純白紗智の葬儀

セレモニーホールに一歩踏み込むと、あたりの空気が一気に切り替わった。雨で蒸す外の空気と比べ、建物の中は冷えていた。雨音が閉じた自動ドアの向こうに遠ざかる。

ホールにはいくつものざわめきがあった。私たちが進むと一瞬途絶え、またすぐに始まる。

学院で聞こえるものに似ていた。年頃の女の子が声を押さえて話す声。話の内容までは明瞭ではない。けれど言葉の穂先を向けられているのではないかと、肌が敏感になる。

学院の生徒が来ている。それも多く。私は顔に浮かべる微笑を少し意識して柔らかくする。

全く知らない未知の闇の中を黄路さんの肘に捕まってどんどん奥へと進む。ふと黄路さんが止まった。

「紅緒さん。記帳台よ」

「ありがとうございます」

私は鞄から御香典を取り出し、慎重に向きを確認してから「このたびは……」と決まりきったことを言った。

私の数メートル先で闇が揺らぐ。誰かいるのだろうとわかるが、それが純白先輩のご遺族なのか、それとも葬儀屋のスタッフなのかはわからなかった。

「足元の悪い中、ありがとうございます。お越しいただいて紗智も喜んでいます」

湿った女性の声だった。どこか先輩を思わせるけれど、年頃はやや高く感じた。もしかすると先輩のお母様かもしれない。

「生前、先輩にはとてもよくしていただいたんです。女学院に慣れない私を助けてくれて」

「そうでしたか。あの子はよく人を思いやることができる子でした」

「ええ」

「ぜひあの子の顔も見ていってください」

私は口淀んだ。こういった言葉になんと返すのが当たり障りがないのか、未だにわからない。

「紅緒さん。ホールまで行きましょうか」

黄路さんがそう言って、私は今話した方がいるほうに向けて軽く頭を下げた。しかし私たちが立ち去るよりも前に後ろから声がした。

「記帳、忘れてる」

私は驚きの声を飲み込む。

志安さんはずっと私たちの後ろにいたらしい。私の前に出ながら「書けばいい?」と聞いた。私は一歩下がってスペースを開けた。

「お願いできますか?」

「わかった」

少し早くなった心臓を落ち着けるように何度かゆっくり呼吸する。

玄関で聞いた志安さんの気配は、ホールを進む中でわからなくなっていた。どこかに行ったのかもしれないと思っていたが、物静かな彼女の気配は非常にわかりにくい。

志安さんが書き終わったのか「それじゃあ行きましょうか」と今度は黄路さんが急に歩き出した。掴んでいた肘が急に闇の中に失われ、私は思わず「あの、黄路さん!」と声を出してしまった。

黄路さんはすぐに気づいて戻ってきた。

「ごめんなさい。急に歩き出してしまって。けれど、紅緒さん。ここは先輩とお別れをする場だから、声を少し抑えてね」

「……失礼しました」

かっと自分が赤くなるのがわかった。

私は狼狽を取り繕う。人に叱られると父のことを思い出した。

「だらしない奴だ!」

そう怒鳴る父の声は未だに耳の奥に残っている。

ずっと父には気に入られていないとわかっていたが、目の問題は父と私の関係を決定づけた。

それから黄路さんはゆっくりと進んでくれた。

足元が硬い石の床から柔らかいカーペットへと変わわる。香の匂いがする。

「椅子があるから気をつけて」

「ええ、ありがとうございます」

「棺のところまで行ったほうがいいかしら?」

「お願いできますか?」

「ええ、もちろん」

黄路さんはまっすぐ進んだ。進む道の両脇から無言の人の気配がする。ときには遠くから啜り泣きが聞こえてきた。進む距離が、先輩の死を悼む人の数を表していた。

いくつもの人の気配を通り過ぎる。非常に長い距離を進んだ気がした。それから何かをかわすように大きく右に膨らむと何段か段差があった。黄路さんは先に私に注意を促してくれる。段差を登り黄路さんはようやく足を止めた。

「着いたわ」

私は黄路さんから手を離し、ゆっくりと前の空間を探った。腰の高さあたりでコツと手が硬いものにあたる。木の表面だ。さらさらと乾いている。その手を上に上げていくと木は途切れた。今度は奥にむかって僅かに感触があり、またすぐ途切れる。

棺の縁だ。私は棺の縁を強く握った。

何も見えるはずもない。なのに私はそこに先輩が横たわっていることを強く感じた。顔も服装も私にはわからない。けれど確かに、大切な人がそこにいることだけがわかる。

涙が、溢れそうだった。私の目はもう何も映さないのに涙だけはまだ出すことができる。何のための涙なのだろう。見えない目を守る必要なんてないのに。

「どんな、お顔ですか?」

「笑ってるよ」と黄路さんとは反対側から志安さんの声が言った。「死んだ人間は葬儀屋がいつも笑わせるから」

「志安」と黄路さんが嗜める。

「純白さんはこんなふうには笑わない」

「いい加減に……やめなさい……」

黄路さんの声は微かに震えていた。

私はまた黄路さんの肘に捕まって、参列者の一番後ろまで戻って通路の近くに座った。

少し離れたところから、押し殺した啜り泣きが聞こえた。黄路さんがその隣へといくのがわかった。

「マジェンタ。大丈夫よ。大丈夫」

黄路さんのささやく声がして、啜り泣きは一瞬止まったけれど、決壊するように少しだけ激しくなった。

誰もが先輩の死を悼んでいる。本当に多くの人が駆けつけているように感じた。

「志安さん」

「何?」

「どれぐらいの方がいらしてるんですか?」

「ものすごくたくさん。わたしもこんな大きな葬式は初めて。中等部の子も来てるみたい」

私は大勢の中にいるのだと知って緊張した。人混みに飲まれるのは私にとって巨大な恐怖だった。近くには彼も茜もいない。黄路さんと志安さんと入口で出会えなければ、私はここまでもこれなかったかもしれない。

重苦しい雰囲気の中、告別式は始まった。何人かの人たちが先輩との思い出を語り、人柄を称え、死を惜しんだが、先輩がどのような最期だったのかはみな一様に口を閉ざした。

自殺をするような人ではなかった。しかし事故と信じるのは、大変な困難があった。純白先輩は生徒会室で朝に見つかった。毒を飲んでいたらしい。

生徒会に入っているわけでもないのに、どうしてそんなところにいたのか。いくつかの謎はあったが、どうもカップに紅茶を入れたのは純白先輩自身らしい。同じ毒が寮の部屋からも見つかったという。それに遺書も。

告別式が終わると私は黄路さんに茜を呼んでもらった。告別式の間ずっと泣いていたマジェンタに声をかけたかったけれど、彼女の悲しみを深くするだけのように思われ躊躇った。

ずっと外に出れば彼が待っているのではないかと思ったのだけれど、誰も私には話しかけて来なかった。

他の人が語る先輩は、まるで知らない人みたいに感じられた。私と同じ悲しみを覚えているのは彼だけなのではないかとさえ感じた。

彼と二人で来たときの揺れるバスは平気だったのに、帰り道は丁寧な茜の運転でも私は気分が悪くなった。

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