1.5 追憶は春と夏の間に落つ

 栢野雪の恋は、思いも寄らぬ所で幕を閉じた。


 それは、なんというのだろうか。夕立どころではない。突然のスコールか、もしくは快晴の青空から雪が降ってくるようなものだ。俺は雪の心の内を知る事はできないから、この表現はあくまで想像の範疇である。結衣だったらなんと言うのだろう。「これは失恋ではなくて、鈴の音の行く先が少しだけずれただけさ」とかだろうか。流石に意味がわからな過ぎるか?

 でもきっと結衣は雪の気持ち寄り添った言葉を言う事ができるはずだ。俺はまだそこまでの時間を共にしていないし、特別な何かでもない。

 

 だから今俺は、俺のシャツをいっぱいに濡らしている彼女をただただ眺める事しかできなかった。


 確かに、踏切の雪は日曜の大会を見て、その帰り際に2人が結ばれる瞬間を見たと言ったのだ。

 しかし今日は土曜日。俺と俺の世界の雪は2人が寄り添い合って(女性の方が愁斗しゅうとの腕にしがみついている状態)で歩いている光景を見てしまったのだ。


 思うところは山々なのだが、まず何故俺と雪さん(踏切との区別が面倒くさいのでこちら側の世界で実際に呼んでいる雪さんと言おうと思う)が土曜日に一緒に居るかという事から説明していこうと思う。



 金曜の夜、俺は例の如く踏切の雪に会いに行った。結衣はいなかった。彼女は踏切で唯一ついている明かりの下で座っていた。いつもの定位置である。

 挨拶を交わし、結衣と話をして夢について教えてもらったことを言うと彼女は少し頬を膨らまし「なんで私より先に仲良くなってるのよ」とつぶやいていていた。

 

 ふと、ここにいる雪と雪さんは違う人なのかと思い、俺は雪に普段は何をしているのかを聞いた。すると彼女は表情を暗くし、結衣がいなくなってから部屋から出ていないと言う。


「じゃあ飯とかはどうしてるんだ?」

 そう言うと彼女は少し困った顔をしていた。

「そういえば、どうしてるんだろう。なんかね、私夢にいる時現実の事忘れちゃうんだよね。でも、さすがにここまで思い出せないのはおかしいよね...老いたのかな。それとも何か別の理由が」

 そこで急に、雪が頭を抱えてしまう。

 やっぱり何か特別な理由があるのか。俺は現実の事を考え話しても大丈夫だった。これも結衣に聞いてみようと思った。


 話が逸れたが、昨日雪はしきりに俺の世界の雪さんと会えと言ってきた。どうやら私抜きで結衣さんと仲良くなっているのが気に入ってないらしい。

 昨日の雪の笑顔が妙に強張っていたのはこの事なのかなと思った。



 そして俺は休日なのにも関わらず学校に赴いていた。そう、雪は休日でもあの図書室にいるらしい。

 本来なら明日を超えてから仲良くなろうと思ったが、それただのカメリアコンプレックスじゃんサイテーと初聞きの言葉を言われたので起きてから調べると『不幸な女性を見るとつい救ってしまいたくなる男性の心理を言う』と書いてあり、なるほど確かにその通りだと思い、俺は急遽図書室に来たのだった。


 相も変わらず古の館のような音を鳴らしながら扉が開いて辺りを見回すが、誰1人として姿が見えない。

 室内に入れば、その空気は少し変わり涼し気な雰囲気を醸し出していたが、窓から刺す日光が舞っている埃を照らしていて、俺は眉を寄せた。これだからあんまり図書室には寄らないのだ。


 恐る恐る足を踏み出し、受付の方まで行く。受付には開きっぱなしの本が置いてあり、先程まで人がいる様に...あれ。

 受付の下に何かを感じ覗いてみると、丸くなった背中が見えた。


 しばらく覗いたままで黙っていると、やがてそーっと頭が見えてきて顔を上げると、しっかりと目が合った。

「あっ」

 二人の声が重なる。


「あ、えっとどうも橘です」

 そう言うと、雪さんは胸を撫で下ろし溜まっていた息を吐いた。

「良かった。先生かと思っちゃった。橘君だよね?今日は返す本はないと思うけど、どうしたの?」


 鋭い発言に、俺は言葉を詰まらせる。

 実際、返す本はなく俺は考えを巡らした。普段から雪とは話してるし、と甘い考えをしていた。なんせ今目の前にいる彼女は結衣さんもいれば、まだ失恋さえもしていない。俺は苦し紛れに答えた。


