純白紗智のいない部屋

チャイムが鳴り、赤星先生が教室を去った後、数学と現国の授業を受けた。数学は青海先生という若い男性教師だ。私が少しでも授業を受けやすいようにと、いろいろ試してくれる。数学は苦手だったが、青海先生の授業は好きだった。現国は緑先生。赴任してきてまだ二年しか立たない。生徒と歳が近いからか、「緑ちゃん」と呼ばれているところを聞いたことがある。聞いてみると二人とも昨日の告別式には来ていたらしい。

今日の授業はここまでで、午後は自習となった。

点字のテキストを使った学習は、今のところ自習が最も効率が良い。先生たちはみんな点字を読めない。もちろん先生たちは点訳前のテキストを持っていて、私をサポートしてくれるわけだが、実際に私がどこを読んているかわからない、というのは、思いのほか大きな壁になっている。時間のかかる点読による学習時にまで先生たちの時間を奪うことはあまり意味がない。

午前中の授業で口頭で説明を受けて、午後はテキストで復習する。それが私の最も多い学院での時間割になる。

私が指先に意識を集中していると、軽いノック音がして扉が開いた。

「ごめんね。ちょっと入れて」

静かに扉を閉めたが、建付けの悪い扉はがたがたと少し音を立てる。

「マジェンタ?」

「うん。私」

「また、先生に叱られるわよ?」

「あはは。わかってるって」

マジェンタはときどき授業をサボる。そのときの隠れ場所として、お気に入りがこの特別教室だった。私は定期的にこうして自習しているから、どうにも都合が良いのだと。

「はあー。疲れた」

ぎい、と先生たち用の椅子に腰かける音がした。まるで椅子が抗議の声をあげているようだ。

「みんな、よくじっとして授業受けられるよなー」

「座って耳を傾けるだけじゃない」

私はまた指先に意識を集中しようとした。

「それが難しいんだよお」

昨日のセレモニーホールで泣き続けていたマジェンタを思い出す。少なくとも今日の彼女はいつもどおりに見えて少し安心する。

純白先輩のことは話さないほうが良いかと思い、話題を選んでいると、マジェンタのほうからがさごそと鞄をあさる音や衣擦れが聞こえてきた。初めてのことではないから、私はすぐに気づくことができた。

「マジェンタ! あなたまたここで着替えてるでしょ?」

「この後、部活だからねー」

「もう!」

見えているわけではないのだが、同い年の女の子が目の前で服を脱いでいるというのは、やはり恥ずかしい。私は体を反対に向けた。

そういえばマジェンタはサッカー部だ。赤星先生から聞いた話では、サッカー部も純白先輩が学院に働きかけた成果の一つだった。マジェンタが純白先輩を慕う理由もそのあたりにあるのだろうか。

