彼の手紙
茜に連れられ黒薔薇館にもどった後、私は自室に引き込んだ。茜には夕食まで、私に構わなくていいと伝えている。
志安さんの推理は少なくない衝撃を私に与えた。
純白先輩の死の前後で彼が入れ替わっているという彼女の予想は大胆ながらも、一定の合理性は見出せた。少なくとも一人。『学校では会うことができない』候補を思いついた。
だが、とも思う。入れ替わりの前提は、純白先輩の死の前。彼は純白先輩の一人二役とすることだった。そんなことをする意味があるだろうか。いや、私はその前提を信じるのか?
文芸部の部室での思い出。その中には確かに二人が存在した。人が同じ部屋にいるかどうかぐらい私でもわかるつもりだ。志安さんがやったように、隠れて気配が消えるのではなく、一人が二人分の気配を出すのは話がまったく別に思えた。
話す時の癖や声は変えることができるかもしれない。けれど、声がする位置や動作が示す気配はそう簡単にはごまかせない。志安さんが示した純白先輩の一人二役という前提に無理がある。
例えば私が文芸部に入ったばかりに行った部室の整理がある。私は純白先輩が選んだ捨てる本を次々と縛った。それを外に運び出したのは彼だ。これを一人二役の場合どのように説明するのか。ほとんど不可能だ。
それだけの否定材料をもちながらも、私はまだ志安さんの言葉を考えていた。
「純白さんが死んだ後、誰かが引き継いだ可能性は消えてない。加えて、その段階で『学校では会えない』という新たな条件が加わる」
私が考える限り、入れ替わりが起こっていないなら、彼の候補はもう
しかし入れ替わりが起こっているなら、状況はもっと複雑になる。
純白先輩の死後に追加される『学校では会えない』という彼の条件。この条件については、彼の正体が小金さんどころか黒薔薇の会の誰であっても、すっきりとした説明はつかない。
けれど、黒薔薇の会以外にこの条件に説明がついてしまう人物が一人だけいる。
その人物は学校に通っていない。
それでいながら、彼の存在を認識しており、黒薔薇の会のことを知り得る(しかしこれは純白先輩の手記を入手さえできれば知ることができる)人物。
私は部屋の明かりを落として、『彼』が来るのを待った。
問い詰めてしまうつもりだった。
これまで彼は、私に正体を明かしてこなかったから、問い詰めたところで正体を明かさないかもしれない。
けれど、私が今予想している人物なら正体を当てられてまで嘘を突き通そうとはしないだろう。
やがて部屋の扉が開き、彼が入ってきた。
ぎしりと椅子が音を立てる。
「こんばんわ」
そう話す声は低く少年のように抑えられている。入れ替わりがあったなんて、私には聞き分けられなかった。
「また来てくれたのね。嬉しいわ」
「来れるうちはね」
そう言いながらも、毎日来てしまう。『今の彼』はわたしを気遣うあまり、どうしても足をはこんでしまうのだろう。
「お願い。手を繋がせて」
「どうしたんだい? 今日は甘えん坊なんだね」
「ええ、甘えたくなる日もあるの」
いや、私はいつも誰かの好意に甘えてきた。
純白先輩。学院。赤星先生。灰谷先生。私は誰かの好意で生かされ続けている。『彼』もまたそうだ。
彼の手を取る。細い指。少し固くなった肌。指先が荒れているのは、私の代わりに水仕事をしているからだ。この手にいつも守られてきたのだ。必要があれば私を守りながら武器さえとって。
注意深く探ればそれが誰の手なのかなんて明白だった。私は自分のことばかりで、『彼』の気遣いにも気付けないでいたのだ。自分が不甲斐なかった。
私はその手を頬にあてる。
「茜。あなただったのね」
手が驚きで引き戻される。『彼』は何も言わなかったが、その反応こそが、私の言葉が正しかったことの証左だった。
茜はすべての条件を満たした。
茜は彼に直接会っている。茜は葬儀に出ておらず、会員に先んじて手記を得ることができる。
手記に書いてあることは読んで知ることができる。
しばしの静寂のあと、茜が言った。何の演技もない。茜自身の声だ。
「いつから、気づいていたのですか?」
「今日のお昼に、志安さんと話していて思ったの。やっぱり学校で会えないというのは変よ。彼は学院の生徒だったはずなのに」
「……そうですね」
「いつから、貴女だったの?」
「純白様の葬儀から戻られた後です。お嬢様たちが葬儀に向かわれたあと、居間でご友人からのご伝言を見つけました。……伝えなければと思っていたのですが、純白様のことでお嬢様は酷く心を傷めてらっしゃったので、……告げるのが忍びなく」
「葬儀の夜からということ?」
「はい。誠に……申し訳ございません」
「ごめんなさい。貴女に辛い思いをさせたわね」
「お嬢様が謝らないでください!」
「いえ。貴女が嘘をついたのも、もとは私の不徳が原因です。私の弱さを貴女が庇おうとしてくれたのでしょう?」
「……しかし」
闇の中から手を辿って茜の頭を抱きかかえた。茜の顔が当たる胸のあたりが湿った。