「宿題を教室に忘れてしまって、取りに行ったついでに。もし開いてればここでしてから帰ろうかなぁ...と」

 俺は奇跡的に背負ってきた学校制定のバックを見せる

「そう。...じゃあその前に手伝って欲しい事があるんだけど。良いかな」

 そう言って雪さんは立ち上がった。



 彼女からお願いされたのは図書室の掃除であった。そりゃあなと俺は思った。どこもかしこも埃が積もっていて、まるで廃墟に近い状態だった。

「本当にこの学校は図書室の存在をみんな知らなくてね。いつも多くて3.4人しか来ないの。そのうちの1人は結衣なんだけど...それに私は掃除が苦手で、だから一緒にしてくれないかな?」


 そういう経緯で俺は本棚の本の上を埃取りで掃除をしている。マスクをしてできるだけ目を細め、埃がかからない様な姿勢でぱたぱたとはたいていた。

 かたや雪さんは床を箒で掃いているかと思えば寝っ転がって本を読んでいる。換気のために開けていた窓から風が吹きつけて雪さんの読んでいる本のページが激しくはためいていた。

「ねぇ窓もう閉めちゃダメ?」

 そう一回転しながら彼女は言う。

「だめです。相当埃溜まってますから」

 先程から駄々をこねて止まない彼女を横目に、俺はため息を吐いた。

 

 結論から言えば、雪さんの性格は雪と比べてずいぶん違うことが多かった。それは確かに失恋や大切な人の別れがあるかもしれないが、それにしても自分が思っていたより彼女の性格は違っていた。雪も踏切以外だったり、俺がそこまで関わりのない人だったらこうなるのだろうか。

 俺が立ち止まって考え事をしていると頭に何かがぶつかる。驚きと共に投げられた方を向くと雪さんがこちらを睨んでいる。

「手、止まってるよ」

 そう言って彼女は本に目を落とした。

 明らかにブーメランな発言をしているが、俺は何も口答えせずに作業を続ける。実際手伝おうと言ったのは自分だし、最後までやり切る事が大事だと自分に言い聞かせた。



「はい、追加でこれお願い」

 そう言って彼女は何冊か本を置く。

「えっと、新書が来たところで誰も借りませんよね?」

 俺は顔を上げ言うが、当の相手はすでに受付に戻っていて本を読み始めている。

 その本はさっき自分が判子を押したばかりのものであった。

「新書はだいたい私が読みたい本だよ~」

 軽々しいその口調に少しむっとしたが、俺は気持ちを押し殺して新書の表紙を開く。


 雪さんは本を読むときは眼鏡をかけていて、真剣な眼差しが遠くから伺えた。なので声をかけようにもその姿を見ると少しばかり躊躇ってしまった。

 なんやかんやで仕事の大半は俺が行って一通り終わったようだ。「褒めて遣わす」と彼女は本から目を離さずに言う。しかしそれ以降彼女から言われる事はない。


 俺はここにいる意味を失うわけだが、めげることはなかった。

 雪に言われたというのも理由の1つだが、個人的な興味としてもどうにかして少しだけでも喋れるような関係になりたかった。


 掃除している時気になったのだが、改めて図書の本棚を見ていると、所々付箋が挟まったままの本がある。

 適当に手に取ってみると、その付箋のところにはこう書いてあった。


『あなたの持っていたさまざまな望みは、お金ばかりを気にする世間にばかにされたくないというただ一つの望みに、全部のみこまれてしまったのよ。あたしは、あなたの持っていたりっぱな志が一つ、また一つと捨てられて、欲という大きな情熱だけがあなたを支配するようになっていくのを見てきたわ。ちがうかしら?』


 これは一体どういう場面なのか。考え得るのは女性が好意を向けている男性が、だんだんと社会に支配されていき、彼本来のアイデンティティが失われていくのを気づかせた瞬間なのだろうか。

 その他にも様々な考えが思いついたが、俺は続きを読まずに本を畳み元の場所に戻した。なんだか、この先読もうと思えなかったのだ。それは一体何故だろうと疑問に思ったが、いつの間にか自分は考えるのをやめていて、他の本棚を漁っていた。


『私は幸せになりたい。長い間、川底をさらい続ける苦労よりも、手にしたひと握りの砂金に心を奪われる。そして、私の愛する人たちがすべて今よりも幸せになるといいと思う。』