「紅緒もやる? サッカー。楽しいよ」

「できないわ。見えないもの」

「そりゃ試合は無理だろうけど、ボールを蹴るとかそれぐらいならできるんじゃない?」

「ボールがどこにあるかもわからないし、どっちに蹴ればいいのかもわからないじゃない」

「ボールのあるところを先に確認すればいいじゃん。蹴る方向はどっちでも良いよ。私が取りに行くから」

「それは私がボールを蹴ってるだけでサッカーじゃないと思う」

「あははは。まあそう言われるとそうだね」

「……でも、誘ってくれて。……ありがとう」

背中越しに会話していたはずが、ぷくっと小さく噴き出す音が正面から聞こえた。

「紅緒。照れてる顔かわいいー」

「もう!」

私が怒るとマジェンタの気配はぱっと近くを離れて、回り込む。その過程で正確な場所がわからなくなった。

「あははー。こっちこっち」

壁際から声がした。私はため息をついた。

「サッカー好きだよね」

「うん。大好きだよ。これは血だね!」

「血?」

「そう! 私のイタリア人の血が騒ぐんだよ! ボールを蹴れってね!」

「そう」

サッカーは詳しくない。イタリアといえばサッカーなのかは、私にはわからなかった。

「良いプレイができるとね、すっごいの! やばいって! 自分すごい! てなるのが良いんだよ。まあ、試合なんてずっとしてないけど」

「楽しいのなら、いいじゃない」

「そう! それ! 練習でもね、やっぱみんな褒めてくれるし、嬉しいんだよ! それにね、純白先輩が窓際から見てることがあって! それで……」

急に純白先輩の名前が出てきて、話題を変える間もなかった。マジェンタは急に黙ってしまう。

「マジェンタ?」

私は立ち上がってマジェンタの気配がするほうへ向かった。教室を横断した先に蹲って震えているマジェンタを見つける。

「ごめんなさい。思い出させて」

声にならない声がマジェンタの口から漏れてくる。彼女はまた泣いていた。必死に声を押し殺していた。

「大丈夫よ。大丈夫」

昨日黄路さんが言っていたように、私はマジェンタに繰り返した。そっと抱き寄せると彼女の体の震えが、悲しみを私にまで伝染させた。

ゆっくりと呼吸を落ち着けて、マジェンタから流れ混んでくる悲しみに対処しながら、幼子をあやすようにそっとマジェンタの背中を撫でる。

彼女が純白先輩を思っている気持ちの大きさが手に取るようにわかった。

「大丈夫。大丈夫」

そう言っている声がマジェンタに向けられているのか、自分に向けられているのか、わからなくなっていく。昨夜、彼の腕に縋りついていた自分がマジェンタと重なる。わたしたちは漂流した船みたいに為す術もなく、感情の波が収まるのを待つしかなかった。

マジェンタは徐々に呼吸を落ち着けていく。啜り泣きが止まり、たまに鼻を吸う音がするだけになった。その間に体の震えも収まっていく。

「紅緒は先輩がいなくなって寂しい?」

「ええ、とても」

「わたしもよ」

「ええ」

言葉で悲しみを思い出したように、声がまた震えていく。私が強くマジェンタを抱きしめると、マジェンタも私を強く掴んだ。

外の廊下をぱたぱたと走る音が聞こえてくる。

「入るぞ。マジェンタはいるか?」

と返事をする間もなく赤星先生が入ってきた。サボる場所も赤星先生には既にバレているらしい。

赤星先生が入ってきたとき、マジェンタはぎゅっと体に力が入った。私は思わずマジェンタを強く抱きしめる。

先生は入ってきてそのまま何の音も立てなかった。きっと私たちの有様を見て、対応に困っているのだろうと思う。何か言わなければいけない気がして私は口を開いた。

「すいません。先生。マジェンタはちょっと気分が良くないみたいなんです」

「なら、保健室にいないとおかしいな」

「……そうですね。けれど体というよりも気持ちの問題のほうが大きいんです。私と話しているほうがきっと気持ちがまぎれます」

「紅緒。それは少し出しゃばりだな。マジェンタの問題ならお前が俺に話すことじゃない」

静かな叱責。私は自分の表情が少し強ばるの感じた。呼吸を整えて表情を戻した。

「マジェンタはこんな状況です。いま、話せる状況じゃないと思います」

「繰り返すぞ。マジェンタが辛いことも、俺と話ができないことも、お前が決めることじゃない」

「でも!」

「しようともしないこととできないことは違う。紅緒。お前はいま、マジェンタから機会を奪っている。少し黙れ」

強い言葉をつかわれて、私は黙るしかなかった。

「マジェンタ。辛いなら休んでもいい。だがな、耐えると決めたなら耐えろ」

酷い言葉だと思った。思わず反論したくなる。そんな言い方はない。けれど、先程釘を刺された言葉もある。マジェンタが何か言い返すなら、確かに、私は彼女に譲るべきだ。

マジェンタが何か言い返すのを私は歯を噛み締めて待った。けれど反論はなかった。かわりにマジェンタは私を振り払った。すぐに赤星先生が飛び退く音がする。私がマジェンタの足音を認めたのは、教室から遠ざかっていくところだった。

マジェンタが教室を走り去って、音が失われたように静かになった。赤星先生がマジェンタを追いかけた気配もない。

「今の言葉は、ちょっと酷いです」

「かもな。けど、あいつは独りで立つ方法を覚えるべきだよ。あいつの味方がいるのは学院の中だけの話だからな」

マジェンタの事情はよくは知らない。けれど、私と見たようなものなのだろうか。なら。

「ならなおのこと、ここでは優しくしてあげても」

「ここは学校なんだ。お前もマジェンタもいつまでも通えるわけじゃない。今やり方を覚えさせず、放り出されてから、外で怪我させるのか? 賢いやり方とは思えないな」

「でもそんなすぐ放り出されるわけじゃ」

「学生生活なんてほんの一瞬だよ。それに、卒業を待たずとも、お前もマジェンタも純白が守り過ぎてた。なんでもやってくれるやつはもういない」

「そう、かもしれませんが」

私にかんしては赤星先生の言うとおりだろう。私はきっと文芸部という砦の中にずっと匿われていた。学院はよくしてくれる。けれどそれが生徒から良く思われていないことだって、気づかないほど鈍感ではない。純白先輩はさらに私を文芸部に招くことで、それらの渦から守ってくれたけれど、その純白先輩からも特別扱いを受けていると他の生徒は思ったことだろう。

