純白紗智の過去

純白先輩の告別式から戻ってきた後、私は離れに戻ってすぐに寝てしまった。学校へ戻ってくる帰りの山道ですっかり気分が悪くなっていた。

台所で冷たい水を一杯もらい、そのまま自室へと引き込む。

途中で茜がご飯を食べれそうかと聞いてきたが、無理そうだった。告別式でもらってきたお弁当は申し訳ないが茜に言って捨ててもらった。

告別式の後、配られたお弁当はごくごく一番的な仕出し弁当のようだった。

それを食べてしまうと、いろいろと私の中の思いが決壊してしまう。純白さんが死んだという事実を突きつけられ、そして、あの人もただの人だったのだと認めさせられるような、そんな気がした。

セレモニーホールの前で姿を消した彼の気持ちも理解できる。彼が「見たくない」と言ったものが何かよくわかった。みんなが思い思いに先輩の死を悲しんでいるところにいると、私は先輩にとってなんだったのかと思わずにいられなかった。

先輩は良い人だったから、たくさんの人に悲しまれるのは当然だったけれど、先輩にとって私は、この広い交友関係のうちの一人でしかなかったのだと、勝手に思い知らされた。

ベッド中で、視界がぐるくると回る。軽い吐き気を気持ちで押さえていると、疲れて眠りに落ちた。そうやって寝ると悪夢を見る。

先輩も彼も茜もいない、この館で一人で朽ちていく夢だった。

窓は釘付けさせているのか、一欠片も光を漏らさない。昼なのか夜なのかもわからない。

誰も私に会いに来ることはなく、私もまた誰かに会いに外に出ることはない。明かりもつけず、闇がわだかまる建物の中で闇と自分自身の境界を曖昧にしながら朽ちていく。恐ろしいのは、その夢の中の私は心安らかだったからだ。何にも煩わされず、何も悩まない。心は弾力を失って、溶けたスライムのようになっていた。それを不幸と気づけなかった。

