七村紅緒と友人たち

彼を探すということは、私にとっても都合のよい、日常から目を逸らす道具だったのだろうと思う。

純白先輩の死とそれがもたらす変化を私はわからないふりをしていたのだ。

純白先輩は亡くなり、彼は既に学院にいない。

めりはりのない生活から延長された空気が私の胸のうちを満たし、思考は取り留めもなく、この頃は集中力も落とした。

マジェンタが特別教室へ授業をサボってやってくることもない。マジェンタはどうなったのだろうか。けれど、彼女の進退を赤星先生に聞くこともしなかった。

ただ漫然と教室へ行き、授業と課題をこなす。あんなにも豊かで暖かかった楽園は、灰色の無味乾燥したものへと成り下がっている。

勉強にも読書にも意味を見出すことができない。私がどんなに頑張ったって、私のできることは増えない。失われるばかりの人生になんの意味が。こんな私が永らえて何になるのか。ネガティブなことばかり考えてしまう。

私が午後の自習をしていると、引き戸がノックされてがたがたとガラスが鳴った。

「開いています。どうぞ」

「お勉強中ごめんなさい。お邪魔してしまって」

「いえ」

訪ねてきたのは黄路さんだった。

黄路さんは特別教室に一歩だけ入ってそこから動こうとはしなかった。

「ねえ、紅緒さん。この間話した、ビデオが見つかったの。よかったら放課後寮まで見に来ない?」

今更純白先輩の劇を聞いて何になるのだろう。

「寮にならマジェンタも居るわ。よかったら、あの子とも話してみてくれないかしら。あの子、部屋から出て来なくなってしまって。紅緒さんの言葉なら耳を貸すかもしれないし」

おそらく、マジェンタの話が本題なのだろう。彼女もまたあの事件以来塞ぎ込んでいるようだ。

「私が話してもマジェンタの心を開くことはできないと思いますが」

それだけ彼女の中の純白先輩は大きかった。

わたしはどうだろう。純白先輩の死を悲しんでいるのか。彼との別れを悲しんでいるのか。

「そうかもしれない。でもやってみないとわからないじゃない」

「私の言葉なんて……」

「自分を卑下するものではないわ。マジェンタのため、力を貸してほしいの」

黄路は強い。それに比べ私は弱かった。彼の支えがなければ立つこともままならないほど。

「私は黄路さんほど強くありません。黄路さんにできないなら、私にもできません」

「……何よそれ? どういう意味?」

「私は黄路さんほど恵まれてはいないということです」

「意味がわからないわ。恵まれてないって。貴女もマジェンタみたいなことを言うのね」

「事実です。私にできることなんて、なにも」

「あれができない。これができない。ってうるさいわね。恵まれてないってどういうこと? 私からしたらね、貴女はびっくりするぐらい恵まれているわ。貴女はなにもしなくても、なんでもみんながやってくれる。貴女は恵まれすぎてるぐらいよ。何もしてなくても、みんなが気にしてくれる。貴女、それが当たり前だなんて思ってないでしょうね?」

黄路が言葉を切った。溢れる言葉を押し留めようとしているようだが、その努力は無駄だったようだ。

「私が恵まれてる? 当たり前でしょ。今の立場や権利を得るため、私がどれだけ努力したかもしらないでしょ。注目を集めるために、お稽古を増やしたり、コンクールで入賞して、いろんな部活に顔を出して、知り合いを増やして、面倒な寮の監督係だってやるわよ。そうしなきゃ誰も私を見やしない。貴女が当たり前に連れているメイドを私が学院に連れるまでどれだけ大変だったと思う。学院にお願いして、ヤマブキにも頼み込んで娘を転入させて。

迎賓館に住んでる? あの館に私たちが居着くのにどれだけがんばったと思うの? 先生に頼み込んだ? ルール違反して鍵を持ち出した? 私から言わせればね、貴女は何もしてないわ。ずるみたいにもらってばっかり!

