踏切にて【6】雪
最近、私は目が覚めた後の私の事を考えている。
ここにいると何故だか、この踏切こそ現実であるのだと、頭のどこかでそう処理をしてしまう。
思い出そうとしても、何かがそれを阻む。その答えを知りたいと強く思うと同時に、知ってはいけないと誰かから忠告をされる。
そして何より、二度とここに帰れなくなると思うと、私は怖くてそれ以上の思考を止めてしまっていた。
今日も私は、夏向を待つ。月が綺麗な、この
「もう少しであの凄惨な事件から1年が経つ。やっと、この忌々しい者を捧げることができるのだ。...ああ、もう見てられん。今すぐにでも...」
「だめだと言っているだろう。老僧らがあの日を超えてから殺せと命じている。それともお前は、理想郷を求めぬ裏切り者なのか?」
誰だろう。この声は。私はさっきまで踏切に...あ、これは、現実の私...?
部屋は部屋でも、1つの机に1つの椅子。それと積まれた本。あと、今はベッドに放られている『封筒』。
その声はドアの向こう側から聞こえた。両親でも、知っている人の声ではない。でも、私はどこかでこの声を聞いている。そのどれもか、耳にじわじわと広がる、特徴的な喋り方。
でもどうして私の部屋の前なんかに。
「おい、お前ら、何やってんだ?」
突然、湿っている空気を吹き飛ばすような一声が、私の耳に届く。
「まさか、あの団体の奴らじゃねぇだろうな?もう二度と近づくなと、あれだけ言っているはずなんだが...ひょっとしてその耳は飾りか何かなのか?それかあれか?信仰している主の妄言を聞きすぎて腐っちまったんじゃねぇのかw」
途端、目の前のドアが強く叩かれ、私はビクッと跳ね上がる。
「やめろ。彼女が起きる。その怒りは我々に害を与えると知っているはずだ。適切な人がこの世から救われ、そうでない人が苦に満ちたこの地でもがき死ぬ。今のお前は先程から挑発の言葉を並べている彼と同じだ。いや、彼のそれに乗らされるお前の方がもっと醜い。
...帰ったら、互いに祈り直すぞ」
そう言うとまばらな足音が聞こえ、やがて遠ざかっていく。
静かになったドアの向かい側に、彼は佇んでいる。
「
「あいつらには何度も言っているんだが...隙あらばこうしてお前の様子を見に来る」
私の呼び声を無視して、彼は話し出す。
届かないのだろうか。さっきの人も、彼女が起きると言っていた。という事は、つまり...
「去年の8月の最後、お前が寝たきりになってから考えているんだ。
どうして麻月なんかを助けに行ったのかとか、俺があいつと付き合い始めてから一緒に帰る事がなくなっちまった事とか。そうやって考えてると、俺はお前の事、全然わかってないんだなって思った。あんだけ、小さい頃から一緒に居たっていうのによ。
なぁ雪。目を、覚ましてくれ。
伝えたい事がたくさんあるんだ。そんで、謝りたい事が...あるんだ」
木の扉1枚越しに語られるものに、私は事の理解が追いついていなかった。
状況を把握した頃にはすでに視界が歪んていて、私は必死に袖で涙を拭う。
愁斗が、私を忘れていなかった。始めに思った事がそれだった。そして、彼を忘れる事が出来ていない自分が、憎かった。
取っ手を握る。すると、そこから人間の温もりが伝わった。少しさらさらとした感触は、乾燥した彼の手に似ている様に感じた。
「今年校長が変わったって、4月らへん見舞い来た時言っただろ。そいつが言ってたんだ。
『我慢しなきゃいけない理由がわからない程子供じゃなくて、それでも諦め切れる程大人じゃなくて、どうしようもない怒りとか不安とか焦りとか、たぶん大人には伝わらない全部が、この高校生活に詰まっている。君達の力は、君達の思っているよりも強くて、今でなければ伝わらない事がきっとたくさんある。悔いのないような学校生活を送ってください』ってな。
俺さ、雪に慣れてたっていうか自分で思ってたより人との、女性との付き合い方が下手だったんだ。そこで初めて、お前の存在の大きさに気づいた。
それを知った夏休み最終日に俺は雪の家に走っていった。でもそこに雪はいなくて、なんとなく嫌な予感がしたんだ。
だから...集団自殺に巻き込まれた麻月を助けるために、あの炎の中に飛び入っていったと聞いた時はもう頭が真っ白になって。
だからといって、こうして毎日ここに通うだけで許される訳がないんだよな。わかってる。それとは別に俺が会いたくて来てるっていうのもあるし...じゃなくて、ああもう、ほんと俺は...」
私の今いる部屋は、夢だ。それこそ、永遠に等しい程の夢。
彼から出る言葉を1つ1つ手繰り寄せると、私は忘れていた記憶を断片的に思い出す事ができた。
荒れ狂う炎。手を繋ぎ瓦礫の合間を縫って走る十数秒間。燃える様に熱い胸と、感覚のない手足。
そして、後ろから押し出される衝撃。振り返った先に見える彼女が、落ちてくる瓦礫で遮られるその瞬間、彼女は。
遠のく意識の中で、最後に愁斗は言った。
「君の右手が、綺麗なままでいて良かった。こうして、今も手を握る事ができるのだから」
「...星が、綺麗だなぁ」
自然と口が動いた。伸ばす右手を、君は戸惑うことなく掴む。夏向の手は彼とは違い、しっとりとしていて柔らかかった。
踏切の真ん中で膝枕をされていると思うと、徐々に恥ずかしさが頭を満たしていき、私は勢い良く起き上がる。
「ひどい汗だよ。一体何があったんだ...?」
そう心配する彼の顔は、今まで見て来たどれよりも狼狽えている様に見えた。
毎夜毎夜彼と話していくうちに、欠かせない存在となってしまっている夏向との距離感を、最近考えていた。しかし今は、自分はとても贅沢なんだなと思っている。
都合が良いから、夢だから何も感じなくて良いんじゃない。
ここは第2の現実で、夏向は私の正真正銘の大切な人なんだ。
「ごめんね。夏向」
その言葉の真意を、きっと彼は理解できないだろう。
彼には真実を話さなければならない。彼も、私に本当を教えてくれるように。
「私の名前は、
改めて言う私に彼は少しの間唖然としていて、やがて我に返った夏向はやけに真面目な表情で、言葉を返す。
「俺の名前は橘夏向。雪の大切な親友であり、君の夢を叶える人だ。
あと、雪と結衣を、あの事件から絶対に助け出す男だよ」
私が今しなければならないのは、夏向が私の願いを叶える事を見届けることだ。
踏切には彼がいて、現実にはあいつが待ってる。愁斗なら、きっともう少し我慢して待ってくれるとどこかで信じている自分がいた。
やっぱり私は、贅沢なんだなと思う。しかし今更どうこう思うことはない。
私の人生を謳歌してそれがいけないというのなら、私に関係のない理想郷なんて本当に、本当にどうでも良い事である。
あとから襲ってくる2人の妙な恥ずかしさを、吹き付ける夜風が勢い良く攫っていった。
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