私は泣きながら飛び起きたのだけれど、部屋は暗いままで本当に起きたのか、まだ夢の続きなのかわからなかった。半狂乱になって茜の名前を呼ぶより前にそっと声がかかった。

「大丈夫?」

少年のように低く抑えた声だった。告別式の間中聞きたかったその声を聞いて私は思わず声のする方へ縋りつこうとした。

「危ない」とベッドから落ちそうになる私を寸前で支えてくれる。

私はその腕に顔を押し付け、声を殺して泣いた。

「ごめんね。一緒にいられなくて。心細かったね」

優しい言葉。彼の声音が心地よく耳に響く。

私は言葉が出ず首を懸命に振ったが、彼がいなくて心細かったというのは、私の偽らざる本音だった。到底隠せているとは思えないものだ。

彼はいつかそうしていたように、ベッドの脇に椅子を出していた。

「今は何時ですか?」

「夜中の十二時を回った頃だ」

夜であれ、朝であれ、私の目に陽の光は入らない。夜であることで彼と入れる時間が長くなることのほうが嬉しかった。

「……私を一人にしないでください」

ふっと彼が笑う。

「紅緒もそんな可愛いことを言うんだね」

彼に茶化されたことで、自分が口走ったことを振り返って少し恥ずかしくなった。

「……もう!」

小さく抗議する。

彼が優しく笑う声に気持ちが洗われていく。悪夢が一瞬で元の楽園に戻った。けれど、ここにはもう純白先輩がいないことを思い出して悲しくなる。

彼の手がそっと私の頬に触れた。私は驚いて肩を跳ねさせてしまったけれど、そのまま止まっていたら彼の手はまた動き出した。

私の頬を撫で、髪に触れた。手から愛情が流れ込んでくるのがわかる。

私はこれほどまでに彼のことを大切に思っていたし、大切に思われていたのだ。純白先輩を失ったことで、私たちはお互いへの親愛を強く自覚することになった。

「紅緒」

「なんですか?」

一瞬、空白があった。彼は答えない。なんでもない、その間に嫌な予感がする。先程まで見ていた悪夢が急にまた目の前を覆っていく気がして、微かに震える。

「あなたは、いなくなりませんよね?」

彼はやはり答えなかった。

私を暖かく包んでいた沈黙が急に冷たくなった。

「また会えますよね?」

私はまた彼の手に縋りついた。そうして彼の手を掴んでいれば、私たちが離れることはないと半ば信じていたと思う。

「どうにか。ここに残る方法を考えているんだけど……わからないんだ」

「純白先輩のことが、関係あるんですか」

返事はなかった。身じろぎした気配が伝わってくる。関係はあるのだと、思った。彼は純白先輩と親しかった。彼が私と純白先輩を引き合わせたのだ。

ただ純白先輩がいなければ、なぜ会うことができないのか。それはわからなかった。

「昼間のうちに会うのはもう無理だろう」

「どうして……」

「可能な限り来ることにするが、いつまで来れるかは、なんとも言えない」

また私の閉じた目から涙が溢れ出した。私はこんなに泣き虫だっただろうか。屋敷で父と暮らしていたときに、涙はもう枯れたのだと思っていた。

「お願い。私を一人にしないで」

「君には茜さんもいるじゃないか。一人じゃないよ」

「そういうことじゃ、ない」

私は自分が聞き分けのない子どもになっていくのを感じた。お願い……。お願い……。と駄々をこねるように繰り返す。

彼は私に手を掴まれたまま微動だにしない。きっと困り果てている。私が掴んでいる腕とは反対の腕が私の頭に置かれた。ゆっくりと私の頭を撫で気持ちが落ち着いていく。人に頭を撫でられるのはいつ以来だろう。

「わかった。わかったよ。紅緒。きっと会いに来る。約束だ」

「ほんとう? もう会えないって、さっきは」

そうだ、と彼は私に一冊の本を私に渡した。表面の感触が柔らかい本だった。きっと革で装丁されている。

「それはね、純白先輩の本だよ。先輩がずっと持っていた本を覚えているかい? この本がそれだ」

私は渡されるままその本を受け取って、表面を撫でた。その感触に覚えがある。一度、純白先輩に触らせてもらった本と同じ感触だった。

「その本にはね、いろいろなことが書いてある。純白先輩が、残したいと思ったことを取り留めもなくね。もちろん文芸部のことも出てくるよ。君や僕だって出てくる。次に来たとき、この本を一緒に読もう」

「必ずまた来てくれるのね?」

「もちろんだよ」

「一つだけお願いがあるの」

「何?」

「名前を教えて」

一年以上続いている彼の悪戯。いつか教えてくれると口約束をしていたが、今こそがその時だと思った。

「……それも駄目だ。君を余計に悲しませることになる。僕の名前は知らないほうがいい」

「約束したわ!」

「あれは純白先輩がいたから……。君に酷いことをしたくはないんだ」

「名前を教えてもらえない以上に酷いことなんてない。名前を知ったほうが悲しくないに決まってます」

「紅緒。聞き分けてほしい」

辛そうな声だった。彼は卑怯だ。彼のほうが辛そうな声を出すなんて、私はわがままを言うこともできなくなる。

私たちはそれから身を寄せ合って過ごした。

泣きつかれてしまったのか。私は夜が更けていくうちに私はまた微睡みに落ちた。

次に起きたのは、茜のノック音だった。どうやら、夜は明けているらしい。

体が気だるさを引きずる朝だ。

茜は入ってくるなり言った。

「顔色が優れません。体調が悪いようであれば、今日は一日お休みしても」

「いいえ。大丈夫。支度をするから一人にしてくれる?」

「お手伝いしましょうか?」

「ありがとう。だけど大丈夫」

笑ってみせると、茜は「はい」とだけ頷いて部屋を出ていった。

いつものハンガーに茜が皺を伸ばした学校の制服がかかっている。服を着替え、髪を梳かした。最後は茜に確認してもらったほうがいいだろう。

昨日の夜のことは、夢だったかもしれないとぼんやりと思った。

私が会いたいと思うあまり彼の夢を見たのかも。

それに悪夢が入り混じって、あんなことになってしまったのか。そうであれば、それで構わなかった。彼にたくさん恥ずかしいところを見せてしまったと思っていたから、あれが夢ならそのほうが良い。