 その付箋は最後のページに貼られていた。

 そしてこの文章を読んだ後、最後の八行を読むと、俺は行き場のない感情に襲われる。


 もしかすると、俺は失恋と言う言葉を軽く見過ぎているのではないのか。


 これから失恋する雪さんと、自分の口で失恋をした凜。

 俺は一体何をした。そして何をすれば良いのだろうか。


 受付に2冊の本を持っていくと、雪さんは訝しげにこちらを見る。

「読むの...?」

 俺が頷くと彼女はふぅんと言って、バーコードを読み取る。

「ちなみにだけど図書室の本は1冊しか借りれないの。だからさっさとここで読んで行きな」

 そう言って、俺の手に『クリスマス・キャロル』が渡った。

「あと、これ」

 差し出された右手には付箋の束があった。


 それからどのくらい時間が経ったのだろうか。俺はまんまと本の世界にはまっていた。

 最後に本を読んだのは小学校の時だというのに、目は全く疲れることなく文字を追っている。そして所々気になった文章に付箋を貼る。それは服装の描写だったり何気ない仕草だったり、物語の重要なのであろう場面にも貼った。ただただ貼りたいわけではなく、俺は文章の要所々々に惹かれてしまい貼らざる負えなくなってしまっていた。

 だからこそ、雪さんはどうしてこの1文だけに付箋を貼ったのだろうか。


「それを考えるのも共有本の良いところだよ」

 いつの間にか読み終えていた俺は、本を返す時に伝えられる。借りるときよりも多くなった付箋を見て彼女は、私も最初はそうだったなぁと笑みを零す。

 それが、俺の見た最初の雪さんの笑顔だった。


「じゃあさっきの本も」

「だーめ。もう遅い時間だし、今は大丈夫だろうけど目は疲れちゃってるから」

 ファイルを広げて俺の名前が表記されたバーコードを当て、ピッと音が鳴ると彼女は俺に本を渡した。

「『キッチン』は私の中でも思い入れある本だから、くれぐれも失くさないようにね」

 

 雲が広がる夕方は段々と暗みが濃く、増していた。

 図書室の前で俺は彼女の戸締りを待つ。本当に1日経ったのかというくらい腹時計の時間は進んでおらず、お腹の音も鳴りそうになっていた。いや昼ごはんはまだ食べてないなと考えていると、ドアの方から鍵を閉める音が聞こえる。

「あれ、待っててくれてたんだ」

 そう言う雪さんは少し表情を曇らせた。

「あのさ、もし、違ってるのなら申し訳ないんだけどさ...」

 次の言葉を彼女が放つ瞬間、どこからか話し声が聞こえる。



「じゃ、改めて明日の大会後に告白するから」

「なによそれ~すっごい恥ずかしいんだけどっ」

 男女が手を組んで、サプライズ告白の計画をしながら歩いていく光景に、俺は目を離せなかった。いや正確には横にいる雪さんを見る事ができなかった。



 その数秒間があまりにも長く感じた。さっきまで図書室にいた時間がここで還って来ているのかというくらいに、例えればもう片方の踏切が間に合わない俺を待ってあら閉まるかのように。その一瞬は俺の頭の中をいっぱいにしてから過ぎ去っていった。


「わかってたんだ」

 彼らがいなくなって、どれくらい経ったか。きっと彼女が声を発さなければずっと続いていたような気がする。

「噂とか絡みとか見ててさ、あ、これは無理だなって。だから極力、頭の中心に置かないようにしてなんとか耐えてたんだよね」

 雪さんの声が、耳の近くで響く様に感じる。


「私は、こんなタイミング良く来る橘君を突き放したかった。なるべく淡白に、愛想尽かされるようにって。なのに橘君は構わず話しかけてくるんだもん」

 彼女に腕を掴まれて、体を壁に押し付けられる。

「不幸になる私に漬け込む様な人だったら、本当に許せないのに、どうしても橘君からはそういうのが感じられないの。むしろ身近なものに感じるぐらい、気を許しちゃいそうになるの」

 言葉の途中に微かな嗚咽が聞こえ、落としていた視線を上げる。その瞬間、彼女は俺の胸に顔を埋めた。


「ずるいよ、こんなの。頼っちゃうに決まってるじゃんか」

 少し跳ねている髪の毛に触れようとして、俺は慌てて手を遠ざける。

 頭の中の理解が、まだ追いついていなかった。奢ってはいけないと思いながら、慰めてあげたいと思うし、俺が来てしまったからこんな事になってしまっているという罪悪感も感じている。

 俺は胸に広がる、冷たさを帯びたそれを受け止めるしかなかった。


「ねぇ...」

 彼女は見上げずに、一言つぶやく。


「橘君って、私のなに?」


 この数日間で、春はいつの間にか終わりが近づき夏が始まろうとしている。

 どこからか、甘酸っぱい匂いがした。



『五月待つ 花橘の香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする』古今集139 詠み人知らず


 付箋が貼られていた1つに、その詩は記されてあった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る