七村紅緒と家族
まだ謹慎中のマジェンタを黒薔薇館に置いて私たちは学校に向かった。出るときマジェンタが「寂しいよー。みんなもサボろうよー」としきりに言っていたが誰も賛同しなかった。
今日は茜に代わり黄路さんの先導で学園へと向かう。茜のいない初めての登校だった。いずれ、一人でこの道を歩けるようにならねばならない。
少しずつ練習をしていこう。茜にはしばらく付き合わせることになるだろうが。少しずつできることを増やして、彼女に時間を返していきたい。
私たちは特別教室の前で別れた。
「よかったお昼を一緒に食べない?」
別れ際に黄路さんが誘ってくれる。
「いいんですか?」
「良くなかったら誘わないわ」
「じゃあ、昼休み迎えにくるよ」
何でもないようにそう言ってくれる。彼女たちの存在がどれほど心強いことか。
私は授業まで時間、小唄を歌ってしまいそうなほど嬉しい気分で過ごした。
灰谷先生のぱたぱたという足音も小気味よく聞こえる。
「ごめんなさい。待たせたかしら?」
「いえ、大丈夫です」
私は立ち上がり、入ってきた灰谷先生に頭を下げる。
「昨日はありがとうございました。マジェンタのこと」
「いいえ。でもあんまり人に言っちゃ駄目よ?」
いたずらの共犯者のようなチャーミングな声。灰谷先生の魅力の一つだ。
「ええ。わかりました」
いつもどおり、私の体調の確認から授業は始まった。調子を戻したみたいね。と灰谷先生は言った。昨日の孤独に怯える私のことをやはり先生には見抜かれていたらしい。
マジェンタたちとの触れ合いをきっかけに精神的な安定を私はまた取り戻していた。純白先輩や彼のことを思うと、まだ寂しさがうずく。けれど、世界に自分しかいないような、暮れていく箱庭に取り残されたような、感傷はもうなかった。
志安さんや黄路さんには、これ以上関わるなと言われたけれど、やはり彼のことは気になった。一年間彼にはお世話になった。その恩を、いや、そんな大義名分は必要ない。私は彼のことを知りたい。何か困っているなら力になりたかった。
「純白先輩ってずっとこの学院に通っていたんですか?」
「そうだと思うけど。早い子だと、私はあんまり高等部以外のことは知らないから」
「そうなんですね」
「ごめんなさいね」
「いえ」
授業はいつもどおり進んだ。夏に入って、最近の生徒たちの話題は期末試験と夏休み。それに今年最初の人気投票が行われる。今年取り仕切ってるのは黄路さんだと言う。あの人の行動力には本当に驚かされる。部活を何個も掛け持ちし、生徒会の仕事もこなして、私やマジェンタのことも気にかけて。そのうえ非公式な校内イベントのしきりまでやる。
私と灰谷先生のお喋りは一限目の終了を伝える鐘の音で切り上げられた。
次は現国の緑先生。その次は青海先生。この日、私が待っていた赤星先生は、四限目だった。
私が誰からか純白家の事情を聞き出すならこの人しかいない。けれど決して人の家のことを吹聴するような人ではない。わかってはいたけれど壁は固かった。
「そんなことより、勉強しろ」
と怒られる始末。質問攻めにしてどうにかできる相手ではない。私は純白家のことを赤星先生から聞き出すことは一度諦めねばならなかった。代わりに
「マジェンタは、どうなるんですか?」
「まだ決まってない」
「そんな。少しでもわかってることを教えてください」
「学院としてはあれだけのことをして不問にはできない」
確かにそうだろう。だが、赤星先生なら何かの温情を引き出せるのではないか。私が期待しているのはそのことだ。けれど今のところその欠片も感じられなかった。
「わかりました。けれど、何かわかったら、生徒に伝えてもよくなったら、私にも教えてくださいませんか? マジェンタは大切な友人なんです」
「……わかった。まず何かしらが決まればマジェンタに伝える。その後、マジェンタに伝えたことを教えよう。内容はマジェンタから聞くんだ」
「わかりました」
大丈夫。この人なら大丈夫。胸のうちの不安を無理やりにかき消して、私は赤星先生を信じる。
昼休みになると、予告のとおり志安さんが私を迎えにきてくれた。今日もまた場所は生徒会室らしい。
「いつも私たちが使って大丈夫なのでしょうか?」
「昼休みにまで委員会活動をしようとするのは黄路と小金さんしかいないから大丈夫だよ。小金さんはそこまで真面目に委員会に取り組んでるわけでもなさそうだし。ご飯の場所として使う分には問題ない」
「そんなものなんですね。生徒会って入ったことがないからわからないんですけど。部外者の私が入ってしまってもセキュリティ的には問題ないのですか?」
「セキュリティ?」
「ええ、見ては行けない書類があるとか」
「ははは。紅緒は生徒会に夢を見過ぎてるね」
「なっ。そんなこと、ないと思いますけど」
「あ、気をつけてね。段差あるよ」
「はい、ありがとうございます」
「生徒会はそんな機微情報を扱ってなんてないよ。まあ、生徒に見られて困る資料があるとしたら、部活の予算割案とか、修学旅行の行先とかぐらいかな」