私は身支度を整え、忘れ物はないかと、当たりを探った。特にベッド脇のサイドテーブルは何かと物をおいてそのまま忘れてしまう。

机の表面を撫でると指先に柔らかい感触があった。革が使われた凝った装丁の本だ。

こんな本は持っていただろうか。私は手にとってページを謎って見たが点字ではない。墨字の本だ。

これは昨日夢で渡された純白先輩の本か。

昨日の夜の出来事が夢でないことの証だった。純白先輩が残した彼とのかすかな繋がり。

彼との秘密に心を少しだけときめかせ、同時に落胆もした。あまり会えなくなるという彼の言葉が胸の底に重しのように沈んだ。

私は純白先輩の本を大事に胸に抱えた。サイドテーブルに放ったままだと、掃除に入る茜が気づくだろう。私は机の引き出しの一番上にその本をしまった。

軽く朝食をすませると茜に連れられ離れを出た。離れから校舎までは庭園と森を抜けていく。道はすべて石畳で整備されていた。離れはもともと学院を訪れた来客用のものだったらしい。そのためか、校舎まで行く道のりも石が敷き詰められ、歩きやすい。しかし時代が変わったのか、迎賓館としてはすっかり使われなくなり、私の居住のために貸し出された。庭園で空からさす熱気を感じる。

「今日は良い天気かしら?」

「ええ、良い日よりです。空には雲一つありません」

「昨日は雨だったのにね」

「ええ、そうですね」

私が立ち止まると茜も自然と止まってくれた。

「今日は薔薇の匂いがあまりしないのね」

庭園は時期によって薔薇の匂いを良く感じた。決まった季節ではないので、四季咲きの薔薇なのだろう。庭園を散策したことはないから薔薇園というほどのものなのかはわからないが、学院と結ぶこの道沿いはずっと薔薇が植えられているようだ。

「昨日の雨で少し流れてしまったようです」

「そう。残念ね」

「はい」

私は彼女から手を外し、空を見上げた。瞼を開くと、暗い闇の中、はるか上空に太陽を見つけた。

空に浮かぶ太陽はあたりの闇に今にも飲み込まれてしまいそうなほど儚い。輪郭も定かではない小さな赤いシミが朧気に揺らめいている。

私がそうして太陽を見ている間、茜は黙って待ってくれた。

私は再び目を閉じて、茜に笑いかけた。

「今日は熱くなりそうね」

私が空を見上げている間、少しも動いていないのではないかと思うぐらい、ぴったりの場所で茜の肘を見つける。

「そうですね」茜は言って、また歩き出した。

風に揺らされる葉音が前から近づいてくる。頭上の熱気が遮られ、少し涼しい。庭園から森に入ったのだとわかる。

学院はもうすぐそこだ。

茜には、私が授業を受ける特別教室まで送ってもらった。一階の隅にある部屋だが、この部屋も私のために学院が準備してくれたものの一つだ。学院は私に本当によくしてくれる。私が曲がりなりにも学生生活を送れるのは学院のおかげだ。

他の生徒たちは、私の父が学院へ多額の寄付をしたのだと言っている。金で待遇を買ったのだと。

私も実際のところは知らなかった。ただ父が私のために多額の金を使うとはあまり思えない。まして、特別な住居。特別な教室。特別な授業。そして茜の帯同という例外的な処置。どれほどの金額で買えるだろうか。余程多額でなければ、私の入学は割に合わないのではないかと思う。