「お嬢様学校だ。派手ないじめに発展するとは思えんが、何かあったら青海先生や緑先生に言えよ」

「赤星先生は相談にのってはくれないのですか?」

「俺のスタンスはいったろ。学校にいるうちに、少しは人の悪意にも慣れることだ」

「……はい」

「それと、マジェンタのことだが。マジェンタにはああ言ったが、お前も少し気にかけてやってくれ。今日はマジェンタについていてくれて、ありがとう」

そう言うと赤星先生はすぐに出ていった。用は済んだと言わんばかりだ。終業のチャイムが鳴ったのはほとんど同時だった。

私は席に戻り、この後とうしようか、とぼんやり考えた。いつもなら文芸部に行って、純白先輩や彼とお喋りをして、時間になったら、茜が迎えに来てくれる。

私は特別教室を出て、文芸部の部室まで行く道が少し怖かった。教室棟の端にある特別教室から反対側までまっすぐいき、文化棟に入ったところに文芸部はある。他の人にとっては、なんでもない一本道。教室棟一階は大部分が職員室だから、生徒は好んで通らないし、人通りは少ない。けれど私には、慣れ親しんだ離れやこの特別教室や部室とは大きく違った。少ないとはいえ知らない人が当然に歩いている道だ。これまでもその道をどうしようもなくて一人で歩いたことはある。だいたいの距離はわかる。職員室前であることから、他の廊下と違って道に出ているものも少ない。一人でいけない道理はないのだ。

けれど私は一人で文芸部を目指すには、大袈裟にいえば、決心が必要だった。そうやってぐだぐだしているうちに、だいたいは彼が来て、手を引いてくれた。今日、彼が来ることはなかった。

折りたたみ式の白杖を私は鞄から出した。

教室内で一度、白杖の先を壁に添わせ、前の床を試しに探る。大丈夫。使い方はわかる。

自分が緊張していることは明白だった。人通りもないまっすぐの廊下。怖がることはないのかもしれない。この道を一人で歩けなければ、どんな道だって一人では出歩けないだろう。

先程の赤星先生の言葉が思い出される。学院にいるうちに、私は一人で出歩くこともできるようになったほうがいい。

大丈夫。できない道理はない。鞄を肩にかけ、出る準備はすませた。

……けれど、私はなかなか教室から出ることがてきなかった。

怖い。白杖を持って歩くことが怖い。自分が盲であることを主張すると、どこからかまた父の怒鳴り声が聞こえてくるのではないかと不安になった。

「大丈夫。……大丈夫。ここに父はいない。ここに父はいないわ」

私は覚悟を決めて特別教室を出た。特別教室の鍵を閉め、白杖でまず正面の廊下の壁を探した。すぐに見つかる。白杖で壁の位置と前を探る。大丈夫。何もない。

一歩一歩地面があることを確かめるように前進した。歩くごとに緊張で足が震えていないか、みっともない仕草をしていないか、自信がなくなっていく。教室棟は静かだった。職員室の前では、からからと鳴る扇風機の音を聞いた。大丈夫。前に進めている。それからまた、前を探って進むことに集中した。

ずいぶん進んだ、と思う。教室棟の終わりがもうすぐ来てもいいはず。そう思ってから十歩進んでも、まだ教室棟は終わらない。職員室はもう過ぎてると思う。けれど、それにしては教室棟の終わりが遠すぎる。微かに心が揺れ始めた。

もう十分な歩数を歩いたはずだ。彼に腕を借りるときなら、もう絶対に教室棟の端にはついているはず。なぜまだつかないのだろうか。

振り子のように心が大きく揺れ始めた。

距離が、わからなくなっている。耳をすませた。焦っているのか、絶対にしているはずの環境音を聞き分けられない。自分がどこを歩いているのかわからなくなり始めている。

止まったほうがいいか。けれど止まったら、一歩も動けなくなる気がする。自分の足元以外に地面があると信じられなくなる。ふっと体重が軽くなる、あの落下の感覚を思い出す。目が見えなくなった最初の頃はよく私は階段から落ちた。激しい体の痛みと厳しい叱責。記憶で体が竦む。

