全部嘘だよ。
こいつは1つの世界を過程としか思っていない。だから望んでいるのはこの世界のお兄ちゃんではなく、最後の世界にいる正解のお兄ちゃんだよ」
掴めない状況が積み重なり、俺と雪さんはほとんど置いてきぼりの状態になっていた。
少なくともわかるのは、夏希が教団のリーダーという名の存在であることと、この世界、つまり俺が雪の願いを叶えようとするこの状況が良くないということなのだろう。
夏希は途端苦虫を噛み潰したような顔をし、ふっとため息をついた。
「やっぱり貴方とは仲良くなれそうにないわ。
ま、君たちが何をしたって結末は変わらない。過程の世界でも、その運命を曲げるにはそこでの過程が必要であるように、その準備はもうできている。もう私はあと1ミリで貴方たちの、いや世界の影を踏める状況にあるんだ。わからない?」
そう言いながら彼女は結衣さんを押し退け、かがんだ俺をしゃがみこんで覗き込んでくる。
「現にもう、その歯車は進んでいるよ。ここでね」
呟きながら指が指す方向の真意に、俺は数秒遅れる。
「え、あの子どこ行ったの!?」
驚く雪さんの声で、俺の脳は覚醒する。
俺は呟く。
「結衣さん、彼女は」
「...そもそも私たちが見ていたのが幻っていうのが妥当だね。でも、そしたら彼女は一体」
勢い良く起き上がり、顎に手を乗せて考える結衣さんの肩を掴む。
「心当たりがある。力を貸してくれ」
突然の大声に、2人は驚きを隠せずにいる。
「どうしたんだ急に?何があったんだ?」
さっき言った結衣さんの宝物、それはきっとあの踏切だ。そして教団が気に食わないのはそれを実行しようとする俺と、それを指示した...
「今すぐ、俺を眠らせてくれ」
数時間も待っていられない。そう俺の直感と焦燥が、ステンドクラスを通して室内を包むオレンジに溶け込んで、着実にその場を満たしていった。
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