いずれにせよ学院が私に示してくれた施しを私は好意だと受け止めた。どのような事情があろうと私に寄り添い、導いてくれていることは本当だ。

私はその好意に報いたい。既に返しきれないほどの恩を受けている。

私を広告塔に障害者福祉への取り組みを訴えるつもりなら、いくらでも協力するつもりだが、一年間そのような話もなかった。

私が学院にできる恩返しは、今のところ素直に成長することだけ。いつか必ず恩を返せると信じるほかない。そのためにも授業の時間を無駄にはできない。

教室で椅子に座って待っていると、始業の時間から五分程遅れて、灰谷先生がやってきた。ぱたぱたとスリッパを鳴らす早足が聞こえてきて、間もなく扉が開く。

「ごめんね。遅れちゃって」

「いいえ。お忙しいのに、いつもすいません」

「謝らないでよ。こっちは仕事なんだから。気にしないで」

私の授業はいつも灰谷先生から始まる。

養護教諭の灰谷先生が私の体調を確認して、困ったことがないかを確認してくれた。一限目は灰谷先生とのお喋りとどの科目にも属さない点読のテキストを試したりといった私の勉強の仕方を確認する時間だった。

「やっぱり理系の科目は難しく感じます」

テキストは点訳され、時間はかかるが読める。しかし図表の内容はわからないことが多い。図表の多い理系科目の学習は困難が続いた。

数学の青海おうみ先生は、いろいろな道具を買ってきては、試してくれたけれど、なかなか上手くいかず申し訳なかった。

「青海くんのあれは、新しいものを自分で試してみたいだけだから気にしないでいいわ。紅緒さんを理由にすれば予算で買えるし」

灰谷先生の声はいつも楽しそうで聞く人に元気を与える。きっと笑顔も素敵なのだろう。生徒からの人気が高いのも納得だ。私ばかりではなく、他の生徒からの相談も多く受けているらしい。彼女は寮の寮監も務めているから、生徒との距離も他の先生と比べて圧倒的に近い。寮には数日しかいなかったが、他の生徒からもとても慕われていたことはわかった。

私が寮で抱える問題を理解して、迎賓館で暮らせるように手配してくれたのも灰谷先生だ。学院の優しさを体現したような方だと思う。

「文系科目に比重を置く選択は良かったみたいね。何か他に困ったことは?」

「いえ、いまのところは。ただこの間、青海先生が試してくれたパソコンを使った授業はとても助かりました」

「へえ。どんなことをしたの?」

「パソコンがテキストを読み上げてくれるんです。自分の操作で読み上げ部分を何度も繰り返せますし、他の科目でも使えそうだと思いました。自習も楽になります」

「なるほど。パソコンってそんなことができるのね。おばちゃんだから、そのへんは全然わからなくてねえ。詳しいことは青海くんに聞くわね。良ければ他の先生とも話してみる」

「ありがとうございます」

「いいえ」

灰谷先生は授業の話だけでなく、学校で起こったおかしなこともよく話してくれた。

学校公認のイベントの話だけでなく、「ここだけの話よ」と囁いて、生徒会長の失敗談だったり、学期末に生徒たちが密かに行っているという、教師の人気投票なんかの話もしてくれる。生徒と距離が近い灰谷先生には、生徒も気を許すのだろう。灰谷先生も生徒たちの秘密の楽しみを問題にするような人ではない。

ちなみに灰谷先生はその人気投票では前回四位だったらしい。生徒の人気を二分している若手男性教師である青海先生と赤星先生。生徒と年も近く友人のような距離を保つ緑先生に次ぐ順位だ。

「おばちゃん先生にしては大健闘でしょ?」

と灰谷先生の嬉しそうな声を聞くとこっちまで嬉しくなった。もし、私が投票できることがあったら灰谷先生に入れようと思う。

灰谷先生と残りの時間をお喋りして過ごし、二限の時刻になると、ぴったりに赤星先生がいらっしゃった。

「入るぞ」

それまで気配なんてなかったのに、唐突に声をかけられ扉が開く。赤星先生はいつもそうやって入ってきた。

「どうぞ」

私が立ち上がって迎えると決まって「座っていて構わない」と言う。言われたとおり席につく。

私は赤星先生が少し苦手だった。いや、苦手というのは言い過ぎか。私は赤星先生に負い目がある。

赤星先生は繋がりこそ遠いが親戚と呼べる相手だった。おそらく父はその伝手で彩華女学院を見つけたのだと思う。父にとってはていの良い厄介払い。赤星先生からすれば、厄介者を押し付けられた格好になる。それなのに、彼は一度も私を詰らなかった。ただ教師として、私の前で振る舞った。