私にできないことは、できない? じゃあできるように頑張りなさいよ! 何もしないくせに、できないできないと喚くな! できないなんて弱音はね、やれることは全部やって! それでも駄目で、考えられる知恵を全部絞って! それでも結果が出なくて、もうやれることなんて一つもなくなってから……夜のベッドで一人で言う言葉なの」

はあ。はあ。と黄路さんが肩で息をしている。

「……ごめんなさい」

黄路さんがごくりと唾を飲み込んだ音が聞こえた。弾む息を整えている。

「取り乱したわね。ごめんなさい。けれど、謝ってほしいわけじゃない。でも、紅緒さんは私が思っているより、ずっとつまらない人だったみたい。純白先輩が気に入っていたから、もっと芯のある人かと思ってたわ」

黄路さんの言葉が胸に深く刺さる。

私は何も言い返すことができない。ため息をついて、去っていく黄路さんの足音を一人で聞いていることしかできなかった。

黄路さんの言葉を胸で反芻する。確かに、私はまだ何もやっていない。生きることを手放してしまうほど、純白先輩は悩んだに違いない。それを理解もせず、去った彼を追いもしない。私はただ痛みに酔っているだけだった。

この頃は部室にも顔を出していなかった。茜はそれを知っていたから、授業が終わるとすぐに特別教室に現れた。

「寮に向かって。マジェンタに会いに行くわ」

茜は何も聞かず、寮へと向かってくれた。

放課後になってすぐの寮はまだ人が疎らだった。下校中の生徒を捕まえて、マジェンタの部屋を聞いた。彼女の部屋の前で、茜をロビーまで下がらせる。

私は意を決して、マジェンタの部屋をノックした。私の表情と同じくらい固いノック音が響いた。

「マジェンタ。紅緒よ。開けてくれないかしら」

部屋の中で気配が動いたのが伝わってくる。けれどドアは開かなかった。もう一度ノックする。

「マジェンタ。お願い。貴女に会いたいの。声を聞かせて」

反応はない。私はドアの前で立ち尽くした。

もう一度ノックをしようかと、手を再び上げたとき、ドアからかちりと音がして、開いた。

「……紅緒?」

弱々しいマジェンタの声。

「ええ。そうよ。開けてくれてありがとうマジェンタ。入ってもいいかしら?」

「……うん」

私はマジェンタの誘導に従って部屋へと入った。

寮には数日いたことがあるから、部屋の構造はわかる。入口から細い廊下が少しあり。奥に長方形の部屋がある。廊下から左右の壁にそれぞれ机とベッドがある。それが基本的な二人部屋の構造だった。三年生以外はみんなこの二人部屋だ。

マジェンタは私を部屋に向かって左側のベッドへと導いた。

「ルームメイトはいらっしゃるかしら? 入っても大丈夫?」

「……私は一人だから」

「そう、なんだ」

「……うん」

なるほど。だから、一人で閉じ籠もることができるのか。

私はマジェンタのベッドに腰掛けた。スプリングの傾きから隣にはマジェンタが座っていることがわかる。

「調子はどう?」

「あんまり……」

「最近は閉じ籠もってるって聞いたけど」

「謹慎中だもの。言われたことを守っているだけ」

「確かに。そうね。謹慎はいつまで?」

「一週間って言われてる。その後は、わからない」

「赤星先生が悪いようにするはずないわ。きっと大丈夫よ」

「うん」

赤星先生は私たちにとって保護者のような存在だ。私にとってもマジェンタにとっても、この学院にいれるのは彼のおかげだろう。あの人がマジェンタを放り出すことなんてあるはずがない。

私はマジェンタの手を握った。乾燥している。手は細かく震えていた。あの事件の後、ずっと一人で悲しみに耐えていたのだろう。いや、それよりも前。純白先輩が亡くなってからずっとか。