「でも、茜。どうしても約束してほしいの。もう二度と私に嘘はつかないで。私は貴女を信じられなくなったら、もう何も信じられないの。だから貴女はどうか私に嘘をつかないで」
「はいっ……! はいっ……!」
胸のあたりにできた染みが広がっていく。しゃくりあげる茜の声が何度も部屋に響いた。
私は不出来な主だ。彼女はこんなにも懸命に仕えてくれるのに、私は彼女のために何もしてあげることができない。せめて、彼女の心の傷みが少しでも和らぎますようにと祈る。小さい頃、茜がしてくれたように、私は彼女の頭を撫でた。
ゆっくり。ゆっくりと、茜の波のような感情のうねりが収まったいく。茜の呼吸が落ち着いていく。
「茜。もう一度教えて」
「はい」
「貴女が彼のふりを始めたのは、純白先輩の葬儀の夜からで合ってる?」
「おっしゃっるとおりです。葬儀にご友人とお出かけになられた後、そのご友人の伝言とお渡しした本を居間で見つけました」
やはり純白先輩の葬儀に向かったのは彼とだったのだ。
これが何を意味するのか。純白先輩は既に亡くなっている。つまり入れ替わりの前提としていた、純白先輩の一人二役が否定される。彼は一人二役などではなく、確かに存在した。
そのうえで、入れ替わりは起こっていた。
「彼の伝言を教えてもらっていいかしら?」
よりにもよって茜が私を騙した。その行動に嫌な予感がする。なおも躊躇う茜を説得して、その手紙を読み上げさせた。
『親愛なる紅緒
未だ自分の名前を名乗らない、僕の非礼を最初に謝っておく。また、僕はきみを置いて学院を去らねばならない。きみとなんの隠し事もなく接することができる日々を楽しみにしていたが、どうやらそのような日々がくることはないようだ。本当にすまない。
純白紗智の死はきみの人生を一変させてしまうだろう。本来、僕はこんなことを言えた立場ではないのだろうが、できればきみは彼女を責めないでほしい。彼女は十字架を自らを背負わなければならなかった。いや、彼女に十字架を背負わせたのはまぎれもなく僕だ。僕はこれ以上彼女のような人間が生まれぬよう、できるだけのことをするつもりだ。
僕だけでなく、純白紗智もまたきみに多くの秘密を持っていた。これから、きみは知らなかった彼女のいち面を知るかもしれない。けれど、どうか勘違いしないでほしい。紗智も僕もきみのことが大好きだった。きみを除け者にし、嘲笑っていたのでは決してない。紗智にとってきみは太陽のような人だったに違いない。もちろんそれは僕にとっても。
とりわけ、きみの周囲には黒薔薇の会という集団が現れることだろう。これは紗智が中学の頃組織していた生徒会を母体とする読書倶楽部のようなものだ。学院に内緒で非推奨の本を読んだりする、非公式な集まりではあるが、何も悪い連中ではない。お嬢様たちが、教師に隠れて少し背伸びをしたいという程度のグループだ。
まったくきみに責のあることではないのだが、きみは今、文芸部の部室を彼女たちから取り上げており、きみが今住んでいるこの館ももともと彼女たちが拠点にしていた。(この館のことを黒薔薇館と彼女たちは呼んでいる。)彼女たちももしかしたら何か行動を起こすかもしれない。
もし彼女たちのことで困ることがあれば、灰谷先生を頼るといい。最初は灰谷先生もしらを切るかもしれないが、漆という呼び名で呼べば話をきいてくれるだろうと思う。
また紗智が残していた手記を置いていく。彼女たちのことはこの本からもわかるだろう。必要があれば茜さんにお願いして読んでもらってくれ。
他にもきみに伝えておかなければならないことがたくさんある気がする。そんなことが気になって長々と書いてしまった。だが、それもいい加減終えようと思う。きみは僕が思うよりずっと強い娘だし、僕が心配するようなことは、もしかしたら何も起こらないかもしれない。
ともかく、紗智や僕のことはあまり引きずらないでほしい。紅緒が僕たちが愛した笑顔をずっと浮かべていてくれることを願っている。
どうかお元気で。
きみの「僕」より』
茜は読み終えた手紙を手渡した。
受け取った私は強い気持ちのあまり、その手紙をくしゃくしゃにしてしまわないよう、そっと、本当にそっと優しく持った。意識してそうしていなければ、彼が残したたった一つの手紙を傷つけてしまう。
わかったことは彼は既に遠くへ行ってしまったということだ。彼は純白先輩の葬儀に私と一緒に出かけてきっと学院には戻って来なかった。
私は一人置き去りにされたような、寂しさが胸の中で膨らんでいく。
彼は葬儀への道中、涙を流しながら私に謝っていた。私に酷い事をすると。
彼の熱い涙を思い出す。私は、彼の懺悔をあのときもう赦した。彼を恨むことだけはすまい。私はそっとその手紙を傷つけぬよう。胸に抱いた。
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