「今日はテキストの復習から始めよう」

「はい。先生」

英語は点訳されたテキストがあるが、点字は普段読むものとは別だ。同じ六点点字だが意味が異なる。点字学習の難しいところは、私が間違って読むとそれを訂正する人がいないということだ。先生たちは点字を読むことができない。文法の間違いなら指摘してもらえるが、私が書いてある文自体を取り違えてしまうと誰も正しい文を知らないままになってしまう。間違いに気づくのは遅れ、授業進行自体が行ったり来たりを繰り返すことになってしまう。

また点読は一般的に墨字を読むよりも遅い。目で見ると知らず知らずのうちに次の文字や文が視界に入り、先を想像しながら読むことができるが、点読は一文字一文字文字を指先で触れなければ読めない。他の方と比べたことはないが、私もおそらく健全者の読書比べれば、相当に遅いだろう。

だから赤星先生は長文読解よりも、リスニングとスピーキングを中心に、授業を行ってくれた。結局、英語の授業もやることは先生とのお喋りということになる。拙い英語での会話。私の間違いを指摘する日本語での会話。それらが授業中くれ返された。灰谷先生と違ってあまり世間話はしない。が、この日は珍しく、赤星先生が口を開いた。

「昨日、純白ましろの葬儀にいたな」

「……はい」

「茜さんと行ったのか?」

「いえ、友人にお願いしました」

「そうか」

灰谷先生との授業では出なかった純白先輩の話。昨日の今日で、何も話さなかったのはきっと気を遣ってくれたからだ。だが赤星先生は敢えて触れて言葉をかける。それがこの人の気の遣い方だった。

「純白のことは残念だった。気を落とすなと言っても無理だろう。しばらくは下を向いてしまうだろうが、この手の問題は時間が解決するのを待つしかない」

「はい」

「茜さんの他に、気持ちが落ち込んだとき相談できる相手はいるか?」

「……います」

「昨日はその友人と?」

「ええ、そうです」

「そうか。その友人を大切にするんだぞ」

「はい」

けれど、その彼とは自由に会うこともできない。心細いのだと、この場で打ち明けてしまいたい気持ちも確かにあった。しかし、彼との話を別の人としたくない。それに、ただでさえ私という厄介者の面倒を押し付けられているこの人にこれ以上の負担をかけたくない。

私は助けを求める言葉を飲み込むしかなかった。

代わりに、大切な人の話を聞きたい。

「あの……。純白先輩のこと、教えてくれませんか?」

「純白のことを?」

「私、全然純白先輩のこと知らないなって、気づいたんです。昨日はたくさんの人が純白先輩のことを悲しんでいました。純白先輩が学内で有名人だったのはなんとなく知っていたんですけど」

「俺も詳しことは知らないぞ。まだここに来て三年だ。あいつの中等部の頃の話は聞きかじった程度だ」

「少しでも、知りたいんです」

「そうか」それから赤星先生は少し黙った。過去のことを思い出しているのだと思う。私はじっと彼が話すのを待った。

「純白が生徒の中で人気だったのは、中等部の頃からだ。もしかしたらもっと前からなのかもしれないが、俺にはわからん。俺が赴任してきたときには、あいつはまだ中等部三年だったが、名前は高等部でも聞くぐらいだった。中等部内での人気は物凄いものがあったらしい」

赤星先生はそこで言葉を切った。ペットボトルを開ける音がして、赤星先生は何度か喉を鳴らして水を飲んだ。

「純白が中等部の頃、生徒会長をしていたのは知ってるか?」

「聞いたことはあります」

「うん。その生徒会長になったときの選挙がちょっとした語り草になってる。と言っても、俺もこれは聞いた話だ。俺が来る前年だから、直接知っでる話じゃないぞ。噂も尾鰭も多分に入ってると思う」

