純白紗智の手記 1

文芸部の部室は古い紙の匂いがする。

本に親しんだ私にとっては嫌な匂いではないし、六畳程度の部室は広くはないが、決して狭くもない。

専用の書庫をもっているだなんて考えればむしろ立派にも思えた。長方形の部屋は、長い辺二つが書棚で埋まっているのだから、数千冊は本が入る。

三年が入れる寮の部屋は個室だったが、そんなに大きくない。だいたい同じくらいの広さがある部屋を独り占めできているのは非常に幸運なことだった。

部員が一人であれば、年に一度出している文芸誌も言い訳次第で作らなくてよいかも。

古い伝統ある部が、途絶える一歩手前まで来ているわけだが、所属する人間にとって悪いことばかりでもなかった。

私は窓際に椅子を出して、本を読んだり、校庭で練習をしているサッカー部を眺めていた。

如何にお嬢様学校とはいえ、運動を好む子ら一定数いる。運動部の数はやっぱり少なかったが、それは校庭を取り合いもせず広く占領できるということでもある。

純白ましろ先輩ー!」

一度だけ練習中のマジェンタが遠くから手を振って呼びかけてきたので、私は手を振り返した。人懐っこい彼女は日に一度はこうして呼びかけてくる。きっと今日も練習で良いプレーができたのだろう。

とはいえ課外活動の時間の間ずっと一人でいることに気疲れを感じていた頃、とある二人が部室に転がり込んで来た。

奇妙な二人、といっていいだろう。

私は窓際を離れた。

片方は学内で噂されている新入生。もう片方は……。いや、ここでは詳しいことは伏せておこう。女学院でわざと低い声を出して「僕」と一人称を使う変わった生徒だ。

紅緒べにお」と彼は(あえて「彼」と呼ぼう。)新入生の名前を呼んでいた。新入生をいきなり名前呼びだなんて、馴れ馴れしい。淑女育成に心血を注ぐ教員たちが聞いたら卒倒しかねない軽薄さだった。

「ここなら、人の出入りも多くないけれど、どうだろうか」

「何か、匂いがします」

いたいけな少女を不審なやつから守らなければと思い私は二人の会話に割って入った。

「古い紙の匂いだ」

紅緒は驚いたように顔をあげ、まっすぐに私のほうに顔をむけた。あまりに自然で目が見えない人間の動作とは思えないほどだった。

「部員の方がいらっしゃったのですね。あの、勝手に入ってしまって、すみません」

紅緒は恐縮してその場で頭を下げる。一方で彼は、

「構わないよ。紅緒。この人は心が広いから。ね、先輩。見たところ、一人で過ごすには部屋も広いみたいだ」

「そうだね。私の心はこの部屋程度には広いよ」

先輩ねえ。と私は思った。あながち嘘でもないわけだが。彼は明らかにこの状況を楽しんでいた。

「ここを使いたいなら好きにすればいいよ。文芸部に入りさえすれば、その権利がある」

「もちろん。そうなりますよ。紅緒は何か課外活動に入りたいらしいんです。文芸部はうってつけだと思いついて、つれてきたんですよ」

「まあ、構わないけど、本は点字で読むの?」

「ええ。点訳された本で読むこともあります。ただ最近では読み上げのサービスで聞くことのほうが多いです」

本を読み上げるサービス!

なるほど、そんなものがあるのか。見聞の狭い私はそんなサービスがあることも知らなかった。

「どうしてもそういったサービスがないものは、茜に読んでもらうことも、たまにあります」

茜というのが、彼女の付き人か。

彩華さいか女学院に入学するのは、裕福な家庭の娘ばかりだ。実家に戻ればみなお嬢様だが、全寮制の学内にまで執事やメイドを連れてくることはできない。学内では立派に一人で生活しなければならなかったが、その例外がこの年うまれた。

目の見えない紅緒には、普通の寮での生活は無理なのは明らかだ。彼女は迎賓館の一つに住まうことが許され、世話する付き人を連れてくることも許された。授業も板書を前提とした内容ではついていくことができない。どうやら教師とマンツーマンで個別授業をしているらしい。紅緒の学生生活は例外だらけだった。

生徒はみな、良家の子女としてのプライドを持っている。それを平等にただの生徒として扱われる中、たった一人、自分たちが実家で受けるような特別対応を享受している者がいる。紅緒に関する女生徒たちの間で取り交わされる噂は決して良いものではなかった。

紅緒が入部するとなると文芸部もどのような目で見られるか……。まあ、それは割りとどうでもいいか。むしろ文芸部に囲い込むことで、守れることもあるだろう。だが、それは紅緒と他の生徒との間に溝を作ることにもなりかねない。

「まあ、君がいいならいいけどね」

私の呟きに紅緒は首を傾げたが、彼は音もなく笑うだけだった。

「後輩くん、紅緒さんは目が見えないのだろう。ここを使わせたいなら片付けてあげなきゃいけない」

紅緒の入部が決まりなら、まず大事なのは彼女が過ごしやすい空間であることだろう。書棚の前にはところどころ平置きで本が積まれており、紅緒が行き来するには明らかに危険だ。

「確かに。ここはバリアフリーとは言い難いか」

「すいません。ご面倒なら……」

「片付ければ済む話だし、連れてきたんだから、後輩くんが責任を持ってやるんだろう。別に構わないんじゃない」

「そんな、先輩も手伝ってくださいよぉ」

「あの、私も手伝います」と紅緒が挙手をした。

「危なくないの?」

「時間はかかってしまうかと思いますが、不要になった束を紐で括るぐらいはできると思います」

私と後輩くんは目を合わせた。

「わかった。でも片付けが終わるまで、当面の間は一人で部屋の中をうろついてはいけないよ」

私の返事を聞くと紅緒は嬉しそうに笑った。

「はい!」

それから「あの」と恐る恐るまた挙手をした。

「どうしたの?」

「あの、先輩もお名前を教えてはくれないのでしょうか?」

「ああ、ごめんね。名乗りもせず無礼をしてしまった。私は純白。文芸部の部長だよ」

「純白様。とても綺麗なお名前ですね」

そう言って、紅緒は居住まいを正した。

「私は七村紅緒と申します。どうぞ紅緒とお呼びください」

「よろしく。紅緒さん」

「はい」

私と紅緒が順に名乗り、私と紅緒は自然と後輩くんを向いた。

「やっぱり、名前は教えていただけませんか?」

「いやいや名乗るほどの者では」

後輩くんは名前を出さないままこの場をやり過ごす気らしい。

彼は私をちらりと見た。助け舟を出してほしいのだろう。けれど私は無視する。

紅緒が根負けした、というふうに大きくため息をつき、後輩くんは粘り勝ちしたということになった。

それから私たちは手分けして部室を片付け始めた。

私と彼は床に置いている本をなんとか棚に詰め込み、もう不要だと思われる古い本や昔の先輩たちが発行した過去の文芸誌もねんのため二部ずつ残し、他は縛って捨てた。

紅緒は最初こそ手探りだったが、すぐに人と変わらないほどの手さばきで本を縛った。目の見えない紅緒はできないものだと決めつけていたが、私はその間違いを認めなければならなかった。

それからしばらくは部室に彼らが来ると三人で部屋の片付けに精を出した。いっぱいだと思われていた本棚も片付けると棚の二割程度は空きもできた。

紅緒はその頃には部室の中を他の人間と変わらないスピードで歩いた。手探りだったものが、着実にスピードを増していきら本当は見えているのではないかと思わせるぐらいになった。

私と後輩くんは彼女の代わりに入部届を書いて顧問の灰谷先生に提出した。こうして文芸部は二人になった。

おそらくだが紅緒が彩華女学院に来て、最初に持った生徒との接点だろう。(正確には後輩くんが先だが)

これが彼女にとって転機となり、学校に少しでも溶け込めればよいと思う。そうすれば、彼女のことを陰で話す乙女たちも少しは口を慎むようになるかもしれない。

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