純白紗智との記憶
けれど本当はそうではない。私はずっと守られていたのだ。優しい殻に包み込まれ、卵を守る母鳥から体温を与えられるように。私をそうして守ってくれていたのは、学園の好意や茜、純白先輩それに彼だった。
私は私を傷つけるものからそっと距離を置くことが許され、優しい人たちとの接触以外何もしなくて良いように扱われていた。
家を追い出されることで得た楽園で、私は幸福を噛み締める一年を過ごした。
もうずっとこの幸福が続くような気がしていた。いや、この先のことなんて考えないようにしていただけに違いない。
学園にいつまでも通うことができないなんて、わかり切っていることなのだがら。いつか純白先輩も彼もいなくなってしまうことはわかっていた。その時が、今回少しだけ早くきただけなのだ。
父は私にとって、世間の目そのものだった。
父の娘として生まれた私に、誰も心の内を明かすことなく接した。私がどのような失敗をしても褒め、私が何かを成功させても同じように褒めた。
私に思うままの感情をぶつけることが許されているのは父だけかのようだった。父だけが胸の内を隠さず本当のことを言っているような気がした。
「だらしない奴だ!」
目が見えなくなってから、何をしていなくても父に突然言われることがあった。最初、父が何に対して腹を立てているのか分からず困惑した。私が慌てて謝ると「ふん」と鼻を鳴らすだけで、それ以上は何も教えてはくれなかった。
父の唐突な怒りは、私が気を抜いた瞬間を狙ったように飛んできた。
「またその顔だ! その顔を止めろ! 何回も言ってるだろ!」
初めて父が怒っている理由を口にした。「その顔を止めろ」と言う父の言葉の意味が理解できなくて、後で茜に聞いた。父が怒るとき私はどのような顔をしているのか。
茜は言いにくそうに何度か誤魔化そうとしたが、しつこく食い下がってようやく教えてもらうことができた。
「目が時々開いていらっしゃるのです」
「目?」
「はい。半目のように薄く開いていることがあります。旦那様がお怒りになるときは、いつもそうです」
「……そう」
目が見えなくなってから、自分の姿を意識したことはなかった。見えていた頃は、父に相応しい娘であらねばならぬと思い、毎朝自分の姿を点検していた。私の視界が薄暗い闇に飲まれ、強い光を仄かに感じるだけになったことで、その習慣も断たれていた。
私自身は見たことがないが、私の目は白濁して瞳が定かでないという。その不気味な目を開けていることが父は気に入らないのだろう。
どうせ見えぬものならばと、私は光を捨てた。
どんなときも目を閉じ、父に相応しくあるため、微笑みを絶やさぬよう気を張り続けた。そうしていると、顔が微笑の形のまま固まってしまったように、勝手にその表情を浮かべるようになった。
父の唐突な怒りはなくなった。
けれど、私がミスをするとやはり烈火の如く怒った。
食事中が最も多かった。初めの頃はコップをよく倒した。フォークに刺した物が落ちても気づかなかった。フォークから落とさぬように深く刺そうとすると力が入って食器を鳴らしてしまい、それを怒られた。茜に相談して、スプーンですくえるものを多く出してくれるよう調整すると、好き嫌いをしていると言われた。
他にも廊下を歩いていても、お風呂に入っていても、朝身支度をしていても、すべて「遅い」と言われた。
父の他には、茜も他の使用人も何も言わなかったが、みな同じことを思っているように思えた。
コップを倒すこと。食事を落とすこと。それに気づかないこと。不用意に音を立てること。何をするにも時間がかかること。他のたくさんの出来事。
これらはすべて事実でしかなかったからだ。
夜、一人きりのベッドでたくさん泣いて、そのうちに泣かなくなった。
父が私の進学先を見つけてきた時、私は父の言うままに入学し、屋敷を追い出された。おそらくもう二度と屋敷に戻ってくることはないのだろう、という直感があった。
けれど、そのことが転機となった。
彩華女学院はこれまで視覚障害の生徒を受け入れたことはなかったが、私には非常によくしてくれた。設備が整っていない分、手厚くサポートするという約束を本当に果たしてくれた。
私の困難は一つずつ話し合われ、解決していった。
寮での共同生活が難しいとわかれば、お客様が泊まるための離れを一つ私に与えてくれた。