「一人で過ごして、辛くない?」

返事はしばらくなかった。私はマジェンタが何を言っても聞き逃さないよう、耳を傾けた。ずっと遅れて、とても小さな声で「……辛い」と聞こえた。声は涙に濡れていた。

私はマジェンタを抱き寄せる。

「ごめんなさい。そうよね。そうに決まってるよね」

マジェンタの嗚咽が抱き寄せた腕の間から聞こえた。

「マジェンタがよかったら、しばらく黒薔薇館に来ない? 一人で部屋にいるより、いいかもしれないと思ったのだけど」

マジェンタの泣き声が少しの間だけ止まった。

「もちろん、先生の許可はいるだろうけど。灰谷先生に頼めばきっと許してくださるわ。私もマジェンタが一緒にいてくれると嬉しい」

私も一人で部屋にいると、すぐに塞ぎ込んでしまう。誰かと一緒にいたほうが気が紛れる。

「それで、よかったらサッカーを教えてくれない? 黒薔薇館の玄関前は少し広さがあるし、ボールを蹴るくらいならできないかしら?」

マジェンタの嗚咽が少し激しさを増した。私は慌てた。

「ごめんなさい。無神経だったかしら」

「ううん。違う。嬉しいの」

「そう。……よかった」

「ありがとう。紅緒」

「いいえ。私のほうこそ、マジェンタに助けてもらってる」

友人がいるもいうことが、こんなにも胸を暖かくしてくれる。

私たちは無言でベッドで抱き合っていた。

不意に、ドアがノックされる。

「マジェンタ? 調子はどう? ご飯くらい食べなさいよ?」

黄路さんの声だ。少し突き放した感じだけれど、マジェンタのことを心配していることはわかる。

「黄路さんって、すこし素直じゃないよね」

私が言うと、マジェンタが少し笑った。

「開けてもいい? 黄路さんにも大丈夫だよって伝えたほうが良いと思うわ」

「……うん」

「ちょっとまっててね」

私は少し壁に手をついて、廊下に戻り、ゆっくり慎重にドアまで戻る。

「ちょっとマジェンタ。いるんでしょ? 返事くらいしてよ!」

黄路さんが変わらずマジェンタに呼びかけていた。

「今、開けます」

「え」

突然、マジェンタ以外の声がしたことに困惑したのだろう。黄路さんがやや調子外れの声が聞こえた。

ドアをゆっくりと押し開く。

「なんだ、紅緒。来てたの?」

正面からやや外れたところから志安さんの声がする。

「ええ、お邪魔しています。どうぞ中へ」

私がそう言って、二人を連れて部屋へ戻る。

私はもとのマジェンタの隣に座ると、向かいのベッドから軋む音が聞こえた。二人はそちらに座ったらしい。

誰もなんと声をかければよいのか忘れてしまったように黙りこくっている。

「マジェンタ。久しぶり」

「……うん。久しぶり」

気まずそうにマジェンタが答えた。

気詰まりな沈黙に絶えられず私は二人に話を振った。

「そういえば、黒薔薇館に泊まりに来ないかとマジェンタをお誘いしていたんです」

「へえ、おもしろそう」

「マジェンタ。貴女、謹慎中でしょ? それに一応、外泊許可がいるのかしら? でも、学院の敷地内よね」

「面倒だからそこらへんは、灰谷先生に誤魔化してもらうでいいんじゃない?」

「実は私も寮の手続きは詳しくないので、同じことを考えてました」

「もう紅緒さんまで。手続きは必要だからあるものなのよ?」

「でも、紅緒って学院的には寮住まいという扱いじゃないの? じゃあ黒薔薇館は寮と言っても過言ではないのでは?」

「……また変な屁理屈を思いついたわね。貴女」

「寮の他の部屋で寝るのに許可いるのかな?」

「寮にいるなら自分の部屋で寝なさいよ。別の部屋で寝るなんて考慮されてないわよ」

志安さんと黄路さんのやりとりが可笑しくてくすりと笑った。隣からも小さく笑い声が聞こえる。普段の彼女たちの仲の良さがわかる。わたしといると泣いてばかりのマジェンタが笑っている。