歩幅。歩幅が、彼と歩いていたときと比べて、とても狭くなっているからだ。焦ってからもっと狭い。だから、歩数が合わない。けれどそれは、私がどのあたりを歩いているのか、わからなくなっていることを表していた。

簡単な一本道は、もう終わりのわからない知らない道に思えた。

かたり、と杖が教室棟の終わりを突き止めたとき、私は安心で膝から崩れ落ちそうになった。張っていた糸が緩み、思わず涙が出そうになる。自分の居る場所がわかるということは、こんなにも安心できることなのだ。

私は扉を開け、杖で段差を確かめながら降りた。砂が上がったコンクリート敷きの廊下を十メートルぐらい向かいに行くと、今度は文化棟にあがる段差を見つけた。一段一段、慎重に登り文化棟の中に入った。

部室はもうそこだ。鍵を開けて、扉をくぐり、後ろ手に扉を閉める。今度こそ私はその場で崩れ落ちた。

遠かった。本当に遠かった。一人で歩くというだけで、いつもの何倍も疲れた。

こと。と部室の中から音を聞いた。本を倒してしまったような音だ。その音が私の心に爽やかな風を吹き込んだ。

「来てるのですか?」

私は顔を上げて部室の中へ聞いた。けれど返事はない。部室は閉め切らているのか、外の音も聞こえない。当然か。私は今きたところなのだから。

彼が来ているのかと思ったが、勘違いだったかもしれない。彼は学校では会えないと、はっきり言っていた。

私は本が倒れたあたりの棚の前にいった。最後に立てかけてある本が倒れたのだろう。私はその本を探して元に戻そうと思ったが、それは見つからなかった。

聞き間違いだろうか。そんなことはないと思うのだが。私は部屋の中の気配を探った。何の気配も感じない。

私は窓辺の先輩の席まで行った。ここは先輩の特等席だった。椅子を引いて座る。先輩はいつもここで本を読んでいるか、外を見ていた。わたしや彼の会話に入ってきたり、静かに聞いているだけだったり。数週間前まで当たり前だった、もう手の届かない時間。胸にまたじわりと悲しみが広がっていく。

机に蹲る。一度も見たことのない景色が瞼の裏に浮かんだ。純白さんがこの席に座って、本を読んでいる。彼は近くの棚を物色してて、本を引き出して表紙を見て戻している。二人とも窓から入る夕日が二人の顔と部室を黄色がかった赤に染めている。私は入口近くの席からニコニコして彼らを見ている。おかしな話だ。私の目は見えないはずなのに。私の笑顔に先輩が気づいて口を開こうと……。

みしり、という音にもならない音が聞こえた。その音が一瞬で、私を空想から現実へと引き戻した。私が机に顔を突っ伏した状態で、机に耳をつけていたから聞こえるような床の微かな軋み。

みしり。みしり。みしり。誰かが慎重に足音を立てないように歩いているような音だ。

ぱきっと床が一度鳴った。するとその軋みも止まった。まるで、私が床鳴りにどんな反応を示すのかうかがっているような感じだ。

私のほうを探りながら、足音を立てないように誰かが動いている。先程の本が倒れた音は聞き間違いじゃない。

部室内に誰かいる。

そのことに気づいたとき、私は思わず声を出してしまいそうだった。寸でのところで、表面的な反応をすべて殺して、机に蹲ったまま身動ぎもせずに耐えた。

相手も私をまだやり過ごせると思っているのか、私に何かしてくることはない。私は部室に入ったときの第一声を後悔した。部室に誰かいるかもしれないと、私が一度疑念を持ったことは伝わっている。

みしりとまた音が動き出した。私とは反対側。廊下側に向かっている。このまま逃げ出す気だろうか?

それならそのほうが良い気がした。

相手がその気なら私も気づかないふりをしてやり過ごしたほうが良い気がする。

忍び込んでいる人間は何が目的なのかもわからない。私から積極的に動いたことで、害意を示される可能性は十分ある。

また恐怖を覚えた。先程廊下を歩いていたときとは違う。気味の悪い恐怖。それと同時に悔しかった。自分にとって大切な場所であるこの部室に誰かが勝手に入ってきても私は何もできない。

侵入者は私の思い出や安らぎの詰まったこの闇に無断で立ち入り、目が見えないからと私を出し抜けると今も思っている。体が熱くなる。怒りが体を暖めている。

暴いてやりたいと思った。捕まえて、誰なのか問い詰めてやりたい。なんでこんなことをするのか。今、あなたは、私に酷い事をしているのだと糾弾したい。私の盲を利用して、私の大切な居場所を覗き込むことが許せなかった。

足音は廊下側まで到達している。だが、棚の近くで途絶え、入口には向かっていない。相手は本格的に私が出ていくことを待つつもりらしい。入口のドアを私が閉めてしまったから、音を立てずに外に出ることはできないと、そう判断したのだろう。

根比べをして誰かが来るのを待つ、というのは分が悪いだろう。文芸部は私と純白先輩の二人しか部員がいない。彼がよく遊びに来ていたが、今後は来れないと昨夜言われたばかりだ。他の生徒が運良く訪ねてくるとは考えにくい。

ならば、私が呼ぶのはどうだろう?