「ええ、わかります」

「うん。その生徒会長選挙だが、どうにも純白にほとんどの票が入ったそうだ。他の候補は悲惨な状況だったらしい。候補の中には、今高等部で生徒会長をしている小金こがねも次年の生徒会長になった黄路おうじも出ていたらしいんだが」

「黄路さんって、生徒会長だったんですか?」

「ああ、そうだ。俺が入ってきた年に中等部生徒会長になったはずだ。だが、その黄路が選ばれた生徒会長選挙でも、純白にまつわる曰くがある」

「ということは、先輩はそのとき三年生、であってますよね?」

「そうだ。中等部の生徒会長選挙にはもちろん出てない」

「どう、かかわったというんですか?」

「無効票だ。当選した黄路が集めた以上の無効票があった。票の内容は明かされてないが、純白票だというのがもっぱらの噂だ」

私は言葉を失った。

先輩がそれほどの人気を持っていたとは思わなかったのだ。

「高校に入ってら多少、純白人気は下火になった。ただあいつが入った一年目にまた人気が再燃するしたんだ」

「なんです?」

「運動部運動だよ」

「なんですか。それ?」

「早い話が運動部設立のために生徒たちが行った活動だな。彩華は中等部もそうだが、お嬢様学校だから運動部があまりない。純白が活動するまで、弓道部があったぐらいで、一般的なスポーツを行う部はなかった。今は陸上部、サッカー部、バレー部がある。コートの造成が終わったから、今年からテニス部の募集も始めるはずだ」

「それが活動の結果?」

「そうだと、言えるだろうな。そうしてまた純白人気が爆発した。運動部設立は純白の一つ下の代、君の友人の黄路や志安、マジェンタが中等部にも継承したから、純白を直接知らない世代まで人気が広がった。昨日も結構来てたぞ。中等部の生徒」

「……本当に、知らない人みたいですね」

「純白はあまりこういうことは話さなかった?」

「……ええ」

微妙な間があり、赤星先生は「そうか」と言った。

「けれど、黄路さんや小金さんはおもしろくなかったんでしょうね」

それに純白先輩の上の世代の代表のうような人たちにとっても嫌な存在だっただろう。下級生が学院の人気を掌握し、影響力まで発揮するとなれば。

「さあな。けどそうかもな。黄路は純白の生徒会にも所属していたし、上手くやっているようだったが、少なくとも小金は面白くなかっただろう。彼女が今生徒会長をやってるのは、純白が高校では選挙に出てこなかったからだと思われてる。実際、純白が出たら圧勝だったろうとも思う」

告別式の様子が思い出される。マジェンタは一度も泣き止まなかった。黄路はどう思っていたのだろう。普段、感情を表に出さない志安でさえ、純白の死を悼んでいた。

小金さんのことは詳しくわからない。けれど生徒からお別れの言葉を送った方に生徒会長と紹介された方がいた。きっとその人だ。

「でも、それだとおかしくないですか?」

「何が?」

「文芸部は純白先輩が一人しかいませんでした。そんなに人気なら、他の生徒が純白さんに惹かれてもっと集まったっていいのに」

「うん。そうだな。けどそれも答えがある」

「なんですか?」

「純白が断っていたんだよ。純白以降の文芸部への入部希望者は純白がすべて門前払いした」

「そうなんですか? ……でも、私はすんなりと入部できましたけど」

まして、入部にあたって純白先輩に断りがいるとも考えてなかった。だが、純白さんも私の入部届を書くのを手伝ってくれたり、とむしろ助力を頂いている。

「事情はわからんよ。ただ君は、純白が唯一文芸部への入部を許した相手だというのは事実だ。君は自分が思っているよりもずっと生徒たちの注目を集めている。この学院で純白に気に入られていたというのは、とても特別なことなんだ」

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