「予算案なんて、大切そうに見えますけど」
「最終的には公表してるからね途中経過を見られたくはないけど、見られたら見られたで別にいっかって感じだよ。委員が兼部してると、教えちゃうぐらいなんだ。兼部先にね。生徒会が作る予算なんてその程度の重要性だよ」
「そんなもの、なんですね」
「高校生がやってる自治活動もどきなんだ あれは。セキュリティもコンプライアンスもあったもんじゃない。知り合いの頼みじゃなけりゃ付き合いきれないよ」
なかなか辛辣な言葉だ。几帳面な志安さんからすれば、どうしても高校生や中学生の自治に対する意識は低すぎるのだろう。
「中等部のとき、参加していたのは……」
「純白さんがいたから。あの人の考え方は、私とは違ったけど筋は通ってた」
「どんな考えだったのか聞いてもいいですか?」
ふっと志安さんが息をついた。笑ったのかもしれない。
「学生にまともな自治活動が任せられないぐらい学院もわかってるって言われたのさ。学院は自治活動というお題目だけ与えて、本当に自治活動をしてほしいわけじゃない。本当は生徒同士のコミュニティ作りをしたいんだって。若い時の人付き合いは財産になるからって。そのための方便の一つが生徒会。他の部活や委員会だっておんなじだって。きみもなにか一つぐらいコミュニティに入ったほうがいい。そう誘われたの」
「興味深い意見ですね」
「だよね。あの人はやっぱり見えてるものが違ったよ。だから、あの人がいない生徒会には興味がないんだ」
「そうしたら、黒薔薇の会は……?」
なにか一つぐらい。純白先輩がそう誘ったコミュニティが今は黒薔薇の会になった。そのコミュニティから純白先輩が抜けた今、志安さんはどれほどの愛着が黒薔薇の会に残っているのだろうか。
自分が所属しているわけでもないのに黒薔薇の会が純白先輩の死を契機に崩壊していくのは悲しかった。
「一つぐらいは続ける。純白さんのアドバイスだしね」
「よかった」
「紅緒はどうなの? きみは文芸部というコミュニティにいたわけだけど、そこに参加していた二人は両方ともいなくなってしまった。きみのコミュニティはもう崩壊してる。何処かに入り直したりはしないの?」
「黒薔薇の会に誘ってくれているのですか?」
「さあ。新しい会員は全会一致で入会が認められる。紅緒の入会が議論されるなら、私は賛成にいれるけど他の会員はわからない」
「そうなると黄路さんを説得しなくちゃいけませんね」
「そうだね。黄路は頑固だから、一旦反対意見をいった以上は曲げないと思う。紅緒が一人で本を読めることを証明しないと賛成には意地でも入れないだろうね」
「それは難しいです」
「そうだね」
「……私はもっと孤独になれないといけないのかもしれません。私は人に頼りすぎます。誰かの好意がなくても生きていける。それぐらいにならないと、私は人の好意を消費して生きていくことになる。それは嫌です」
「自立することと孤独に浸ることは違うよ」
「わかっています。けれど一度距離を取らないと、私は人の好意を食い潰すことをやめれない。それこそ慣れすぎているんです」
「にしてもストイックすぎると思うけど」
「……わかっているんです。わかっているんですよ。茜は今どうやって暮らしているのか。私たちの生活費はどうなっているのか。想像くらいつきます。父がお金を払ってるはずがない。茜はほとんど無給でしょう。私たちの生活費は赤星先生が持ち出してる。今の私はいるだけで、あの二人の足を引っ張っている」
「それの悪いところがわからない」
「悪いところだらけじゃないですか」
「私は父も母も健在だ。母は私が実家に帰ればあれこれと世話を焼いてくれる。それに私はお金を払ってなんかないよ。私の生活費は父が働いて出してる。これを父の持ち出しだと言えばそのとおりだよ。紅緒となにが違うの? 子どもはね、世話がいるし、お金がかかるんだよ」
「志安さんは家族じゃないですか。私と彼らは家族じゃない。彼らは他人の面倒を見されている」
「違うよ。それは間違ってる。きみは他人に迷惑をかけてると卑屈になるんではなくて、茜さんや赤星先生が私の家族だって胸を張って言うべきなんじゃないの? そうしないとあまりに彼らが不憫だ。世話になってると思うなら、きみの家族のことを思うなら、きみが彼らに向けて壁を作るべきじゃない」
「……っ」
茜や赤星先生が家族。その言葉に頭が真っ白になった。考えたこともなかった。そんなふうには。
「……家族」
呟いて、すっと胸に言葉が染み込んでくる。
そっか。茜が。赤星先生が。私の家族だったのだ。そう思うと胸のうちが暖かくなっていく。
「まあ、家族から自立しなきゃいけないのは、もう全子ども共通の課題だから。大学出るまでは脛を齧って生きていく気まんまんだけど。それまでにはなんとかなるよう、一緒にがんばっていこ?」
「ええ。そうですね」
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