直接誰かを呼びに行くことは論外だ。職員室は直ぐそこだが私が部室を離れている間に、これ幸いと侵入者は出ていく。

幸い私は窓辺の席に座っている。窓から誰かを呼ぶことはできるだろうか。私には見えないが、純白先輩はここからサッカー部の練習風景を見ていた。つまりサッカー部が視界の範囲にいるはずなのだ。しかし、私が彼らと意思疎通し、この部室まで来てもらうのは困難だ。侵入者に気づかれずという注意書きつきでは、それはもう不可能だろう。

私はスマートフォンを取り出す。私はわざと手動で時刻を読み上げさせた。機械的な声が正確に時間を返してくる。今の天気や明日の予定を次々と読み上げさせる。目の見えない人間にとって、それは当たり前の行為なのだと示したかった。

ここから電話で誰かを呼ぶ。方法はそれしかないと思う。

メッセージはだめだ。私たち盲はテキスト入力のために音声補助がほとんど必須だった。当然相手に気取られるから使えない。

私は表ではニュースを読み上げさせながら、バックグラウンドで通話を起動した。ショートカットに登録している通話先は三人しかいない。茜。純白さん。灰谷先生だ。私は灰谷先生を選択した。操作をして直ぐこちらのスピーカーは切った。電話が繋がったら、音声の主導権が通話に切り替わるから、スピーカーは生かしておけない。操作で当然ニュースが不自然に途切れる。

私は机に耳をつけたまま、侵入者の出方を窺った。大丈夫。動きはない。私の行動は不審に見えるだろうが、何をしているかまで想像はできまい。

あとはもう待つだけだ。灰谷先生なら無言電話を入れた私をきっと探してくれる。校舎に私の居場所は特別教室か部室しかないから灰谷先生が探し始めればきっとすぐにここは見つかる。

灰谷先生が慌てて部室に入ってくれば不意打ちは完成する。侵入者の正体は灰谷先生が教えてもらおう。

私は無表情にその時を待った。

やがてぱたぱたと廊下を走る音が聞こえてきた。灰谷先生だ。

しかし、その音を聞きながら私の中で嫌な予感が急に首をもたげる。考慮漏れが、ある気がする。当たり前だ。こんな即興で考えた方法に考慮漏れがない方がおかしい。だが、それが何かまではわからない。後少しのところで、それが何かわからない。

廊下側の隅に行ってから、侵入者は不気味なほどに反応がない。侵入者はまったく身動ぎもしていないことになる。その時間は、何分ぐらいになる? 長すぎはしないだろうか?

「七村さん、いる!?」

灰谷先生が言うと同時に駆け込んできた。

私は焦燥に駆られ、席からまっすぐ侵入者が潜んでいるはずの角へと向かう。侵入者を掴むはずの手は空を切り壁へぶつかった。

「そんなはずない!」

壁と壁が九十度に交わっている部室の角。私はあたりを所構わず手で確かめたが、あるのは壁と床だけだ。そこに潜んでいたはずの侵入者はどこにもいなかった。

「どうしたの? 七村さん!」

「灰谷先生! 誰かこの部屋にいるはずなんです! 私以外に誰がいますか?」

「何を言ってるの? わたしたちの他には誰もいないわ」

「そんなはず……」

逃げられた。

嫌な予感は的中した。しかし、いったいどの段階で逃げられたのか、想像もつかなかった。侵入者は確かに、この角に身を潜め、気配を殺していたはずだ。それ以降今のいままで、私は机に耳をつけて、気配を探っていたのに。

この角から動いた気配はなかった。耳を机に貼り付けていたのだから、それは間違いないはず。実際に、侵入者がこの隅に来るまでは足音を追跡できていた。私が机から耳を離したのは灰谷先生が来てからだ。だがそのときには侵入者はすでに部屋にいなかった。

私が用意した罠はやすやすと破られていた。

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