黒板の文字が見えず、ノートを取ることもできないとわかると、教師と一対一で、話を何度も聞き返すことができる形に授業を変えてくれた。何より、茜を連れることを許してくれた。離れで生活することは、私一人でもできるようになってきたと思うが、離れを出て校舎へ向かうのは一人では難しかった。白杖を使い知らない道を一人で歩くことが、私はほとんどできない。屋敷にいた頃は練習する機会がなく、ここに来てから練習を始めたが、まだ全然上達していない。補助がなければ私は離れを出ることも出来ないままだ。
学院の好意が私を生かしてくれているような日々。私の幸運はそれだけでとどまらなかった。幸運が立て続けに私のほうへ訪ねてくる。そんな毎日だった。
私が学院に来て、二週間程度が経った頃に夜の来訪者があった。呼び鈴が鳴らされたとき、教師か学院の方だろうと思った。生徒が訪ねてくることはこれまでなかったし、寮は夜間の外出を禁止しているからその時間帯に生徒が出歩くことはない。よくして頂いてる感謝も合って、私は茜をとどめて自分で対応をしようと玄関を開けた。
「どなたでしょうか」
そう言って、扉を開けたが返事はなかった。
「あの……。どなたかいらっしゃいますか?」
私は玄関を出てあたりに呼びかけたが、夜の闇が立てる草木や虫の声以外何も聞こえなかった。
おかしなことがあると、首を傾げて居間に戻ると台所から茜もやってきた。
「お手を煩わせ申し訳ありませんでした。どのような御用でしたか?」
「それが……」
私はことのあらましを茜に話す。
「それは」と茜が呟いた。険しい声だった。「お嬢様はここにいらしてください。私は離れの中を確認して参ります」
「いったい、どうしたの?」
「物取りが入ったかもしれません」
「まあ」と私は言った。そうした考えは一瞬も浮かばなかった。「でも、ここは学園の敷地内よ? 外からは簡単には入れないと思うけど」
「学園の外の人間とは限りませんし、外の者が絶対に入れないとも思いません」
「……そうかもしれないわね」
茜は一度玄関まで行き、雨戸を落とすための棒を取ってきた。
「お嬢様はここでじっと……」とまで言って茜は言い直した。「いや、一緒に来ていただいたほうが良いかもしれません。物取りが入ったとしたらどこに隠れているかわかりませんし、私と入れ違いになるかも」
「ええ、わかりました」
「私の左手を掴んでいてくださいね」
茜は右手に棒を、左手に私を抱える状態になった。もし泥棒と鉢合わせになったとき、その状態でどうするつもりなのかはわからない。けれど私を守らねばという強い使命感を持っていることは間違いなかった。私はその気持ちを頼もしく感じる。
私たちはまず一階の部屋を順番に確認していった。
まず台所を確認し、居間の物陰や物置の中を改めた。それから玄関に出てやはり物陰を探っていく。最期に居間とは反対側の廊下と共用のバスルームとトイレを確認する。結論として一階には誰もいなそうだった。
私と茜は二階へと上がった。
二階には階段をあがった右手に娯楽室が、左手には三部屋が並んでいる。一番奥に私の部屋。その手前を茜が使い、階段の近くの部屋はだれも使っていない。
二階の廊下には誰もいなかった。
私たちはまず娯楽室に鍵がかかっていることを確かめた。ここは玉突き台などで来客を楽しませる部屋だったが、私と茜には不要だったため、普段から鍵をかけていた。
それから右手の廊下に戻り、手前から順番に部屋を確認していく。無人の部屋には来たときからあるものが奥の壁際に積まれている。物陰は多かったが人の姿はなかった。茜がクローゼットとバスルームも調べたが誰もいない。茜の部屋も、空だ。彼女は私の前でも、躊躇うことなくクローゼットを開け中を改めた。
残すは私の部屋だけ。
部屋の前で茜が、
「入っても良いですか?」
と声を忍ばせて聞いた。
「ええ」
私も小さく返事をした。
茜が扉を開け、ぱちりと電気をつける音がした。
私は部屋の中を見ることができない。沈黙がしばらく続いた。何も音はしない。
「……どうしたの?」恐る恐る私は聞いた。
「いえ、誰もいないようです」
私はふぅと息をつく。
「ねんのため、クローゼットとバスルームも開けてよろしいですか?」
「ええ」
そこにも誰もいなかった。
結局離れには誰も忍び込んでいないということになった。私たちは戸締まりを確認して、眠ることにした。
結局あの呼び鈴はなんだったのかしら。寝入りばなにうとうととそんなことを思ってるときしりと何かの音を聞いた。
