純白紗智の手記 2
3月6日。天気は崩れるかと思われたが、なんとか持ってくれた。雨が降ると、会場との行き来が大変になる。足元の泥には、毎度、皆処理に困っている。泥をつけた靴で寮に戻るわけにもいかないからだ。かといって目立つ舗装路を行って誰かに見つかるのもまずい。この日は幸運だった。
今回の課題図書は少女コレクション序説。
大人の男という視点から、少女へのある種の収集欲を淡々と語られることに、その身分の隅に身を置く者としては、気味の悪さを感じないでもなかった。しかし、着目は悪くない。私自身、著者と通ずる部分があることも否定できない。
この本は会員にも概ね好評だった。漆は鼻高々だろう。以下に簡単に発言をまとめる。
黒曜石の考察は皆から称賛を集めていた。彼女の読みの深さにはいつも驚かされる。彼女の感受性はこの会の財産といって差し支えない。
唯一、
みな、少なからず少女をコレクションする側の視点に共感していたが、猩々のみが理解できていなかった。
だがそれが猩々の良さでもある。
我々はみなそれなりの立場がある。この会ではそれを忘れられるが、捨てれるわけではない。そのことを猩々は思い出させてくれる。
読書会のあとはゆったりとしたままで、お茶会となることが多い。この日もそうだった。
猩々と黒曜石が慣れた手付きでカップを出してくれた。会場を変えてそろそろ一年になる。以前の会場は便利過ぎた。広すぎるぐらいのリビングにキッチンが直ぐ側にあった。滅多に誰も立ち入らないから、持ち込んだものもそのまま置いておくこともできた。
それに比べれば今は、お湯を沸かしたくても、ケトルを持って教室棟まで行かねばならないし、使ったカップを洗うのにも同じ場所までいかねばならない。普段から使われている部屋だから、持ち物も巧妙に隠さねばならなかった。猩々と黒曜石がそのあたりの管理を上手くやっているが、彼らの卒業や進退次第で、また会場を再考しなければならなくなるという問題もあった。
漆には何か考えがあるようだが、すぐに解決することは難しい話だ。
夜が入れてきてくれた水を沸かしている間、会はやはりその話になった。
何人かは七村紅緒を会に引き込むべきだと言う。
そうすれば、また以前の会場が使えるからだ。しかし、現実的には難しいだろう。我々が課題図書として会にかける本が必ず点訳されているとは思えない。読書会に参加するとなれば多くの場合、彼女は使用人に本を読み上げさせることになるだろう。直接会に参加していない、彼女の使用人にまで会の内容が知れることになる。使用人もならば招くのかというと、
「紅緒ばかり特別扱いされるのは許せないわ」
夜がやはり反発した。彼女は紅緒に思うところがあるらしい。
「紅緒は何でも与えてもらえる。黒薔薇の会でまで特別扱いなんて絶対認めない」
「それは私怨じゃない?」
黒曜石の質問を夜は無視した。その子どもらしい反発に漆がため息をつく。
ケトルの駆動音が部屋の中に響き始める。
「私は紅緒が、文芸部に入ったのだって納得してない。まし…、
「紅緒が文芸部にいたところで、問題にならないことは何度も話しているつもりだ。彼女にあそこの蔵書を見られることはないし、逆に他の生徒が寄り付きにくくもなっていると思う。理にかなっているつもりだけどね」
「そういうことじゃない」
「まあ、文芸部のことはいいじゃないか」
猩々が仲裁に入る。
「そのとおりだわ。文芸部の部員が必ず黒薔薇の会員である必要はないし、その逆もまた然りよ。もちろんどっちの一員である人もいるけど」
「だからそんな話じゃないんだって。あの子だけずるいのよ。ずっとずるいの」
私の見る限り紅緒は、人との協調を重んじる良い子だ。彼女が彼女の責によらないところで悪く言われるのはなんとなく悲しい。とはいえ、学院では夜のような考えが一般的だった。ずっと新入部員を断り続けてきた私が紅緒を迎えたのは、私がレズビアンだからだと言う噂さえある。私と紅緒は課外活動中、愛をささやきあっているのだとか、何とか。私としては中立のつもりではあるのだが、外から見れば私も紅緒に肩入れをしているということか。
場には紅緒の問題が夜の感情の問題として受け止められ、膠着状態となりそうな雰囲気が満ちつつある。私は会話を進めるために発言した。
「紅緒を参加させるとなったら、彼女の使用人のことが問題になる。紅緒の参加は使用人にまで会の内容を伝えることになりかねないからね。黒薔薇の会の規則では参加には家柄が問われる。紅緒はよいが、使用人は駄目だろう」
「それはそうですけど……」