「よかったらお二人も一緒に泊まりにきませんか?」

「わたしたちも?」

「一人も三人も変わりませんよ」

「いや、変わるわ。部屋数足りてないでしょ?」

「足りてるよ」

「足りてないわよ」

「紅緒と茜さんはそれぞれ自室。マジェンタは空き部屋。私は居間のソファでいいよ」

「それで、私は?」

「使用人部屋」

「私に使用人部屋で寝ろですって!?」

「冗談だよ冗談」

志安さんが冗談を縦横無尽に扱っている。笑いをこらえるのが大変だ。こんなにも冗談を言う人だとは知らなかった。

「マジェンタ。よかったら私の部屋で一緒に寝ない?」

「……うん。いいよ」

「ちょっと紅緒さん! 破廉恥よ同衾なんて!」

「使用人部屋で寝る決意ができたのか」

「違うわよ!」

「紅緒、マジェンタの貞操と自分のプライドどっちが大切なの?」

「な、なんで私がそれを選ばないといけないのよ」

「他に選択肢がないから」

「な、なな。……いいわ。紅緒さん、マジェンタ。二人で寝なさい」

思わず噴き出してしまう。マジェンタも可笑しかったらしいくつくつと抑えた笑い声が聞こえる。

「黄路。自分のプライドを優先した」

初めてマジェンタが会話に参加した。私はそのことが凄く嬉しかった。

「当たり前でしょ。貴女たち自分の貞操ぐらい自分で守りなさいよ」

私たちは声を出して笑う。

冗談を交換することで、部屋にあった気まずい雰囲気はもう霧散している。

相談して黒薔薇館のお泊りの許可をもらいには私と黄路さんで向かった。結局、灰谷先生に外泊は誤魔化してもらうつもりだった。

「捕まって」

黄路さんがそう言っては肘を差し出してくれる。

「ありがとうございます。……それに学校ではお恥ずかしいところをお見せしました」

「気分が落ち込んでしまうことは誰にでもあるわ。……私のほうこそ、酷いことを言ったわね。謝らせて」

「いえ、黄路さんがおっしゃったことはすべて本当のことですから。私はまだ何もしてない。黄路さんのお陰でできることからやっていこうと思えたんです」

「そう」

「ええ」

少し間が開いて、黄路さんが唐突に意地悪な声を出した。

「そういえば、『王子様』は見つかったの?」

「え、なんでそれを」

なんとなく黄路さんが意地悪な笑顔を浮かべてる気がした。

「私と志安とマジェンタの間に秘密はないのよ。この三人の誰かに話したら、全員に伝わってると思わなきゃ。このところマジェンタは孤立してたけど。きっと今頃部屋では、志安がぺちゃくちゃ話してるわよ」

私はかっと顔が赤くなるのがわかった。

「噂好きなのは、黄路さんたちも変わらないんですね」

「もちろん。この学院の生徒はみんな好きって言ったでしょ。私だって同じ」

「三人の間には、本当に秘密はないんですか?」

「まあ、あるとしたら、純白先輩のことをそれぞれがどう思っていたかぐらいでしょうね」

「黄路さんは、どう思っていたんですか?」

「さあ。……どう思っていたんでしょうね。自分でもわからないわ。尊敬していたとも思うし、嫉妬していたとも思う。憎んでさえいたかも。あの人こそ本当に、なんでも持っていたからね」

「黄路さん……」

「死んでせいせいした、と思っているところはあるの。でも自分でもただ強がっているんじゃないかって気がする。本当に、わからないの。紅緒さんはどうなの?」

私は、どうなのか。私は……。

「悲しいです。純白先輩が亡くなって、彼もいなくなった。私にとってはお二人が学院のすべてに近かったから、お二人は私の目が見えないことを忘れさせてくれました。おかしな表現ですけど、お二人がいた世界は色づいていたんです。今はまた、私の前には暗がりしかありません」

「そう。辛いわね。それでも貴女はその暗がりの中に歩き出しているのね」

「迷っているだけなのかもしれませんが」

「そうね。でもそんなものよ」

「ええ」

私たちは学校から戻っていた灰谷先生を見つけ、外泊のことを話した。灰谷先生は驚いていたけれど、「任せて」と言ってくれた。

「マジェンタをよろしくね」

「はい。ありがとうございます」

私は部屋には戻らず、黄路さんにロビーへと連れて行ってもらう。そこで茜と合流した。

「私は二人に伝えてくるわ。紅緒さんはここで待っていて」

「はい、わかりました」

黄路さんが一度去ると私は事情を茜に共有する。

「ごめんなさい。急に決めてしまって」

「いえ、お客様を迎えられ、私としても光栄です。腕によりをかけ、おもてなしさせていただきます。お嬢様に恥はかかせません」

「ありがとう」

「実は、お嬢様がお客様を連れてくることをずっと心待ちにしていたのです。お客様をお迎えできて、私も嬉しいです」

「待たせてしまってごめんなさい。私は友達を作るのが、あまり上手くなくて」

「そんな。お嬢様は魅力的な方です。ご自分も卑下なさらないでください」

「ありがとう」

茜はいつも私に暖かさをくれる。茜が私に付いてきてくれてよかったと思う。

私たちはロビーで三人が降りてくるのを待った。

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