急に私は緊張して、ベッドの中で体を固くした。家鳴り、よね。離れは立派だったけれど、それなりに古い。柱や壁が音を立てるぐらい、当たり前のこと。私は忘れようとしたけれど、今度は静かに扉が開く音がした。私の部屋の扉だった。足音が近づいてくる。誰かが部屋に入ってきた。それを聞き間違えることはない。
私はなんの根拠もなく、入ってきたのが男の人であることを想像した。私よりもずっと大きく、抵抗もできないほど力に差のある相手が入ってきて、乱暴をされるのではないかと思い体に力が入った。
茜を呼ぼうと思ったけれど、喉が引き攣って声が出なかった。
足音はベッドの近くまで歩いてくると「おや」と言った。意外そうな声。そしてその声は私にとっても意外だった。
「起きているのかい?」
侵入者が私にこんな自然に声をかけてくるとは思っていなかったし、その声がこんなにも柔らかくかけられるとは想像できなかった。
声は明らかに女性だった。しかし、わざと低い声を出していて、少年のようにも聞こえた。
声の主は部屋の中から椅子を出してきて、ベッドの傍らに座った。それから「やっぱり見えづらいなあ」と言って「カーテンを開けても?」と私に断ってきた。私が何も言えない様子を確認すると、さあっとカーテンを開ける音がした。
「今日はいい月が出ているね」
声はそう言ったが、私の前に広がる闇にはなんの変化もなかった。
しばらくするとベッド際の椅子に戻ってきて腰を下ろした。
「驚かせて悪かった。最初はちょっとした悪戯のつもりだったんだけど、なんだか出てきづらい感じになってしまって」
悪びれるところなく言う。
「チャイムを鳴らしたのはあなたですか?」
「うん。そうだよ」
「なんで声をかけてくださらなかったのですか?」
「だから悪戯だね。でももうやらないよ。見つかったら殺されるのではないかと思った。なかなか忠義の厚い使用人だ。怖くて寝静まるまで出てこれなかったよ」
「いったい何処に隠れていたんです?」
隠れられるような場所はすべて確認したはず。私には見えずとも一緒にいた茜が見落とすとは思えない。
私の質問を声は笑った。
「この館については、まだ君たちより僕のほうが詳しそうだね」
「どういうことですか?」
「君たちをやり過ごす方法は実はいくつかあるということだよ」
私が黙っていると声は解説を始めた。
「まず聞きたいのだが、君たちは階段下の倉庫を調べたいかい? わかりづらいんだけどね、あそこには物置がある。来て間もないからわからなくても仕方がない。次にこの部屋を含めた二階の全部屋についてだが、君たちが使っている廊下とは反対側に使用人通路があることに気づいていないだろう? 屈まないと通れない小さなドアが全部屋にあるんだ。壁と同じデザインだからやっぱりわかりづらいがね。ここを使って行き来すれば、君たちの移動に合わせて部屋を移れるし、君たちが気づいてないならそこにとどまってもいい。ちなみに使用人通路には人が生活するには狭すぎる使用人部屋もあるんだが、君が彼女にその部屋を使わせていないことを知って安心したよ。使用人通路には急な階段もあって、正面の廊下に出ることなく、一階のキッチンとボイラー室とも行き来できるんだが、壊れていて補修もされてない。使わないとは思うが君からも使用人に使うなと言っておいたほうがいいね。他に隠れられる場所だけど天井裏もあるね。天井の板を外せるところがあるんだよ。点検口のようなものだね。屋根を外せるわけだから、物を使えば登ることができる。人が生活できる場所ではないが、一時的に隠れるには十分だね」
私は絶句した。
すらすらと私たちが暮らしている離れの秘密を明かされて目眩がする。私たちはつまり、全然建物の中を調べられていなかったということらしい。
「さて、僕はどこを使ったと思う?」
「わかりません」
「本当かい?」
声は楽しんでいるようだった。小馬鹿にされているようで悔しかった。
私は黙り込んで、どこなら彼が私たちをやり過ごせたのか考える。やり過ごすことならどこでもできるだろう。ただそれだけでは説明がつかない点があることに気づいた。
「一階の階段下は、ありえません」
「どうして? 君を避けて、玄関からすぐの階段下の倉庫に入る。これは一番妥当な流れな気もするけど」
「あなたは二階での私たちの行動を知っているからです」
「なるほど」
彼がもし一階に潜んでいたなら、なぜ私たちの二階での行動を知っているのか疑問が残る。彼は私たちが使用人通路と屋根裏を調べてないことを知っている。つまり私たちの行動を察知できる場所にいたはずなのだ。
「使用人通路もありません」
「なんで?」
「あなたは正面の廊下から入ってきました。使用人通路からではなく」
「それが理由? そんな狭いところから出てこなくても、君たちが使っていない部屋を通って、正面廊下に出てから、君の部屋にきたかもしれないよ」
「それはできません」
「なぜ?」
「空き部屋の使用人通路は使えないからです。空き部屋の廊下とは反対側の壁はものが積まれています。空き部屋に限っては使用人通路が使えないはずです」
「なるほど」
「私と茜が使っている部屋は私たちが部屋に戻ってからは使えません。わたしたちがそれぞれ部屋にいるわけですから。あなたは先程まで隠れ場所にいたようなことをおっしゃってました。一階への階段が壊れていることを信じるなら、あなたは使用人通路に隠れたら、正面の廊下に出ることができなくなります」
「ということは僕は屋根裏にいたのかな?」
「それも違います」
ほう。と彼はため息をつくようにそっと言った。
「屋根裏と点検口については知っています。細かな場所まで、私はわかりませんが、建物を管理する茜は当然その位置を把握しています。そこに登れるようなものが残っていたり、登れる可能性があれば、茜は必ず天井裏を調べたはずです。彼女が天井裏を疑わなかった時点で、天井裏はありえません」
「あっはははは。中々どうして、聡いじゃないか」
楽しげな声だ。
「つまりどういうことになるんだろうか?」
彼の言葉に私はもう一度考える。彼が示した3つの隠れ場所に彼は隠れていない。そのうえで考えられること。それは。
「可能性は二つあります」
「どんな内容なのか、気になるね」
「まず一つ目は、私の目が見えない以上、どうしても残るものです。けれど私は茜を信頼しています。彼女が私を裏切ることはありません」
「素晴らしい主従関係だ。たしかに、君の使用人と通じていれば、僕はどこに隠れる必要もないからね。君の使用人に黙って通り過ぎてもらうだけでいい。君たちの素晴らしい絆に誓おう。その心配はしなくていい」
彼がすっぱりと言った。その潔い言葉はなぜか信用に足りると思った。もちろん。何よりも茜を信じている上でだが。
「なら最後の一つです」
ふっと闇の中で気配が揺らいだ。見通せない闇を越えて、彼が笑っているのだと直感した。
「つまり、あなたはまだ私に明かしていないこの離れの秘密を持っているということです。あなたが先程列挙したもので秘密が全てであるという根拠は何もありません」
闇に向かって私は言った。
くつくつとその闇が音を立てた。
我慢しきれないというように彼が笑っている。
「これは本当に凄い」
その笑い声はこれまでの抑えられた声よりも大きかった。
突然、隣の部屋で茜が飛び起きる音が聞こえた。物凄い勢いで隣の部屋の扉が開く音がして、すぐに私の部屋の扉が開け放たれる。
「曲者お!」
「待って! 茜!」
私が制止すると茜が立てる音がピタリと止まった。
「しまった。しまった。起こしてしまったか」
彼はこの期に及んで余裕そうだった。むしろ開き直って、からからと笑い声を上げた。その声はやっぱり女性のもので間違いなかった。
「いや、夜分遅く失礼していますよ」
今更丁寧に挨拶をしたがどう考えても手遅れだ。自分を客だと遠まわしに主張しているつもりだろうか。
「そういえばご用件をお伺いしていませんでした」
「いや、特にこれといったものはなく。強いて言うなれば、噂の新入生の顔を見てみたかったというか、話してみたかったというか。ああ、あとこの館は少し前まで僕の隠れ家だったんですよ。急に使えなくなっちゃったんで、なんか名残惜しくて。ちょっと中をもう一度見たかったというのもあります」
「隠れ家?」
「そう。隠れ家です。もうご存知かもしれませんが、ウチの学校ってちょっと校則とか厳しいじゃないですか? それをやり過ごせる場所というか。羽を伸ばせる場所がいるんですよ。ここはそういう場所の一つだったんです」
「私は特段、校則が厳しいとも感じませんが」
「それは、貴方が特別な扱いを受けているからでは?」
「なんだと?」
その言葉を聞いて茜が気色ばんだ。
「茜」名前を呼ぶと、彼女はそれ以上なにも言わなかった。
「来てまだ日の浅い貴女にはわからないかもしれませんが、それなりに堅苦しいところですよ。ここは」
「学院からご好意を頂いているのは事実です。ですが、それは学院が生徒に寄り添い、悩みや困難を解決する姿勢を持っていることも表しています。例え、厳しい校則があろうとも、困難が付きまとうのであれば、学院は共に解決してくれるのでは?」
「正しいことをおっしゃっているのだろうと思いますよ。そしてその正しさがあれば、学院も確かに手を貸してくれるでしょうね」
「では何が問題なのです?」
「誰もあなたほど正しくはいれないということです。学院が貴女を特別扱いする理由もなんとなくわかります。紅緒。貴女は理想のお嬢様のようだ」
言外に見下したところがある。
「この学院通われるのは、みんな素敵な方々かと思いますが」
「僕やほかの生徒を足し合わせたって、きっとあなたの足元にも及ばないでしょうね」
彼は私の反論に取り合う気はないと言わんばかりである。
「……そうですか。いずれにせよ、もう要件はお済ですね?」
「ええ。たしかに、そうです」
「では、時間も遅いですのでもうお帰りください」
何が可笑しかったのか。彼が小さく笑った。人の神経を逆なでする笑い声だ。
「わかりました。そうさせていただきましょう」
彼が椅子からぎしりと立ち上がる。彼の足音が扉へと続いていく。私にわざとわかるように足音を立てている気がした。
足音が扉の前で止んだ。
「どいていただけませんか?」
「どきません。お名前を伺います。学院に報告させてもらいますので」
「さて、名乗るほどのものでは……」
「では学生証を見せてください」
「答えたくない、と言ったんですよ」
「ではどきません」
「まさか、使用人に直接口を聞かれるとは思ってもみませんでした」
「どう取り繕っても、今のあなたをお客様として扱うことはできませんよ」
「そりゃ確かに」
楽しそうに声が笑う一方、茜の怒りが高まっていくのがわかる。経験上、茜は相当怒っている。
「……茜」私が呼ぶと茜の怒気は一瞬で霧散した。「もういいから。その人を見送ってくれる?」
「……はい」
ふん。と勝ち誇ったように鼻を鳴らす声がやや気に触ったが、私は無視した。
「では、紅緒」と彼が私の名前を呼んだ。茜がかたりと音を立てたが彼は気にすることなく続けた。「また学校でお会いするのを楽しみにしています」
二人は部屋を出ていった後、階段へと向かう音がして、少ししたら茜だけ戻ってきた。
ノック音に「どうぞ」と返す。
「失礼します」
茜は部屋に入ってくるなり報告をした。
「追い返しました」
「そう。ありがとう。寝るところだったのに、ごめんなさい」
「いえ、私の方こそ……」
茜が膝をつく音がした。
「あのような者の侵入に気づかず、申し訳ありませんでした」
「頭を上げて、茜。もとといえば、彼を招き入れてしまったのは私です。茜はよくやってくれました」
「しかし、各部屋を確認したのは私です。私の不明によりお嬢様をあのような者と二人にしてしまいました」
「とにかく、今日はもう遅いから休みましょう」
「……はい」
茜は酷く気落ちして部屋へ戻っていった。
彼女が悪いわけではない。そのことを伝えて、気持ちを立て直してほしかったが、かける言葉がわからない。茜の忠義に応えられないことに憤りを感じた。
部屋に一人になり私は息をついた。自分の手が震えていることにようやく気づく。恐怖と人に啖呵を切った熱い興奮がまだ体に残っている。人にものを言い返したのは、何年振りだろう。その日はしばらく寝付けなかった。
彼が隠したままとなった、この館の秘密とはなんだろうか。彼は結局どのようにして茜の捜索を躱したのか。そのことを微睡の中で掴んだ気がした。
これが、彼との出会いだった。
この出会いをのちに幸運と捉えることになるとは思ってもみなかったことではある。しかし私は光を失ってから初めてできる友人とこの日出会ったのだ。
このことを純白先輩に話してみたことがある。
純白先輩はこの話を聞いて文字通り、絶句していた。
「なんというか。あいつの代わりに私が謝りたいぐらいだよ。なんて失礼な奴なんだ。というか完全に不法侵入じゃない」
「本当にそのとおりですね」
「わかってる? 紅緒。笑って許しちゃ駄目な話だからね」
「別に許してはないです」
このあと、文芸部の部室を訪れた彼は二人から冷たくあしらわれたのだった。
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