「まあ、これは烏の言うとおりだと思うね」
黒曜石はなおも反論しようとしたが、猩々がそれを制した。
「墨はどう思う?」
じっと耳を傾けているだけの墨に水を向けると、彼女は一つ頷いた。
「聞いている限りだと、三つ解決策があると思う」
「ぜひ教えてほしい」
皆も疎らに同意を示した。
「一つ目。会規を変えて、紅緒と使用人を引き込む」
「ありえない」と夜がほとんど悲鳴に近い声をあげた。
「二つ目。会規は変えず、紅緒だけを引き込む。その場合、紅緒は一人で読書する方法を見つけるか、他会員が補助して本を読むことになる」
「後のやつはないわ! 結局、特別扱いじゃないの!」
言ったのはやはり夜だ。本当は後者だけでなく紅緒だけ引き込むのも反対なのだろうと予想できる語気の強さだった。
「三つ目。紅緒に黒薔薇館から出て行ってもらう」
かちりと、ケトルが音を立てて湯が湧いたことを知らせた。
「ええ。ええ……それ。でも、いいんじゃない!?」
夜が心底嬉しそうに言う。
「いや、それはどうだろうね。私たちにどうにかできることではないよ。少なくとも私は請け負えない」
立場上、会と外部の接点となりやすい猩々が早々に否定した。視線は自然と漆に集まる。
「私にだってどうにもできないわよ?」
それはそうだろう。黒薔薇館は学院の持ち物で、学院が紅緒に貸し出しているのだから、そんな高次元の意思決定を捻じ曲げられるような立場の人間はここにはいない。
「ならどうやってやるつもりだったのよ?」
「具体的なやり方を考えて言ったわけじゃないから、実現可能かなんて検討してないよ」
「何それ? 無責任じゃない?」
墨は肩を竦めてみせる。何人かの紅緒と親交を持っている人間は目に見えて安心した様子だ。
「ただ、三つ目の候補をブレイクダウンしていくなら、次の段階は、『紅緒は寮に戻る』『紅緒は別の建物に移る』『紅緒は退学する』。この三つ以外にはないと思うけど」
「待ちなさい。墨。どれも現実的じゃないわ」
「ええ……そうね」
黒曜石と漆は反対派。関わりたくないのか、猩々は聞いているのかどうかさえわからない。
夜は目を輝かせている。
「でもできることあるんじゃない。ダメ元でもさ」
「さあ、それはわからない」
「きっとあるわよ」
夜は議論を加熱させたいようだ。
私はわざと音を立てて、席から立ち上がった。とうに湯の湧いたケトルまで行く。
「猩々。手伝ってくれないか?」
「ああ」
私がケトルの湯を使って紅茶を入れる間、猩々が人数分のカップを用意する。私たちが立てるかちかちという小さな音が部屋に響いた。
カップが行き届き、私たちが席に戻っても誰も口を開かなかった。まだ熱い紅茶を舌を湿らせる程度だけ口をつける。ゆっくりとカップをソーサーへと戻した。
「先に確認しておくけれど、この会は学院が私たちから遠ざけようとする本を楽しむためのもので、特定の生徒に悪ふざけをしかける陰湿な集まりではないはずだね?」
「……ええ」
黒曜石が頷いた。夜は目をそらしている。墨は何かを考えていた。
「会場のことは、これまでどおりだ。現会場については、猩々と黒曜石でこれまでどおり維持管理を。今後のことは漆が引き続き検討して。私も何か考えるよ」
紅緒の退学。まさか夜も本気ではないだろうが。
おそらく提案者の墨に悪意はない。彼女は考えることを愛している。論理的に合理的に課題を解決することが好きなのだ。夜に煽られ、紅緒から館を取り戻す方法を深く掘ろうとしただけだろう。彼女の思考を最初に起動したのは水を向けた私でもある。
「墨。何か良い方法が思いついたら、まずは私に教えてほしい」
「わかった」
私はそれぞれお茶を楽しんだら、この日は解散となった。私が最終的に紅緒を庇ったことが気に食わないのか、夜はずっと黙ったままその日はもう一言も喋らなかった。
黒曜石に後片付けを任せ、私も会場を出る。夜の闇に紛れ、寮へと戻る道すがら、ふと足が止まる。
森の落とす深い影の中、紅緒のことを考えた。彼女は普段からこんな世界にいるのだろうか。光を失っても人が生きていけるという事実にいつも驚かさせる。私が光を失えば、ああ上手くいくまい。
目前に見えてきた寮の明かりの中に墨が現れた。彼女は静かに施錠された扉を鍵で開け、寮の中へと体を滑り込ませた。
私は注意深く周囲をうかがって誰もいないことを確かめてから同じように寮へと戻った。
最後まで会場に残っていたのは黒曜石だ。彼女以外はみんなもう戻っているだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます